やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

ノーベル文学賞、カズオだって

 

字面だけだとサザエさんちのカツオくんが浮かんできちゃって、「磯野やったな!」って泣いている中島くん。師匠兼ライバルとして見守ってきた伊佐坂先生も感無量。ノリスケさんの勤めている出版社はてんやわんやだ。外国にいるカツオくんから波平さんへ電話がかかってきて、もしもし?なに!受賞を辞退する?バッカモーン!までがアバンタイトル。メロディーにのって「カツオ、ノーベル賞を辞退する」。あけて「カツオくんらしいや」とマスオさん。

 


 

ウィキペディアノーベル賞のページを読んでみた。歴代の文学賞受賞者の一覧を眺めて聞き覚えのある名を探してみたりした。ベケットは読んでみたいな。いつか読もう。でも小説ってとっつきにくい。漫画やアニメやブログの中にある文学のエッセンスみたいなのもわたしは好きだな。以前に進撃の巨人をアニメで見たけどすごく文学だった。境界線の内と外のこと、人と社会のこと、うわーと思いながらワクワクして見てた。テレビドラマやゲームの中にだって文学はあるじゃん。ボーダーレス、ジャンルの境界を越えて遍在する文学ね。わたしはそれを人の営みだと決めつけてるからあたりまえか。人の営み=文学で、それが精密に描かれることだとわたしは決めつけてる。壁の外にわけのわかんない巨人たちがいる。無垢な欲望が境界を越えてきて壁の内側の秩序に守られていた人々を喰らう。それって、まるで私たちって思う。

 


 

「わたしは思う」を全て「決めつける」に代えよう。

言葉はみんなの共有物だけど、たとえば、「文学」が指すイメージはみんなとわたしで違ってる。たとえば、愛憎なんて呼ばれて愛が憎しみに変わると言われるけど、わたしのイメージではそれは変わっていない。わたしの決めつけでは愛/憎は愛=愛。愛の領地を示すのに愛(x)=愛(y)の式を使えばもっとわたしが納得できる。憎しみだって愛さ。でも、みんなの優しさにわたしの言葉は負ける。わたしがいくら「憎しみだって愛さ」と述べたところでみんなはみんなで共有してる言語の秩序を守るから、わたしの負け。たくさんの人たちが愛は愛、憎しみは憎しみだよって言って、壁の内側のみんなを優しく守ってあげている。既存言語の秩序VSわたしの決めつけ。それは愛/憎を分かつ境界線を愛してるからだよとわたしがしつこく決めつけ続けても「おまえがそう思うのならそうなのだろう。おまえの中ではな」と言われたら言葉がない。うん。

 


 

文学賞にはXXXこそ相応しい」

「いやXXXなんて文学じゃない」

イメージの共有を巡る闘い。言葉はみんなで使うものだから文学の名が何を示すのかアンケートをとって決めていけばいいのだろうか。それとも辞書をひいてみるか。ちょっと待った!わたしはわたしの独りよがりな決めつけを進めたい。そもそも、その闘いの元になってる伝えたいという願い、通じたいという呪いはなんなのか? 関数:願い(a)=呪い(s)の描線はどうしていつまでも繰り返されるの? どうしてわたしはそれを繰り返されてるって認識してしまうの? それは……、ええと、あれがこうなってそうなって……とずっとやっている。既存言語の秩序からできるだけ自由になって、言葉の壁を壊して、わたしは決めつけてみたい。イメージをアンケートとか選挙や辞書で決めるのは辞退させてください。わたしはわたしの言葉と概念を抱えてずっと生きていかなきゃいけないから、個人の想像とか妄想と呼ばれる場所がもしもあるのなら、わたしはそこで自由というか原始を目指したい。もちろん社会人として公の場では現行ルールに従います。アンケートの結果に従うから、ね?お願い!妄想だったらいいでしょ? フィクションだったらいいよね。

 


 

言葉は一生ずっと付きあってくパートナーだから納得して仲良くしたい。言語の話を全部鵜呑みにするんじゃなくて大人のお付き合いがしたい。

「言語さん、あなた私を騙したのね」
「信じてたのに全て嘘だったなんて」
「ああ可笑しい。愛した私が馬鹿だった」

こういうマツイカズヨみたいな依存した付き合い方はやめときたい。それもドラマチックでいいけどね。今ね、スマホに知らない番号から電話がかかってきたわけさ。ググってみたら迷惑勧誘の番号だった。この人たちだって言葉を代えればわたしに「伝えたい通じたい」って思いで電話してるわけでよう。いくら先方が「今よりお安くなります!あなたのためです!」って優しさを纏ったって迷惑勧誘は迷惑よ。優しく伝えればいいってわけじゃないの。まったくさあ。そんでなんだっけ? そうそう妄想ね。そうだよ妄想さ。わたしが、わたしだけが納得しようともがいて作られるわたしの妄想が他の人にとっての迷惑勧誘になってしまうこともあるに決まってる。それでも行きたい。わたしは他の人たちの妄想に助けてもらった経験がある。「妄想だデタラメだ」「嘘つきめ狂人め」って非難されてしまった過去の妄想人たち、彼らが紡いだデタラメなイメージにわたしは助けられちゃった。これも観方を変えれば、彼らの迷惑勧誘にまんまと引っかかってわたしは余計なことを考えるはめになったとも言える。このやろう。言語の法の外なんて思考の底なし沼に誘いやがって!責任とれよこんにゃろう(憎)。けれでもサンキュー(愛)。感謝の半分以上は強がりだな。ありがとよ!(泣)。

 


 

ある幼児が父親に非難をこめて言った。「あんたなんてラッパよ!椅子よ!砂場よ!それから、それから!……」。

言語の法の彼岸。この幼児が向けた非難に比べると「あんたが嫌い」の言表や我々が思いつく限りの侮蔑は、語法下の従順な苦情に留まるように思える。犬がにゃんにゃん猫がワンワン……。

 

最近読み進めている古い論評集に大真面目に「犬がにゃんにゃん」って書いてあったので笑っちゃった。犬はワンワン、それとお父さんはラッパじゃない。だからちゃんとお父さん嫌いって言わないと伝わらない。でも「あんたなんかラッパ!それから、それから……」と狂ってしまったその子の誰にも通じないデタラメにわたしは耳を傾けちゃう。父親のこと、ひょっとしたら嫌いじゃないんじゃないかな。うーん? 引き続き壁外調査を継承する。