やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

いつから心が一人部屋になったか

 

昨夜、サピエンス全史を少し読み進めてから眠った。


近ごろはドラクエ11がおもしろくて本を読むどころではなかった。ゲームのストーリーを進めたくて物語の先を読みたくて、つい、長い時間やってしまう。ドラクエの物語の流れは結末に向けてどんどん流れている。そこにずっと身を浸していたくなって、なかなかゲームコントローラーを手放せない。「サピエンス全史」にも物語のことが書かれていた。たとえば、株式会社という物語について。こっちのそれは結末に向かうおもしろさではなく、終わらないと信じられている流れそのものに生活を浸す物語だ。会社物語は終わらない物語だと信じられている。わたしはサピエンス全史の著者と違って、終わらない物語を物語と呼びたくないので「式」の語を使いたい。会社という式は F=ma みたいな、信じる信じないを越えた不滅の制度式。面白かったり面白くなかったりする物語とは違う語でわたしは呼びたいと思った。

物語について書かれた本を閉じて眠るまでの間に、わたしは「いつから心が一人部屋になったか」について思いだそうとした。この問いも過去に解いた問いで、わたしは答えを忘れてしまっていた。自分の心が一人部屋になって、同時に、他の人たちの心も一人部屋になるというのは換言すれば自我の発生ということだけど、自我とそれを呼んでしまうとよく分からないので「一人部屋になる」と呼んでいる。物語や式は一人部屋になることと切り離せない。つまり、自我は集団的なもの。自我自体が多くの人に信じられている終わらない物語であって、F=ma みたいな信じる信じないを越えた式だ。「心が一人部屋なのは、あたりまえ」「会社が不滅の物語のように」「F=ma みたいに」「見えないが共有されている」「集団的なあたりまえ」

 

わたしはそういうあたりまえがどんな風に生まれたかをいつも考えてしまう。誰もの心が一人部屋になる偽りの孤独のせいで、そういうあたりまえを考えるのが面白い流れそのものなんだ。ここからドラクエ11のネタバレを含みます。

 

 

ドラクエの敵ボスの名はウルノーガ。

ウルの町はメソポタミアにあったアブラハムの故郷。ウルのー我。聖書とキリスト教が一人部屋に果たした役割は大きい。ウーノ、ただ一つ。一つ、二つと数を数える手の指。足の指は大地を掴むのに忙しくて数えるどころじゃない。PS4のアナログスティックを親指で動かしながら、わたしはドラクエの脚本を読む。力に魅せられた魔術師とか、友人の眼に映ろうとして復讐に身を落とす従属者とか。物語に登場するキャラクターたちは昔から変わらないパターンを受け継いでいる。なのにすごく面白い。ストーリーもキャラクターも昔どこかで読んだ式の寄せ集めなのに面白い。変わらない夢のおもしろさ。会社みたいな不滅の式が組み合わさって、結末へ向けて流れていく物語のおもしろさがドラクエには詰まってる。いいなあと思う。おもしろさが羨ましいと思う。わたしも物語を書きたいぜー!