やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

普通ね


「最後に爪が綺麗だったのはいつか思い出せない」

テレビゲームの話。わたしは入植者を集めて新たな街をつくっているのだ。彼らには農作物を育ててもらっている。住人たちは土をいじりながら「毎日激務だ。一生同じさ」とぼやいている。ふふふふ。みんな愚痴っぽい。リアルだなあ。せっかく敵をやっつけて新しい街をつくってあげたのにさ。街をつくって初めは「この機会をくれてありがとう」「なにか俺たちにできることはないか」って協力的だったのに。じゃあ農業をやってねってお願いしたら「よろこんで」って言ってたのに。現金なやつらめ。でも、わたしは彼らを守る立場にあるので(わたしは民兵組織のリーダーなのだ)敵が街に攻めてきたら守る。防衛に成功するとそのときは感謝してくれる。そしてまたすぐ愚痴っぽくなる。そんなもんだよね。

困っている人たちを助ける。そういう方針を貫いている民兵のプレストンはいい奴だ。軍隊に所属してるダンスに言わせると「民兵なんかに権力をもたせるとろくなことにならない」。うーん。困っている人たちは誰かっていうと弱い人たち。プレストンたちが強くなればなるほどおかしなことになるのは目に見えているんだよね。弱い人たちが強くなる。被害者権力だっけ?そういうのを思い浮かべてげんなりする。じゃあダンスたちはどうなのっていうと管理主義。正義で力を管理するんだって言ってる。ダンスたちの忠誠心はとても美しい。彼らは信じる正義のために自らの命を投げ出すのを厭わない。利他的なんだ。ダンスもすごくいい奴なのさ。

でも、正義に忠をつくすダンスたちは美しい自分たちに酔ってるとも言える。利他的な自分たちに酔ってて地に足が着いていないとも。翻って民兵たちは草の根で、困っている人を助けるっていうのは本当にいいと思うんだけど利己的なんだよね。ビジョンのないその場しのぎ。敵が来たら追い返す。愚痴りながら農作業。また敵が来たら追い返すの繰り返し。対処療法だけで原因を探求して対策したりあるべき理想を掲げたりはできない。自分たちの今日の生活しか考えてない。

 


リアルや。守るものが異なると見える景色がちがうっていうね。面白いな。プレストンもダンスも一緒に旅をしたわたしから見たら仲間なんだけど彼ら二人だと相容れない。プレストンとわたし、ダンスとわたしは仲良くできるが、守るものの違う二人、プレストンとダンスは仲良くできない。

 

物語は人を描いてるけど、作者さんたちはどのくらい人を知っているのだろうかとよく考える。多くの人が「私のことは私しか知らない」なんて言ってたりするが、人の式を人は知っている。少なくともリアルに模写できる程度に人は人を知っていて、そうじゃなきゃ物語なんて描けるわけないのだけど、なんだろう、まだ心とか精神とか呼ばれるものは神秘的というか聖域と思っている人たちがいて、変な風になってるのだろうか。

「知る」というのがどういう行為を指すのかの定義問題でもある。わたしは描けるってことは知ってるんじゃないの?と思うが、そこに線をひいて描くと知るは違うってすることもできるだろう。もしも「知る」が流通することだったら他人は私を知らないと言うこともできる。わたしは知ると伝えるは異なる理念だと思っているので、知ってても伝わらず伝わってても知らずというのも普通だと思う。なにかを、他人に伝えられる形に翻訳はできないが、知っている。そういうのもありだろう。

幼いころから通じる訓練、伝える訓練を受けてきたわたしたちは伝達以外のビジョンを持ちにくいとも言えるか。

さっきid:letofo さんの文章を読んだら「なんにしても一般を知りたがる」と書いてあって、そう、なにが普通なんだろってまた思った。わたしが絶対に食べられないものをおいしいと食べる人たちもいる。わたしは倒錯を知るや伝えるや守るにも拡張しているから、息子の手紙を待っている老いた母親と手紙を書かない息子を思い浮かべる。息子は手紙を書く暇がないくらい忙しいこともあるだろうし、もっと残酷に想像すれば、息子は手紙を書くのが大嫌いってのもありえる。手紙を書くとじんましんが出るとか。欲望が違うとどうにもならん。田舎の母は届かない手紙を待ち続ける。

むかしイギリスの作家が記者たちの前で「あなたたちが賢い犬だとするなら私は一匹のきりんです。私にはあなたたちの話している言葉が理解できない」と言ったそう。欲望が違うと言葉も通じなくなる。少なからず「伝わんなくていいや」という倒錯した欲望の人たちがいて、そういう人たちの欲望を追跡するのは面白くて、思いもよらぬものを追い求めてたりする。違ったビジョンを持ってる。

日々の生活を守るプレストン、正義を求めるダンス。そんな異なる二つの欲望の間でわたしは困っている。どっちの味方をするべきか。伝えたい人たちと伝わんなくていい人たちの間でも困る。手紙を待つ母も困っている。手紙をだしてくれと息子に求めるか交渉するか。情に訴えるのが定石だが息子に情がなかったらどうしよう。

なにが普通なんだろう。わたしはわたしを一般的だと、普通だと思っているが、わかんないことを追跡し続けたせいでわたし自身がわけのわからんものになってる可能性もある。ミイラ取りがミイラになるみたいな。

 

 

 


 

 

歯医者さん

 


「痛かったら手をあげてくださいね」

歯医者さんがそう言ってくれた。しかし我慢強い私は痛みに耐えていた。のど飴を舐めすぎてしまってのがいけなかったんだと思う。冷たい水が奥歯でしみるようになった。治療に少しくらいの痛みはつきもの。そのうちもっと医療が進歩して痛みなく治療できるようになるかもしれないが、そうしたらみんな歯磨きするのだろうか。いや、するだろ。でもあれ。歯の治療が痛くなくなるを通り越して気持ち良くなったらどうだろう。痛い!今、痛かった。でも痛みは一瞬で通り過ぎて行った。こういうときは手をあげた方がいいのか。わかんない。わからないからやめておこう。

もしや私みたいに我慢してる奴がいるから歯の治療は進歩しないのだろうか。もっとカジュアルに痛がった方がいいか。でも負い目がある。ちゃんと歯磨きしておけばよかった。でも風邪をひいてのどが痛くてどうしようもなかったんだよ。

それも体調管理できなかった自分のせいか。自己責任がグルグルしている。歯医者さんは虫歯を治すという結果だけを請け負っているのか。治れば、結果として治りさえすればプロセスはどうでもいいのか。そんなはずない。できるだけ痛みなく治療しなくちゃ患者さんは別の歯医者に行く。そこは業務努力というか営利活動の掟というか。私がここで痛いのを我慢したあと「あそこの歯医者すっごい痛いんだ」って口コミで広げたら困るだろう。いたい!ああ、でも最初に手をあげてって言われたんだ。だから手をあげればいい。でもタイミングがわかんないんだよなあ。そのへんさあ、お医者さん側で「これやったら痛すぎるなヤバいな」って分かってるでしょう。分かってなきゃおかしいよプロなんだから。

いやだからもっとカジュアルに痛がっていいんだってば。でも過ぎるんだ。ちょっと我慢したら大丈夫なの。ずっと痛いわけじゃないの。なにこれ。もしかしてこれを狙ってちょいちょい痛くしてるの? ちょっと痛くして少し間をおいて、そんでまた痛くしてって、意図して手をあげるタイミングをわからなくしてるの?もしそうならなんて悪どいんだ。ひだおい!ひどい!最初から手をあげさせる気なんてないんだ!