やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

体験

 

気づくことなく知っている身体

ここにたくさんの人が行きつくのは、すごくおもしろい。 それは、既存の「知る」とか「考える」とかの共有された概念では汲み尽せないところを考えさせてくれる……なんて都合のいいもんじゃない。そんなによくない。ロマンチックではあるけど、残酷な話だ。

既存の言語を他者とする、控えめに言い直して、「それ(言語)は私ではない」と線引きを試みると、待っているのは断絶なので私は残酷と書いた。既存の言語が書けなくなり読めなくなるのはしんどい経験だと思う。既存言語という他者に「さよなら」を告げるのは(執着系の)愛の話で、今までせっせと既存線でもって構築してきた自分にさよならを告げられるかどうかの物語。私の私への愛、私たちの家や街を捨ててさよならするなんて、私だったら、話せる自分や読める自分を捨てるなんてもったいなくてできない。できるわけないよ。自ら書けなくなり読めなくなるのを望むだなんて、不可能と思う。

ええと、捕捉すると、頭で知る考えるにさよならして身体に向かうってのは、言語を他者とすること。他者とするとは、既存言語が読めなく書けなくなること。

たとえば、他の人たちは「それ(捨てる)をやるには一つのやり方しかない」と描いている。私は本当に?と疑いながら、そうかもしれないなと思う。

あれ?なんで通じる言語を捨てなきゃいけないのだっけ?

ええと、既存の言語の中でだと、その中のことしか考えられなくて、外に出られないから。外なんてあるの?という問いもあるけど、たぶんあるんじゃないかな。

戻って、「一つのやり方」のこと。

それは自分の外にある何かを守る(移る)というやり方。他人でも集団でも事物でもなんでもいいが、そういう外のものを守るのに自らを捨てなきゃいけない場合がある。そのやり方で捨てる。そういう体験はなかなかできないので物語が担ったりしてる(外のものは外のもの。それを守ることによって自分も救われるような偽の外ではない)。うーん、たとえば……ダメだ、たとえ(物語)が浮かばない……。豊臣家を守ることだけ考えてた石田三成は廻りの人たちの協力を得られなかった。石田には徳川が豊臣を滅ぼす未来の事実が見えていたかもだが、あの時点では、たくさんの人たちにとって都合のいい現実、「石田こそが豊臣の反逆者」となってしまった。石田にしてみると「おいおい、なんで事実が読めないんだよお前ら」なんだけど、他人からは「貴様こそ現実が読めてない」ってなっちゃう断絶の残酷。……とりあえずこんな感じ。

わたしなりに簡単に書くと、自己愛の外体験、かな。

話せなく書けなく、読めなくなるのは自己愛の外体験。話せる話されたい、書ける、読める読ませられる、そういう根本的な間主体性を流通させ保存し続けたいという望みの外側にそれら(外体験-身体)はある。そして、外において、線の内を観察するための単位や体系をゲットするというのが、このやり方の大筋なのだそう。既存言語で組みあがっている概念塔の隣に別の単位で組みあげる概念塔が立つと、二つの異なる体系で世界線を観察できるようになるんだってさ。

……こういう線のひき方はめんどくささがある。

既存線の背後に異なる概念線が走ってる……その概念線は読めず書かれず話されずなので、どうしても断絶してしまう。「そんなのない」と言われればそれまでなんだ。

「いいえ、「ある」わ。あなたには見えないだけ」

「あるのなら(既存線で)証明してみせろ」

「説明してみせろ」。説明も証明もあなたの線ではできないし、するべきでない。読めないものとして存在させて継承していくしかないのがこの物語のめんどうなところ。わたしにも、わたしの体験以外のところは、見えないのでよくわからない。でも、現実にそういう線がありえたとしても、なかったとしても、どちらでもかまわない。どうでもいいってことはないけども。

わたしはこういう感じで見てしまうからネットは嫌だなあと思う。話せて書けて聞けて読めると信じてる人たち。その信仰を対象化できない、自分が信じていることが見えない、そういう言葉の内側の人が「宗教を信じるなんてばからしい」なんて書いてるのを読むと、内に囚われた鏡の私が「うわーマジか」ってなる。自分が読めたり書けたりするのは信じてて、丁寧に説明されればなんでも理解できる頭脳の持ち主だって信じてるくせにって。対象が別なだけで信仰は同じだよ、私には宗教よりもたちの悪い風に見えてる。必要な性能は備わっている、分からないことはまだ伝わっていないだけだと安らかに信じてるくせに信仰を非難するの、嫌だなあって思っちゃう。そうであったらいいなとわたしも望む、わたしもわたしに必要なことは既に備わっていて、知るべきことは伝わってくると信じたい。でも実際には、どこから陸でどこから海か曖昧な渚なんだろうね。

 


 

渚、振動、回転。
「外」はそういうものとして描かれたりする。

言葉自体が広く通じてる隠語だと思えば、外の人たちが異なる隠語で話していたとしてもありでしょう。破線の隠語もあり。あんまり、気づきとか分かるとか知るとかのパキっとした線の語に囚われると、どっちが加害者でどっちが被害者か決めて、式の上で無限大の分数パワーになっちゃうからやめたほうがいい。「傷は治るが痛みは消えない」ってやつ。復讐心は線に従属して無限パワーになる。線から生まれるパワーは大切なんだけどさ。

 


 

「知らない不安」は知らない不安ではなくて、「誰かが知っているのに私だけが知らない、そういう状態の不安」ということ。みんな全員一緒に知らないのであればそれは不安になり得ない。知と不安は何の関係もなく、知らないことで不安になったりはしない。同様に不安が知によって慰められもしない。なのでわたしは、みんな全員一緒に知らないことへ向かい、それを知ろうとする望みを過去の人たちがどうやって得たのかなと想像する。だいたいは不安が解消されればそれでいい、わたしもそう。興味は「全員一緒に知らないこと」へはなかなか向かわない。望みが狂ってないと向かわないというか、現実離れしないと向かわないというか、なんだろう。暇だったのかね。

望みが「全員一緒に知らないこと」へは向かわない。言い換えれば、伝えたり伝わったりすることにしか望みが向かわない。これだと知は停滞しちゃうのだけど。それは今までだってそうだったろうし、それを個人の根性とかに還元されても困る。現実の自身の政治的な慰めや不安の解消をわたしは望む。けれども、ここまで来たら進めるところまで欲張って進んでみたい。現実も事実も両方ともなんとかしたい。慰められもしたいし読んでもみたい。ワクワクしたい。わたしがワクワクするのは、読めない伝わらない、異なる思考回路で組み上げられた事実に出会ったとき。読めないものを読もうとするとき、わたしはわたしの回路を変身させる機会に喜ぶ。だから、「伝わんなくていいや」って書いてある文章が好き。主観や身体が書いてあるのがいい。芸術家の人たち頼みます。流通するしくみと折り合いをつけながら、読めない伝わらないをそっと、わたしだけにちょうだいな。