やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

虹を七色としたのはニュートンらしい

 

はっきりしない天気。夏休みを終えてしまった社会人だから天気はどうだっていいか。それよりも「叩かれている少年を見る少女の眼が痛みを量れるのはなぜか?」だ。

 

換言すれば、共感できるのはなぜ?


少し前に自分でこの問いを吐いてからずっと気になってる。過去にわたしはこの問いを解いたと思う。でも、顔を洗ってる最中に答えを忘れてしまってるのに気づいた。歴史のテストではなくて数学のテスト。ワールシュタットの戦いは1241年。これは知識で、変わらない答えだから覚えておけばいい。共感できるのはなぜ?の方は「リンゴが2つオレンジが3つ合わせていくつ?」みたいな問いなので、5を覚えててもどうしようもない。1241と5はそういう風に違う。わたしは「共感できるのはなぜ?」の「5」を忘れていた。それは忘れてもかまわない。忘れちゃいけないのは式の方で、式を忘れちゃったら解けない。

 

少女には叩かれた経験があったのだろうが、少女と少年は別人なのにどうして同じ痛みだと見てしまうのか。どうして叩く側に共感しないのか。叩かれる側への共感と叩く側へのそれの二つの道があるのに、なぜ一方だけへ共感してしまうのか。なぜ、二者択一の問題について逡巡なく選択できるのか。

式から問いがたくさん出てくる。

わたしは問いに魅了されていたし、今もそう。
一つの問いから多くの問いを派生させると安心する。因数分解みたいに、問いの原因になってるいくつかの問いにバラバラにする。もっとバラバラにしていく。経験ってなんだろう。同じとは何か。そもそもその区分けを信用していいのか。わたしと同じような、問いに魅了された人たちの助けを借りながら、どんどん分解していく。

 

虹は初めは三色、次は五色になって、七色だと言ったのはニュートンらしい。その後、その語は増えてない。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七つのままでずっときている。赤の外に赤外線、紫の外に紫外線を付け加えて九色。かもしれない。それで事は足りる。赤と橙の間にもう一色を見つけてX色と名付けてみたい。わたしはそんなことばかり考えちゃう。めんどくさい。


共感も、できてさえいれば事は足りる。ニュートンが言う前は虹の七色から橙と藍を引いて五色で事は足りていた。五色で何も困らなかったのだけど、七色に増えた。七色で描かれた虹の絵と五色で描かれたそれがあったとして、どっちも虹だと分かるけど、やっぱり七色の方が実際の虹に近いと思う。

 

少女と少年を分ける線を傲慢にも優しく飛び越えて痛みを量れるのは、虹の色が七色から五色へ、三色へと減っていくみたいなものだろうと思う。