やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

意地悪で優しい物語

 

昨夜、布団の中でこんな文章を読んだ。

 

一人の娘が川のほとりにいる。
彼女は通りがかったバラモンに嬉しげに話しかけた。いつも辺りをうろついていた五月蠅く吠える犬がいなくなってとてもいい気分だわ。あの犬はここにやってくるライオンに食べられてしまったそうよ。嫌な犬がいなくなったおかげで居心地がいいわ。

 

このインドの昔話を引用してから、本の著者は「ライオンは一度きり跳びかかれば十分だ」と続けた。わたしはその娘がライオンに食べられてしまうのを、犬と同じようにいなくなってしまうのを想像した。

しかし、著者が「一度きりで十分だ」と続けたのはなんだろう。

彼女は嫌な犬がいなくなってせいせいしているが、ライオンにとって犬と娘は同じ餌。己を知らない娘。わたしは自分のことを彼女のように知らない。彼女が犬と同じ運命を知るのはライオンに食べられるとき。そして、昔話を引用した著者は「一度きりで十分」と続ける。

なるほど、「私は自分を知らない」と不安になるにはライオンは一度きり跳びかかれば十分だ。もしかしたら食べられないかもしれない。娘は運良く生き延びるかもしれない。わたしは物語を俯瞰で読んでいるから「娘は犬と同じく食べられちゃうだろう」「自分を知らない無知な娘は哀れだなあ」なんて思ってしまう。

そして、さらなる俯瞰に立てば「読者の私も彼女と同じように自分を知らないのだろう」と不安になる。そうか、一度だけで十分だ。

 


物語が何かを伝えようとしていたら、それは優しいだろうか。このインドの昔話をつくった人は「人は自分の無知を知らない」と伝えたかったのか、他のことを伝えたかったのか。それとも描いただけなのか。解釈は読者に委ねられている。

まさかとは思うが「ライオンは一度きり跳びかかれば(人の知を揺るがせ不安にさせるには)十分だ」と伝えたかったのか。

 

うーん、それはないと思うけど。

 

伝達の読解レベルは坂道じゃない。段々と少しずつ坂を登るように読めていくのではなくて、エレベータでしか行き来できない階層のように断絶している。「愚かな娘は犬のように食べられてしまうだろう」と読む人たちと「娘がライオンに食べられるなんて書いてないじゃないか」と読む人たちは断絶している。「ライオンが跳びかかるのは一度きりでいい」と読む人たちはさらに別の階層にいる。

 

優しさと意地悪。


わたしは物語の中に入っていって娘に語りかける。「ライオンからすれば犬もあなたも同じだよ。食べられちゃうかもしれないよ」そんな風にして彼女を怖がらせるのは優しさなのか、いらぬ恐怖を植え付ける意地悪なのか。運良く上手くいけば食べられないかもしれないんだから。


私が食べられるかもですって?ああ、さっきの話を聞いていたのね。よかった。ライオンと言ったけれど、それは私のことよ。あの嫌な犬に噛みついてやったの。

あなたも美味しそうね。

知らないのはわたしだった。彼女は牙をむいてわたしの咽喉を噛み切った。すべて仕組まれていた。無知を装っていた彼女にわたしは喰われた。騙された。いや、わたしは驕っていておびき寄せられたんだ。わたしは彼女よりも知において優っていると思ってた。なんて愚かで幸せな時間だったのだろう。


いや、違うね。

 

ライオンは述べた。

今の方が幸せなはずだ。死ぬ間際に真実を知れてよかったろう。もしも後ろから跳びかかったらどうだ?おまえは私の正体を知らぬ間抜けなままで死んだのさ。真実を知ってから逝けるおまえは幸せだ。

 

 

わたしはしおりを挟んで著者のことを思いながら本を閉じた。

ライオンが跳びかかるのは一度きりでいい。そう記した本の著者は意地悪だ。どうして一度きりで済むのかの理由を書かないで、その一文だけで済ませて説明なしで、さっさと次に行ってしまうあくどい著者だ。おかげでわたしは考えるはめになる。わたしに考えさせてくれる。わたしは彼の意地悪に感謝する。全てを手取り足取り教えないでくれてありがとう。

物語は伝達として意地悪だ。結局、娘はライオンに食べられちゃうの?どうなの?物語は答えないので伝達に正解はない。

 

「嫌な犬がいなくなって娘はいい気分になった」。そういう文章通りの読み方もいい。「愚かな娘は犬と同じ運命を辿るのを知らない」と言語外言語を読んで教訓を得るのもいい。物語を引用して「一度きり跳びかかれば」と述べた彼のように解釈を進めるのもいい。

 

うんうん。物語の答えない意地悪さはわたしは好きだよ。世界はわたしに答えないって思う。吠えても拷問しても物語は答えない。いろんな読み方を放っておいてくれる。伝わりたい人にだけ伝わって、読みたい人たちにだけ読まれて、考えたい人たちに考えさせてくれる。

物語は読者の欲望のまま読まれるのがいい。わたしたちの首を掴んで引っ張って「こうやって読むのが正しい」なんてお節介な優しさを物語はやらない。わたしも物語を描きたい。意地悪になりたい。

 

「レモンありますね」

そんな感じ。