やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

母は小言を言って

 

一人暮らしのわたしの部屋に母がやってきた。

 

掃除をしなさい自炊をしなさいと、母は母の役割通りに娘の耳をふるわせた。子供のころに「勉強しなさい」と言われても勉強しなかったわたしを覚えていても、あきらめるわけにはいかないのだろうか。母はずっと言う役でわたしは聞かされる役のまま母子のかたちは変わっていない。先輩の教えは絶対!みたいな体育会系の部活かよ。かたちを保つにもパワーが必要で、親子のかたちや先輩後輩のような秩序のそれは、小言パワーで保たれている。


母は小言を言って母の役をこなす程度に元気だ。親子関係の底辺であるわたしのダメなところをいちいち指摘して、役と母子劇の正しく美しい変わらないかたちを刻印して母は帰っていった。代わりにお米や里芋と鶏肉の煮物などを置いていってくれた。

 

役は人にセリフを用意してくれる。劇には脚本があるから振る舞いを自分で考えなくて済むうえに忙しい役割を与えてくれる。母は忙しく娘を育ててきた。普通に大人まで娘(わたし)を育てられたという結果に依存して誇っているようにも見えた。母と呼ばれる正しく美しい図形を保つのは困難な事業で、とてつもない苦労と我慢の持続を要求される。母親という役割に課せられる無限の母性は、わたしみたいな言うことを聞かない子供に対してもずっとずっと無限に指図を続けなくてはいけない。その背負う使命の重さに遠慮して、子供は彼女の小言を聞く耳を持つ。親だから言うことを聞くのではなく、先輩だから聞くのではなく、私みたいな娘の面倒をみるのは大変だろうから、私は母の小言を聞く。

親子という脚本に従属している娘のわたしと、劇場から離れて役の重さを量っている観客のわたしがいる。だから、母の小言は半分ずつ二人のわたしの耳に入ってくる。