やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

力には言葉がある

 

わたしたちは言葉の専門家じゃなくて力の専門家みたいなこと。

 

ネットでLGBTの話題を見つけてさらっと流し読みした。そこには「差別に苦しんでる人がいることを知ってほしい」と書いてあった。知るだけならいくらでも知るよと思った。でも、行間から読めるのは知ってほしいという願いだけではなくて知ったうえで同情してほしいということだった。


「苦しみを知ってほしい」。知ったあとで当然に同情なり配慮なり反省なりするだろうとの予断からそれらについては表記されてない。言葉の専門家ではなく力の天才であることが読者に期待されている書かれ方だった。知る以上のことが「知る」という言葉に込められていた。

 

言葉が通じるのではなく力が通じる。

 

あるいは、「知る」という言葉が余計なのかもしれない。「苦しみを知ってほしい」じゃなくて「私たちは苦しい」でいいんじゃないかな。そうすればわたしみたいな屁理屈屋に「知るだけならいくらでも知るよ」なんて言わせなくて済む。

ん?まてよ……。

「知る」というのは同情とは何の関係もない概念だったかと考える。

 

うーん。

 

知ると一つの名で呼ばれている事柄の中には、わたしの考えでは、同情に近い形態はあった。そっか。「苦しみを知ってほしい」イコール「同情してほしい」でいいのかもしれない。専門用語は難しい。

同情してほしいの代わりに知ってほしいと表記できるのは天才的だ。知への渇望や無知の不安や 知っている/知らないの境界や分けることで生まれる力のことを身体が知ってなければできない言い換えだと思う。

馬が走る天才だったり魚が泳ぐ天才だったりメッシがサッカーの天才だったりするみたいに、わたしたちは言語活動の天才。同情してほしいや共に闘ってほしいではなく、知ってほしいと書ける天才。それを泳ぐように読めてしまう天才たち。たくさんの人たちがみんな天才なので、その天才さがわからなくなってしまってる。


わたしも色んなことを誰かに知ってほしい天才の一人なのでそれに名前を付けて流通させてみたい。まだ名付けられていない、だから誰にも呼ばれていない概念とか人々とか疾患のことをわたしは思う。名がなくて、だから呼ばれないもの。わたしはそういうのを考えるとウキウキして、そして名がなくて可哀そうにと思う。十万字くらいの長い名だったら楽しいだろうな。あまり短い名前だと、それは今までにはなかった無知をつくっちゃう。短い名にはそういういやらしさがある。短い名(文章)を好む人たちもたくさんいる。わたしも短い名について、たとえば「知るとはなんなのか?」とかを考えるところから始めて、そりゃあ短い名で示すのは無理じゃんと今は思っている。