やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

夏風邪のゾンビ

 

夏風邪をひいて寝ていたら数日が過ぎちゃった。

身体の弱ったわたしは床の中で読むもの見るものにだいたい言い訳を探していて、枕もとにティッシュやのど飴や、病院で診察をうけていただいた薬を置いたら、病人らしさに囲まれて満足した。
咳をゴホゴホしたまま職場に行っても周囲に迷惑がかかるし、なんといっても身体が一番大切だと言い聞かせないと、休むのはやっぱり、肩身が狭かった。または、風邪が治らないまま出社したらわたしは頑張っていて偉いと、少し体調が悪いくらいで会社を休まなくて偉いと廻りに思わせて自分を慰める妄想との間で、言い訳とその間で迷ったり探したりして床にふせてた。

たぶん、扁桃腺がいちごみたいに腫れてるのだけど、そのせいで頭は回らないわけではなく、のどは痛いけど難しい計算を間違えるわけでもなく、身体が弱っても1+1が3にならないので仕事しようとすればできないわけではない。だから、熱が出ても会社に来てしまう人たちがいて「38度の熱があったけど学校に行った」みたいなのが誇らしくなってしまう場面があって、こんな風に身体と記号は別々の世界にあるのだなと思う。

身体が風邪をひいたら1+1が3になってしまえばいいのに。

逆を言えば、言語に罹患してる人たちは全員ゾンビになる。

 

「俺とおまえは同じだ」
「同じゾンビだ」
「隠しているだけだ」
「見せてみろ」

「ほら、やっぱり俺とおまえは同じだった」

 

「38度だが俺は出社したぜ、君は?」のような思想の「私と同じであれ」という記号ゾンビたち。ようは、自分と他人が同じでないと気が済まない。38度の熱は、38だから自分の熱でも他人の熱でも変わらず同じ38。38のもたらす苦しみは人それぞれなのだけど、ゾンビにとっては同じ38だから「38度でも出社したぜ」とゾンビは言える。

漫画とかでゾンビやグールや吸血鬼が出てきたら、わたしは記号ゾンビの暗喩かどうかをまず読む。だいたい悪役ってわたしたちなのだ。過程をすっとばして結果だけを操るラスボスなんて成果主義の権化たる私たちだし、壁に囲まれた世界の外にいる人喰い巨人や鬼なんて私たちだし、魔女を名乗って物語通りに人を殺していく女も私たち。

同一視ゾンビの階級を考えてみる。
ゾンビ兵卒:同じだから私たちは同じ「38度だけど出勤したぜ」。
ゾンビ兵長:同じ中で偏差を利用し兵を束ねる「自分の頭で考えよう」。
ゾンビ大尉:自責するゾンビたち「あの悪は俺たちだ戒めねば」。
ゾンビ大佐:ゾンビの習性を利用する「まだ同じところで消耗するの?」。
ゾンビ将軍:ゾンビの行く末をあんじる「悟りが分からぬなら祈ろう」。


文章とか物語とかは、この「同じであること」へ対峙しているし眩暈がするほど長い時間と途方もない真剣さで対峙してきたので既にいくつもの答えを出している。同じであることを頼りながら文章は書かれる。同じ言語や式を解してなかったら読めないから。

でも、その読みをどうするか、同じであることの壁の外へどうやって読者を連れ出そうかという課題を同じくしてきたからこそ答えへ歩んでいける。世界と歴史はゾンビたちが思っているほどには単純じゃないけれど、単純さも一つの世界なので良い悪いじゃない。

「38度の熱だけど……」の人には単純に38の同じ世界があって、その外に世界がないと思い込みながら生きていくのにどのくらい干渉すりゃいいのさ。38度といっても平熱の違いや症状の違いもあって、なんて説明するよりも「そうだね。君はすごいね」と応えた方が38度の人たちは幸せだろうと思う。でも、わたしは休んで寝てたよ。寝ている間は寂しく言い訳と慰めを探してた。それらが見当たらなかったから、寝室を病室みたいにつくりあげた。