やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

読みの要求

 

読む。消費として読んだり、使用として読んだり、対話として読んだり、慰めとして読んだり、読む行為を分ける線が様々にあって、わたしも自然にそれらを分けながらいろんな文章を読んでいる。あるときは消費者として読んで、あるときは対話者として読んだりしてる。読者はそのように変身する。なので、たとえば「読めていない」と言うとき、それが消費できていないという意味なのか、対話できていないという意味なのかは分からない。

「読む」。曖昧すぎる語だなあ。それなのに、このエクリチュールはなにか一つを指し示している。


教師に叩かれている男の子たちがいる
少女がそれを見ている
少女の眼は男の子の痛みを量る


なぜ、少女の眼は少年の痛みを読めるのか。この問いの最初の解は「それを読むのが簡単だから」。叩いている教師の気持ちを量ったり、教師と男の子たち両方へ感情移入するよりも、少年の痛みを量る方が少女にとって簡単だから。

だいたい、わたしたちは自分の読めるものを簡単だと思う。簡単だから読めるので、ほかの人も読めて当然だと思う。でも、読むというのはその語が示すなにか一つではないので、しっちゃかめっちゃかになる。