やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

スカベンジャーは生存報告しなきゃいけないほどに死んではいない

 

96記事目です。

ブログが、生存報告みたいなシステムだからって、わたしゃそんなに死んでいないよ。ちょっと悔しいんだよね「わたし生きてまーす」って書かされるの。新しい記事を書き続けてないと死んだように扱われるの悔しい。さすがはSNS。社会網の奴隷は侮れない。ブログを書くのを続けるって、ログ殺しに加担してるようなものだから、たまにぶっ生き返したくなる。すごい文章は十年前のそれだろうが千年前だろうがすごいんだから。なので、とても生きているのに死んでるように埋められてるログによくわからない注射をしますから。

しかも他人の家の死体にね。

 


 

masa1751.hatenablog.com


ただの記録でしかない、 さんの「いしゆり町」


何度目だろう。昨日また読み返したのだけど何回読んでもすごい。きっと忘れたころにまた読み返したくなるからブックマークを挟んでおいた。読み始めるとわたしの顔はにやける。だって面白いんだもの。ずっとAメロなんだよ。虫の音みたいにずっと。わたしはこの文章を人が描いたって知ってるから、転調やサビを期待したくなる。盛りあがってきたりしないかなって。ヤマやオチがある流れのことを「中身」ってみんな呼んでいるんだから。できるだけ短かい文章の中に情報をギチギチ詰めようとみんな苦心してるのに、中身のある文章を書こうとしてるのに、いしゆり町はずっとAメロなの。それが気持ち良くって読んでてにやけちゃう。


きわめつけはここ。

 

山形はヤマガタと言うだけあって、単に山が多いからその県名になったのかどうかは不明だが、県公式HPの一説によると、由来は以下のようなことらしい。

山形県 山形市 石田ゆり子町 - ただの記録でしかない、

 

「ねえ、なんで山形の由来を書くの?」

「それを読者が読みたいと思う?」

「読者が欲してる情報だと思ってる?」

いや、別に、そうだから書いたんだ。

「そうってなによ」

山形の由来が、そうだから。

山のこと書くから。

 

わたしは筆者に読者に迎合しないで書いて欲しいと思う。筆者の書きたいことを書きたいように描いて欲しいと思ってる。なので文章に「読者なんて知るかよ」って意思があるかどうかを探し読んでしまったりするのだけど、いしゆり町には意思が読めなくて、ただ行為がある。「読者なんか知らない」って意思のない、読者を知らない行為。意思なき行為。企図しない残酷な無視。読者を無視しようと思って無視してるのじゃなくて、本当の本当に自分勝手な自分勝手。「読者なんて知らない」じゃなくて読者がいらない。そりゃあ、虫は人のために鳴いてるんじゃないもんなって思う。くやしくなってきた。


わたしはまだ読者を思って書いていて、たまに読者なんかいらないっていう文章を書けたりもするけど、いしゆり町みたいに残酷には描けない。読まれるために書かれたのではない文章は、読者を必要としない文章は、文章だけで必要十分で欠けてるものなんてなにもない。いしゆり町は、残酷にもわたしという読者を必要としていない。何も欠けていないから。


そういう残酷さをわたしだって書きたい!くやしい!忘れたころにまたいしゆり注射をわたしに打って、にやけたりくやしくなったりしたい。

 

 


 

 

lookwho.hatenablog.com

 

べびーめたる趣味藤圭子趣味さんの「パリの空気」
昨日の夜にスカベンジャーしてて出会った文章。

いしゆり町は残酷な虫の音、ようするに人でなし(褒めてる)だったけど、パリの空気はお弁当。ちゃんと誰かに宛てて創られてて、栄養たっぷりで眼にも楽しくて美味しくて、食べるだけじゃなくて、その包みを開けるときのワクワクまで含まれている、出会いのあるお弁当。読んでると随伴旅行みたいな気持ちになる。書く人や読む人の健康を考えればお弁当や薬を持っていこうって思うよね。

 

相手を自分の上にも下にも置かないから、"善意" や "親切心" なんかとは違う本当の人間味が伝わってくる。おかげで、わたしだって生きててもかまわないんだって思えた。「おもてなし」なんていう、職業差別の裏返しの独善的なことを言ってられるのは、そもそも人間性に対する健康な認識が欠落しているからだ。

パリの空気/対等ということ - 藤圭子趣味

 

ヘトヘトの奴隷になってるお客さんへ心のこもったおもてなしをサービスとして成り立たせる奴らは「あんたまたヘトヘトになるやろ、自分の足で立てなくなるやろ。そんならまた頼っておいでやす」またヘトヘトになるのを前提にして、ヘトヘトがこれからも続いていくと信じて、ヘトヘトから誰も逃げられないようにして、ヘトヘトになるのを待ってる。ヘトヘトやくざなんだよ!

「おもてなしですって?いいです弁当ありますから」

NOといってやるのだ。お弁当を持参して断ってやるのだ。おまえが上だとか自分が下だとか思ってるやくざたちにNOといってやる。

「ヘトヘトなんやろ?」

「おもてなしされたいやろ?」

「おもてなしさせておくれやす」

 

だが断る
君たちみたいな関係やくざがわたしたちは大っ嫌いだ。その優しさや配慮の仮面で人がヘトヘトになるのを蟻地獄みたいに待っている君たちが大嫌いだ。ヘトヘトになるのはいやだ。

 


ここまで書いてて気づいたけど、いしゆり町もパリの空気も街の文章だね。

 

人間たちの巣は、巣とは街のことだけど、巣は、言語も巣と呼んでいいけど、巣は、わたしたちが生まれる前から継承されていて、死んだあとも残る。人の巣からでて砂漠へ向かうなんてのは、これまでもしばしば語られてきた祈りだけど、いくら祈っても巣穴の夢のような居心地の良さからは出ていけない。砂漠にいっちゃったら社会的に死ぬからね。


文学は人の行為のことで、砂漠へ向かう行為も含まれているし、砂漠から巣を見ないと、巣の居心地の良さやその代わりに支払ってるモノは見えないよ。パリの空気は巣から出ていく物語。それは出ていこうとする気質なんだっけ?ええと、ここは、うーんとねえ。

思い出した、出ていく脚の物語だ。出ていくことのできる動く脚、立つ脚の物語。それは、立つ行為や動いて出ていく行為を、座学するわけじゃなくて、頭で気づいたときには立って歩いているということ。座学じゃ立てないから。だから、パリの空気は気質というよりも幻肢の、ファントムの物語だよね。あれ?ファントムと物語ってトートロジーかな。とにかくファントムペインってやつだよ。

 

パリは本当に楽な街だった。手足が思いっきり伸びる感じ。背筋がまっすぐ伸びる感じ。関節が柔らかく動く感じ。それは観光名所でも、地下鉄の中でも、オープンエアーの2階建てバスから街を見下ろしていても、カフェでただ通行人を眺めていても、気まぐれに商店をひやかしても、パン屋でパンを買っても、ビストロで一所懸命に料理の説明を聞いていても、人生を放棄したような人がうろついてるゴミだらけのピガール広場に立ってみても、まったくおんなじだった。

パリの空気/対等ということ - 藤圭子趣味

 

幻肢の痛みは共感できない。だって、四肢がもともとない人たちは、脚のない人たちは、歩こうなんて思わないのだから。立とうとしたときに脚がない場合にだけファントムペインはやってくる。パリの空気にはそのことが書いてあるよね。異国に行ったら痛みが消えて四肢が伸ばせたって。立てたって。

 

 


あースッキリした。

生きてるログを生き返すって健康的だと思う(生き返ってるのか?)。死にかけてたわたしも二つの注射のおかげでいい気分。なんて楽なんだろ。息をするっていい気持ち。あーくやしい。すごい文章を読むのってくやしい。この二つとかはわたしが書きたい文章なのに、既に書かれてるなんてずるいと思う。


ほんと、くやしいって気持ちいい。