やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

アリアドネ

 

迷宮をテーセウスが進んでゆく。それはアリアドネのためだった。鍛えたテーセウスの両腕は向かってくる牡牛の角を掴み舵を切るように捩じる。牡牛は首を曲げて横転させられる。テーセウスは短剣で息の根をとめた。彼の腰巻は濡れて肌にはりついている。短剣は屠ってきた野獣の血で染まっていて、彼の体表は汗と血で土色になっていた。糸の向こうでアリアドネが待っている。これは彼の試練であった。

 

「私の持ち物は勇気だけ。倒した獣も、勝利も、知恵もすべてアリアドネ、君へ捧げる」

 

雄々しいテーセウスの声が迷宮の中に響いた。

 

迷宮はアリアドネの耳朶だった。
彼女には耳の中を進む小さなテーセウスの脚を引きずる音が聞こえてきた。「私のせいで、可哀そうなテーセウス」。彼女がしゃがみこんで嘆いていると傍らにディオニュソスが現れた。


「いいや、可哀そうなのはお前さ、アリアドネ

「テーセウスは君の耳を捉えようとやっきだが、その小さな耳は」

 

ディオニュソスは笑って、まだら色の一枚布にまかれた身体をアリアドネへ近づけた。

 

「あいつが牛の首を折る音を聴くのかい」

 

ディオニュソスアリアドネがテーセウスに渡した短剣を知っていた。分かっていながら誘惑しているのだ。

 

「獣を殺しているのは私の剣」

 

「そうだアリアドネ。だから君は哀れだ。もう一つの耳を僕の歌で慰めるといい」

「他の男を待つ女人に惹かれた僕の歌を片側に載せて量ってくれ」

 

賢しいディオニュソス
あなたは慰めと言いながらテーセウスと同じで私を待たせる。二人を天秤にかけろと言う。男の体重で押しつぶそうとする。あなたの美しい歌もこうなれば獣の声と変わらない。