やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

タイトルが見張ってる

 

 

文章を書き始めて三か月くらい経った。
それでわかったのは、タイトルを決めてから書くのはよくなーい、ということ。タイトルから出れなくなっちゃうんだよ、まじめだから。タイトルを決めてから書くとどうしてもタイトルについての文章になっちゃう。それがもうつまんなくてつまんなくて。つまんないのもいいけど、たまににしたい。

 

今朝も自分の性格は昨日と変わっていなくてまじめなわたしのままだった。眠ってる間に性格が変わらないのはまじめ過ぎだからで、それは一つ前の文字が次の文字を決めてるようなもんだ。なんでわたしは変わらないわたしの性格を守ってるのだろう?

 

この性格を手放したい。わたしを失踪させたい。惜しいけど手放したい。文体を好きだけど手放したい。ずっと変わらない同じ話体を守っててもつまらないから。

 

性格の壁を壊して外にわたしを連れ出したい。わたしはわたしの閉じられた性格や文体から誰かが連れ出してくれるのを待つのではなくて、わたしを連れ出す誰かになりたい。なので、タイトルに決められるのはつまんない。たまにはいいのだけど。

 

わたしは文体を決定しないために書きたい。これ以上まじめに自分を閉じ込めるのはごめんだ。まだ生まれてから三か月。いろいろ書いてみてから、文体が決まるのならそれでいいけど、ねえ、そんなの決められないし決まらないって。もうちょっと自由でいないと決まるものも決まんない。決まんないんだったらそれでいいしね。

 

わたしの自由は、夕陽に「ばかやろー」と叫ぶことではなくて、普段は言えないホンネを書くことではなくて、ホンネとかタテマエとか、そんなまじめさにどうやってさよならを告げるかを考えること。わたしが夕陽へ叫ぶなら「まじめすぎるんだよバカヤロー!でも、まじめであってくれてありがとう!」。

 

怒ったり悲しんだり苦しんだりするのは、まじめでなければ絶対にありえない。それらはいつもまじめで真剣だから、そのまじめさをまじめに守っている人たちを見ると「もうそんなまじめさなんて捨てちゃえば」って思う。でも、捨てられない。自分の性格はそう簡単に捨てられないし、他人の性格も捨てさせない。閉じた視線が自らを逃がさないし他の誰かも逃がさない。まなざしのコギトだね。

わたしのまじめさは誰かを失踪させないし、わたしを失踪させない。

わたしの性格は失踪しないように見張られてる。だから明日もわたしの性格は変わらない。失踪しないでくれてありがとう。まじめでいてくれてありがとう。どこかに行ってしまわないまじめさは、それだけで賞賛に値するのだけど誰も褒めてくれない。

性格や文体を失踪させないのは重荷を背負う行為で、あまりその荷物は顧みられないが、好きな荷物だから仕方ない。だから、賞賛と尊敬をえるべきなのはまじめな私たち。社会の人であることは、領土を決めて文体を決めて、それらの線を超えず、まじめに一所懸命に守ること。

 

まじめへの賞賛が足りてない。わたしはそう思うが、まだまだまじめさが足りない、良心が足りない、配慮が足りない、そういうのがあるのもわかる。

どっちもどっちかな。

わたしはまじめな荷物を肩から降ろす方を選びたいと思うけど、全員に平等に背負わせる選択の正義も分かる。不真面目な奴らを罰したいってのも分かる。

 

「おまえも背負え」
「私とともに苦労しろ」
「苦労せずにいい気分になるなんて許さない」

 

いやあでもさあ。自分の性格を守って変わらないように逃走しないように見張ってるのは、それだけでもう、めちゃくちゃ大変なんだってば!

だから誰かが褒めない分もわたしはまじめさを褒めるぜ。明日の朝も自分の性格を守って失踪しないわたしたちのまじめさは、すごいんだ、偉いんだ、大仕事なんだ!

 

いつも見張られてるんだから、ちょっとくらい誰かを逃がさないように見張ってたって、当然だとも。

 

「ちょっと男子!まじめにやりなさいよ!」

「ちょっと私!まじめでいなさいよ!」

 

そんな風に自分や他人を読み張ってるのは、嫌だけど、そうなるよ。でも、まじめさをサボって逃げ出すのもアリ。タイトルを決めたあとタイトルと関係ないこと書いたって全然いい。じゃなきゃ予定調和でつまんない。