やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

 

 

「鏡を読んでいる」。分かる文章や読める文章を読むことをわたしはそう呼んでいる。人は自分の理解回路を文章に写して読んでいる。自分を変身させないままに読める文章、自らの理解回路を組み替えないままに分かる文章を読むことに、わたしはあまり価値を見出していないばかりか、鏡を読むのは毒を飲むようなものだと思ってる。

 

よく、嫌なものを見てしまう人に「嫌なら見なければいい」と忠告することがあるけど、これは鏡の悦楽を考慮にいれていないもの言い。嫌なものを見て嫌だと分かり嫌だと言表する鏡の欲望は、悲しい映画を観て悲しくなったり、仲間の怒りを我が怒りにするのと同じように望まれている。

 

「嫌なら見なければいい」は「わざわざ映画を観て悲しくなるなんておかしい」とだいたい同じ。嫌なものを見て嫌だと思うことで鏡が慰められる。悲しい映画を観て情動が慰められるのと同じように、それは鏡の自分に感情移入する悦楽だ。

 

鏡は、隠語としていろんな物語に登場する。
だいたいの人たちは鏡を読んで暮らしている。

 

他人を自分と同じ思考回路を持つ鏡だと信じている平面上で、何ごとも進んでいく。なので、鏡の世界には「厳密な出会い」がないと昔のわたしは思った。同じ思考回路、同じ感情回路の他人と出会う?それは鏡に向かうのと同じ。鏡の世界は孤独なのだ。

 

ドラマ「カルテット」のアリスは鏡の中にいた。まるで世界に自分しかいないみたいに孤独だった。「私が誘ったらあなたは鏡みたいに返事をする。当然でしょ」。だから、サンドウィッチマンの人がつれない応えを返したとき、アリスは自身の思考外にいる異人に出会った。「私の誘いを断るなんて、理解できないわ」。

 

違う人間と出会うということ、理解不能の言語に出会うということは、孤独でなくなること。しかしそれは理解の外にあるので、アリスとサンドウィッチマンの人みたいに断絶する。「私の魅力を読めないなんて、あなた読解力不足ね」。アリスはそういう風に鏡に閉じたままだった。

 

「鏡」メタ言語の一つで、ある概念を指し示している。メタ言語というのはすわりが悪いなあ。言語はそのまま「メタ」だもの。それはともかく、言語には言語の正しさを証明する術がない。それを使用して流通し続けることで、流通が証明され続ける。翻って「鏡」の方はというと、鏡は言語外言語の一つなのだけど、こっちは通じることではなく描かれることでその概念が証明される。流通しない絵の具だ。

 

 

 


アリスの幸せは、彼女の魅力を読解可能な人に、読んでもらって理解してもらうこと、つまり、彼女の価値を認めさせ流通させることだった。マキさんたちの幸せは、鳴らすことだった。カルテット・ドーナツホールの幸せは価値を認めさせて流通させることではなかった。悲しい話だけど、描く人たち、鳴らす人たちへのエールとも読めるよね。