やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

圏外人間

 

 

「分からない」と言ってはいけない

それは変だ。分からないと、分かってるじゃないか。「分からないという状態を分かっている」、君のそれは、なに? 嘘をつく言葉と言語に閉じ込められたそれ。分からないことは「分かる」とか「分からない(と分かる)」とか表している外側にあるよ。

 

「わかりたくなる」。以前に、奇特な人がわたしの文章にそうコメントしてくれた。「分からない」ではなくて「わかりたくなる」はうれしい。一緒にわかりたくなろうぜ!わたしはそんな気分。別の人は「よくわからない」とブックマークコメントをしてくれて、うんそう、わからないだろうけど分かりやすくは書けないんだ。なぜって、わたしたちは、既存の言語が隠しているものや、その故障に手をかけているから。言語が見せてくれる夢の中から夢を外に破ろうというのは何十年も前から多くの人たちが始めている作業で、わたしたちはそっちに行く。言語の巣から出て壁の外へ、砂漠へ、圏外へゆこうとするのだから通信が途切れてあたりまえ。「わからない」はたぶん「(私には)通じない」ということだろうけど、そりゃあ、悲しい苦しいあたりまえ。

 

圏外言語でしゃべれば異国人。でも、既存の言語はブラック企業みたいなもので「通じるように話せ!」というきつーーい命令が、それはそれで苦しーーい業務命令がくだっているのさ。通じれば伝わればそれで必要十分な人たちはブラック企業でも活き活きとしてる。もしかしたら活き活きと見えるだけで苦労しているのかもしれないが、苦労するだけの価値はある。価値はある? ええとたしか、価値は、通じたり伝わったりすると同時に生まれるものだから、ほとんどその通じようとする苦労と価値は同じものだ。

「こんなに苦労して伝えようとしてるのに!」

または
「こんなに悲しいのが伝わらない!」
「伝わらない悲しさは」
「なぜ、こんなにも「私」なのだろう」

 

なんて経済的なんだろう。

 

なんで、そんな経済のしくみをわたしたちの身体は知っているんだっけ。どこかで人質をとられたんだ。人質は生き続けている。わたしたちは人質を見殺しにする。この選択ができるかどうかが第一の試練で、もしかしたら最後の試練かもしれない。正常な人たちは人質の価値を共有してるからブラックな社会から逃げ出せないし、ブラック言語はその弱みにつけ込んでいる。

「話が通じない奴は」
「狂人だ」
「異常だ」
「さあ、通じる言葉で話せ」

夢の言葉で話せ。俺たちと同じ故障の言葉で話せ。夢じゃないし故障もしていないというのがブラック企業人たちのお決まりのセリフ。既存の言語が流通しているのは揺るぎない現実だし、流通している範囲内でその流通は故障なく稼働してる。だから、夢でも故障でもない。うーん。たとえば、使えて通じればそれでいい人たちと、電話がどんなしくみと原理でできてるか知りたくて分解する人たちの差かな。わたしたちは、「分かる」が何なのかわかってから「分かる」って言いたくて、「知る」って概念が何を指すのか知ってから「知る」って言いたい。言語機械や物語機械がどんな風にできてるのか分解してから……、分解したら通話できなくなっちまうわけよ。圏外人間。

 

圏外人間。仲間から外れた人たちは、壁の外について描いたり、トビウオや境界線について書いたり、鏡や自転車について書いたりする。既存言語の外にある言語はそういうので描かれていて、わたしにはそっちの方が、よく分かる。そっちの圏外言語はアップデートされているから。

誰が作ったのか知らないけど、既存言語は、古くて使いにくいUIのままで全然アップデートされてない。翻って圏外言語の方はというと、それを作ってきた人たちや作っている人たちの手で、使いやすく扱いやすく日々更新されている。圏外言語の方がずっと読みやすくて分かりやすいのはそういうことなのだ。ほんっとありがたい。それがなかったらと思うとゾーッとする。

 

既存言語のUIは自動車に似ている。アクセルとブレーキを踏み間違う事故が多発していてもデザインは変えられない。その決まったデザインに運転する人たちが合わせる。注意していれば、慣れていればアクセルとブレーキを踏み間違えない。事故は決められたルールをきちんと守って、自動車のUIを間違えないで使えれば起きない。自動車は故障していない。ブレーキとアクセルを踏み間違える運転手の方が故障しているんだ。

 

自動車の数百倍くらい既存言語のデザインはブラックだ。

 

けれど、いくら事故が起きてもその形は変えられない。既存言語で上手くやっているたくさんの人たちがその形を変えさせない。わかりあえないことだけをわかりあうのさーなんて歌って、踏み間違い事故を防いでいたりする。アクセルを踏むときもブレーキを踏むときもそーっと踏めばいいさ。「わかりたい」なんて思わないこと。強く「わかりたい!」って踏んでしまうと分からなかったときのショックが大きい。何ごともそーっとそーっと踏む。大げさな幸福も深い不幸もいらなくて植物のような生活がほしい。強く望めば叶わなかったときの失望も深いのだから。それが平穏に過ごす諦めのスタイル。

「踏み間違うのだったら、踏まなければいい」
「わかりたいなんて望むからいけない」

 

わかりたいなんて望むからいけないということが、わかった。

いつもそうよブラック言語の人たちは。「わかった」ときつくブレーキを踏む。通じただけなのにわかったと嘘をつく。わかったということは、その形やしくみを描けるということじゃないの?「わからないということが、わかった」なんてギリギリとブレーキを踏むその脚で、石でも蹴っ飛ばした方が断然かっこいいのにね。