やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

ポリグロット、言葉はみんな天国

 

名付けることで今までなかったものや、ないもの、そういうのが良く現せば創造される、悪く言えばでっちあげられるのが言葉の恐さであり、素晴らしいとされる機能。或る情感が「萌え」と名付けられて創造された以降にわたしはいるので、それが失われていた以前を想像するのは難しい。


死後の天国や地獄はないとわたしは思うが、それが名付けられてでっちあげられているから、わたしは「ない」と言える。それらの概念があって流通している事実についてまで「ない」とは言えないし、その概念があるから「ない」と言える。だから、本当は「ないが、ある」と書くのが正確だろう。ゼロが存在するみたいなもんかな。


虹は五色なのか七色なのか。わたしは自分の文章の中で、ほとんど「現す」と書いていて「表す」は使っていないと思う。それで、ないものをでっちあげる言葉の機能にちょっぴり抗っているつもり。現すけど表してはない。

 

通じれば事は足りる。「天国はない」と言えばいいところで、「天国の名が指し示す概念が存在するのを認めたとして、その概念が現実界に存在しないと言明する」なんて言ったらウザったい。そんなのは余計なまわり道だけど、わたしにとっては最短の道。

 

 

「天国なんてないよ」と応えたあと、僕はひっかかった。彼女はなにか別の応えを期待したような気がして、ばつの悪さ、僕の場違い感がひどかった。

 

 


言語は本当だ。通じて伝え伝わる中で本当なのだけど、虹が七色というのは言葉の嘘。だいたいその意味で言葉は嘘。でも本当なのだ。電話は電話でシチューはシチュー。設計図やレシピが材料を知っていればいい誰かがそれを作ればいい。


言葉はみんな天国。天国みたいに本当で、嘘。どっちにしろ描くことができる。本当と嘘の四則演算式でできあがる文章はおもしろい。フィクションが本当を描いたり、会話が嘘を描いたり、嘘が身体の本当を描いたり、本当が嘘になって伝わったり。そういうのがわたしの興味の対象で、本当/嘘 を分ける線も好きだけど、式はもっと好きだ。答えが変わっても式は変わらないのがいい。たくさんの答えがあって、それを導く式がある。


この式も天国みたいなもので、ある、けど、ない。

可算式も減算式もどこにも見当たらないが、ある。E=mc^2もどこにも見当たらないが、ある。「萌え」みたいなもん。わたしに語りかけてくるのは、言葉もだが、もっぱら式が語りかけてくる。式を構造と呼び換えてもいいのかもしらないが、うーん、やっぱり構造よりも式だなと思う。

 5は(語は)2+3や9-4だったりするけどプラスやマイナスは変わらない。式を読むのは、そっちの方が楽だからという理由もある。


わたしは処世術として式を読む。
式を読まないといけなかったし、それを読むよう追い込まれた。言葉から逃げてきたとも現わせる。言葉の流通はわたしにとって辛いんだ。誤用されてしまう「確信犯」のようなもので、「その言葉が示す意味を誤解してるよ」なんていちいち指摘するのはイヤだ。面倒くさいから。「知る」という言葉が何を指すのか知らないまま使っていたり、「考える」という概念を狭めて使っていたり。「分からない」は、わたしから見ると「分からないと、分かる」で、少し不幸で少し幸せな行為なのだけど、そんなのを全部気にして指摘してたらわたしの身がもたん。だから、言葉は間違っていても式があってればそれでいいって思う身体が必要だった。わたしは、本当と嘘の間に線をひく身体とは別にもう一つの身体を用意した。


誤用の「確信犯」でも、伝わったり伝えたりできればそれでオッケーさ。

 

事は足りている。

二つの身体に裂かれた痛みに対抗する呪文みたいなもの。事は足りている。虹が五色でも足りていたし七色でも足りている。七の数を超える波長の様々が七色では足りないのだけど、虹を伝えるのには虹という言葉一つで事足りる。足りなくなるのはそれを絵にするときで、そのときは絵の具を混ぜて色をつくればいい。

 

 言葉は天国だ(概念だ)。

愛と一口にしても七色以上はあると思う。藍色だけを取り上げてこれが愛ですとやるのは天国を信じるみたいに簡単だ。でもその簡単さが素晴らしい。メールアドレスがなかったらメールは届かないから。名付ければそこへ届かせるのもできる。天国をテーマに絵や文章を描くこともできるようになる。

 

虹は七色と決まっていてそれで通じるが、何かがもの足りない。わたしの欲は足りるに留まらなくて七色の間に色を足したいと思ってしまう。七つの区分けが邪魔だと感じる。これは恨みで、七色しかない恨みや、七色だと教えた誰かへの恨みや、それを信じていたわたしへの恨み。嘘つき言語への恨み。

 

嘘つき!

 

いや、僕は与えられた役をこなしている。君は過大な期待をしたんじゃないか?僕は君の望みを叶えるために生きてるんじゃない。僕は誰のものでもない。

 

くやしかった。もっと早くこいつの化けの皮をはがせていればよかった。誰にでもいい顔をする八方美人で顔色一つ変えずに嘘をつく。はっきり言って嫌な奴で、一旦は別れた。でもやっぱり一緒に過ごすことにしたんだ。よりを戻して分かったのは、私好みのパートナーにしてしまえばいいということ。私の趣味を押し付けても文句を言わず着てくれるのがこいつの少ない長所。その代わりに私のパートナーは他の女と寝なくなった。

 

私の趣味嗜好はあまりおおっぴらにされない。
私は誰よりも頭が良くなりたい。人や社会のこと、言語や欲望や精神を全て知りたい。
しかし、それは学者の役割なんだけど学問も流通に飲み込まれてしまっていて、また、楽しいことや気持ちのいいことしか知りたくなかったり、苦しさや悲しさの居心地に閉じたりするし、ああもう、理由をあげればきりがない。


とにかく、人は気持ち良く眠っているときに誰かに起こされるのが、大嫌いなんだ。お布団みたいな言葉しかいらない。その言葉が布団かそうじゃないかの線をはっきりと引けるのは、それはそれで式として本当だからどうすることもできない。


虹色の物語の中から布団色だけ抜き出して夢の続きを見る技術に卓越した身体があるんだ。

実際には、虹の中に八番目の色を見るようなのはとても卑近で誰にでも起こっている事なのだけど「虹が八色だ」と語れば「違う」と返ってきてしまう。人はこの場面でもネットにはじかれたボール。「八色」と言う側か、「違う」と言う側か。どちらにボールが転がるかは運次第。わたしはまだネットにはじかれたボールが転がるだけで可笑しいと思ってしまうお年ごろ。

 

 

虹色の枝は、ドラクエ11に出てくる重要なアイテム。

虹色の枝はとある国の国宝だったのだけど、その国で開催する競馬大会の資金繰りに困った王さまが売ってしまった! 虹色の枝は結局、別の街で行われる武闘大会の優勝景品になっていた。他の人にとってその枝は売ってお金にするアイテムだけど、主人公たちにとっては冒険を導いてくれる羅針盤なのだ。


物語はどんな色にも読めるようにできている。テレビドラマだって漫画だってゲームだって七色以上に読める。物語はぱっと見、いじわるにできてるようにも思える。分かる人にだけ分かるように描かれていたりもするが、その分からない人へのあっかんべーは「カルテット」のマキさんが曲名に込めたあっかんべーでしょうがないじゃん。人が誰かに全てを打ち明ける義理なんてないし言わなくていい本当がある。罪や嘘を打ち明けろとマキさんに迫る人たちに比べたら、物語に込められたあっかんべーなんてかわいいものさ。

 

物語は人の心や人間関係のしくみを描いた学術書みたいなもの。何千年も前から変わらない式で描かれている。As Time Goes by だったかな。こんな詞が歌われる。「嫉妬と憎しみ、女は男を求める、男は仲間を必要とする」「それはずっと変わらない。アインシュタインのセリーがどうあれ」。

 

変わらない。同じかたちが継承され続ける。
何度も何度も変わらず落ち続けるリンゴを見ていれば、そこに重力の式を発見するのは可能。人がそれを発見できるのは歴史が証明してる。「リンゴがなぜ落ちるかだって?俺たちに食べられるためさ」。消費にとって物語はそういうリンゴだろう。おもしろかったつまらなかった。美味かった不味かった。わたしにとって物語はあっかんべーをするリンゴだ。いつも七色の味がする。ちょっと苦い。