やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

同質化、書かれた文字の清潔さ

 

タイプされた文章は同じかたちをしていて同じに見える。手書き文字を眼にする機会や読みづらい文章を読む機会は少ない。「同質化するエクリチュール」。わたしなんかはうわごとみたいにそうつぶやいておかないと同じに見える文字にやられてしまう。感受性が鈍いから。同じフォント同じ語法、既知の単語を同じような装丁で読まされて、「この文章を書いたのは違う人間だ」なんて思えない。思えないのはエクリチュールの機能として当然だと思っている。だって同じ文章じゃん。読めるように書かれた同じ文章でしょ。わたしが「同質化するエクリチュール」とつぶやくのと同じように、他の人も呪文のように繰り返し唱えている。「私とあなたは別人よ」「僕と君は違う」。

 

何もかもが同じ(違いといえばほんのちょびっとの文体くらい)文章を読んで、「著者は私とは違う人間」と感じるには、深く読み込まないといけないしセンシティブでなくちゃダメ。何もかもが同じ文章の中に違いを見つけるには、かなーり豊かな感受性が要求される。わたしなんかはブログを読んでてパパッと「ああ、この感じは同じ人たちの文章だな」と見切っちゃう。そのくらい鈍感で、文章も人も同じだと思ってしまう。

 

きついよね。ブログがきっついなーと思うのは「どう読もうと勝手でかまわんよ」と「おまえに何が分かるんだ!」の綱引きのところ。「おまえに何が分かるんだ!」の方は、わたしには鈍感な人たちにどんどんセンシティブさを要求し続けてるように見える。もっと気を使え!って感じ。この「気」は無限で無償で誰かに要求できるものなのだろうか。そんなの要求してたら自分も相手もヘトヘトになっちゃう。


正確に書くと、エクリチュールの感受性は違いを見つけられない。同じしか見つけられないので「私とあなたは違う人間だ」となるには別種の感受性が必要になる。書かれた文字の同質化作用に抗いながら……だいだいさあ、エクリチュールは人をみんな同じにする合言葉なんだから、誰かとは違う別人として文章を書くというのは矛盾した必敗の二正面作戦じゃん。それをやるなら、割り切りとか諦めとか、どうにもならなさと付き合っていくことになる。

 

 

なんだか大変そうだなあ、しり込みしちゃう。じゃあどうすればいいのさ。難しいってことしか分かんなかったよ。

 

うん。整理された頭の中の部屋みたいなものよ。綺麗好きなのさ。