やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

反省のしすぎは

 

反省は自身に加える暴力だ。

反省は自身に加える暴力だ。そう唱えていないと頭でっかちになって動けなくなってしまう。「反省は自身に加える支配欲だ」でもいいのだけど、これだとピンとこない。うまく身体に通じない。「暴力だ」の方が支配よりもイメージがピンとくる。

あくまでも私の場合はそうだということ。力の弱い場合、反省は力に留まる。「反省しなさい」と誰かに促されてそれをするようなときは大抵は弱い力を自身に向けて済ます。「反省は自身に向ける抑圧だ」。弱い力のときはそう表すのが適切だろうと思う。社会に適切なだけだけど。

 

反省という名の自身に加える鞭。これの困ったところは、ムチと同時に飴でもあること。誰かに「反省しなさい」と鞭を打たれる前に自らすすんで反省するときの甘い味。自身を自ら支配することの甘い味。抑圧を外に向けないで、暴力を外側に向けないで自分の内側に向けるというコントロールの良さ。他人を裁けないのならせめて自身を裁こうという小さな法廷。私には自分でルールを定めてその自分ルールで自分を裁く権利がある。一人の私の反省に立法権司法権が同居している、さらには暴力装置、私の反省は警察みたいなふるまいをする。一つの反省に三権が集中しているのでその腐敗や癒着を防ぐのは不可能なのだ。

この癒着により人は自分の(反省の)都合の良いものしか読まないし分からない。私は私に都合の良い苦しみも好む。私に都合のいい怒りも好むし悲しみも好む。苦いコーヒーを好むみたいに、反省をする。

なので、私は「反省は自身に加える暴力だ」と唱えておく。考えすぎはよくないよと自身に言い聞かせる。コーヒー中毒になっちゃわないように。

 


「反省は暴力なんかじゃない」
「それは痛くも痒くもない」

「痛くなるまで、苦しくなるまで反省したことない?」


考える、悩む、反省する、気をもむ、心配する。この辺りの境界線も曖昧なのに加えて痛みや苦しみをそれらの証拠として、つまり、それらの行為の交換物として、人質として要求するなんてのが常にある。

 

「痛いほど考えたのだ」
「苦しむまで反省しろ」
そんな具合に。

 

頬をつねる代わりに「夢じゃない」って確信を交換するようなもの。ほどほどにつねらないと暴力になってしまうってこと。思考の拠り所が言語である限りお互いにつねりあわなければいけない様相は、コミュニケーションは暴力であると言ってもいい。それが神話である限り「神話じゃないよね」って隣人の頬をつねるという感じで。

 

「コミュニケーションは暴力じゃない」
「優しく促すことができる」

 

そっとつねったり、または自身の力で頬をつねるよう促すのは可能だと思う。既にそうでもある。「なんか鼻がムズムズしてさ、鏡貸してくれない?(鼻毛出てるよ!気づいて!)」。ほのめかしと呼ばれたりもするけど。わたしだったら、一人だけ眠りに落ちてたらひっぱたいて起こしてほしいって思うかな。でも、醒める必要のない日曜の朝にひっぱたいて起こされたりしたらふざけんなってなっちゃうね。