やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

目玉がすぽっと

 

トンボを見た。トンボを見るのはいいね。見てても何を考えてるかわかんなくてこっちも答えが落っこちる。童心に戻れたかな。子供はトンボを読むように本も読めるけど大人になるとそれはなかなかできなくなる。どっぷりと間主観性沼に嵌ってるので読む前に自分でトンボの答えを用意しちゃう。見るまでもないというやつだ。

わたしもよく「見るまでも、読むまでもないな」と油断してる。わたしのトリセツという歌があった。トリセツ、性格、仕様が変わらないなら油断できる。

変わらない性格、性格の檻についてよく考える。一つの身体に一つの性格とだいたい決まってるのはなんで? たくさんの性格でいろんな体験ができたら面白いだろうと思うけど、それじゃ脳がパンクしちゃうのかな。性格の檻について考えるとわたしは映画の魔女の宅急便を思い出す。キキはいろいろあって性格の檻に閉じ込められてしまうが、お姉さんの絵を見て「あなたの眼に世界はこんな風に映っているんだ」となって檻から脱出する。絵を見る体験は目玉の交換魔法みたいなもので、キキの目玉が落っこちて代わりにお姉さんの目玉が空洞だった眼窩にすぽっと嵌る。わたしはこういうのを「出会い」と名付けている。わたしのイメージ「出会い」はその辺の体験全体。いっかい真っ暗になるのも含まれる。

もしもキキがわたしみたいに「見るまでも、読むまでもない」と油断していたら、眼球移植魔法は失敗してただろう。出会わなかったと思う。大人になると出会わなくなる。それは口の中の眼という風に描かれたりする。眼がグルメになり好き嫌いがはっきりして目の食欲が増す。トンボの複眼がわたしに嵌ったら何が美味しそうに見えるかな。

 

世界の見え方が人によって異なる、その異なり具合によってはとても怖いはず。キキとお姉さんはたまたまハッピーだったが、それこそ「隣人は人造人間かもしれない」というSFみたいなこともある。なので文章を読んだり絵を見たりして恐くなるときがあっていいのだけど、わたしはあんまりない。「ひょえー!」と驚いたりはするが。トンボもよくよく見ると恐いんだけど、どこか他人事で鈍感なのもあって恐くなったりはしない。ネイバーとボーダーが面白いのはそこ。グッドネイバーと思って油断していたが、実は隣人の正体は私たちの理解線を越えるものだった。そんな感じ。わたしの目玉を引っこ抜いてくれ。たのむぜ隣人たち。わたしをお姉さんの絵に出会うキキにしてちょうだいな。そんな他人ごと、鈍感な目玉すぽっと。

 


id:sotononaka さんにブックマークコメントをいただいちゃった。ありがとうございます。わたしも sotononaka さんの文章ふむふむと読ませてもらってます。わたしも物語を描きたい、描けたらいいなと思っているからね。羨ましいなと思って読んでます。ジャーンとギターみたいな、そういう文章の音についてわたしは本当に疎くて、音や匂いがある文章はいいなって羨ましくなる。言葉に意味がまとわりつくと面倒くさくてうるさいし重たい。それはわたしのうるささ、面倒くささで、そういうやっかいごとも好きなんだけどさすがにやっかいごとばかりだと疲れる。意味は点滴みたいなもんかな。いくら栄養不足でも点滴だけではちょっとね。わたしはたまに文章の中から意味を取り払って読んでみたりする。そのあとに文字の色だとか音、温度、食感みたいな、印象が残る文章じゃないと。あとなんだろう、繋がりとか継ぎ目とかかな。そういうのが残んないとやってらんないって思う。ポッキーはチョコレートと小麦粉とバターじゃなくてそれらがアレンジされたポッキーだよ。? とにかく文字は筆にもなるし槍にもなるが槍として使いがちなので筆にするのはけったいなことだ。筆にするなら色とか食感も大切な要素になる。槍じゃなくて剣かな。切り分けるという意味で。