やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

「読む」の中には変身が含まれる

 

 

からだ?

 

そう、身体めあてだよ。
君の身体以外を僕が慰められると思わない。
心やそっちは、芸術家に任せるよ。

 

愚痴くらい聴いてほしいのに。

 

そんなのお安い御用だけど。
君はずいぶん自分を低く見積もっているんだね。

 

 

 

色気?この語が何を指すのか忘れちゃった。そう、昨日、わたしの文章を読みかえして「子供っぽい」「色気がない」と思ったんだ。

 

読むことについて。わたしは自分の読みをちょっとは信頼してる。むかし、ある本を繰り返し読んでいた。その本に書かれていることがわからなかったのもあって繰り返し読んでた。日本語に翻訳された文章(原文は仏語)だったのだけど、あるときに、日本語の向こうに原文が透けて読めた。「この段落の定冠詞と不定冠詞の訳し方、おかしい」。そのときにオッケーかなと思った。自分の身体は捨てたもんじゃない。何度も読んでいればその文章に乗れる運動神経はあるんだと、自分の読みを信頼した。

 

日本語に翻訳されたわたしの文章の向こうに、原文が透けて見えるかな。

 

「読む」は例のごとく故障している語で、いろんな行為を含んでる。たとえば、変身も含んでる。読者が著者に変身することもある。気づいた瞬間には一気に変身していて、気づかない間には少しずつ変身する。わたしの場合は、あの原文が透けて読めたときに「いつのまにかわたしは著者の側へ近づいていたのかも」と思った。

 

「読む」の中には変身が含まれる。

 

だから、「読む」の中には変身する行為と変身させない行為が同居していて、それらは区分けでは相反しているので、めちゃくちゃだ。わたしの「読む」と誰かの「読む」は異なる卵で、異なるものが生まれる。

 

たくさんの人たちが文章を書くのはいいことだと思う。著者になれば、伝わらない通じない境界にぶつかるから。わたしは、通じない伝わらないのはあたりまえだと頭で分かっているので、頭の中では伝わらないのを人のせいにしない。その代わりに身体が人のせいにするのだけど、それはおいといて、わたしの頭の中ではこんな風に整理されている。伝えたいと描きたいのどちらが優勢か。

 


愚痴なんていつでも聞いてあげる。でも、君の心はそんな安い行為で癒されはしない。せいぜい先延ばしされるだけさ。だから、そっちは芸術家に任せるよ。

 


絵を描く人たちは伝えたいと思って描かないんじゃないかと考える。伝えたい人たちと描きたい人たちがいるんだと、わたしの中では整理されている。この区分け線も渚のように曖昧なのだけど、整理は整理。そして、言語を絵の具のように使おうとすると、既に混ざった色なのでね。使えないなあと思うわけ。

 

この絵の具をアップデートするにはファンキーな身体がいる。翻訳された日本語の向こうに読める原文。その原文の向こうに透けて見える原文の原文。そういう風に原始の方へ進んでいく。

 

 

 
しかし、「伝えたい」という語が指し示しているのはなんだろう。この語もいろんなものを内包している。それを使っている人たちの中には「屈服させたい」という原文を翻訳して「伝えたい」にしちゃってるのもいる(極端な例だけど)。でも、伝えたいと言っているのだから伝えたいんだと自分が嘘をつかされているとは露にも思わなかったり。「伝える」という混ざった色がそれを塗りつぶしちゃう。ああー、そういうすれ違いも描きたいなあ。

 

長い文章を書けるというのはすごいと思う。わたしは気を抜くとバラバラの単語や短い文章しか出てこない。うん。自分の文章を読みかえすのは面白かったよ。それは自分の文章を読みかえすというより、ログたちを一つの長い文章として読むということだけど。だから、他の人のブログを読むときも更新された最新のそれと昔のログを合わせて読んだりする。ぶちんと記事単位で切られているのを繋ぎ直すのは読者であるわたしの領分。これが楽しい。

 

ツイッターはブログよりもっとぶつ切りだから、いかんね。繋げる楽しみがない。あそこではもっとはっきりとした分かりやすいキャラクターが求められて、その要求に応じてしまうのがいかん。ブレない一貫性が性格に求められたりして、ふざけた人はずっとふざけをまじめに続けるみたいな、よくわからない閉じ込めがある。まあ、ツイッターに限ったことではないが、人が広告化してる。

 


でも、長い文章は読みたくない。大変だもん。
最初の段落が気持ちよく読めるのが重要なんだろうなあ。そうしたら長くてもいける。ふひー。そういうの自分にも書けるようになるのかな。書けるようになりたい。


眠くておちそう。