やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

読者は神の視点、作者は分子の視点、人物はmol視点

 

感情移入という娯楽は人物に対してなされていて、「あの人はわたしだ」とか「あの娘の気持ちが分かる」とかやる。または、「あいつはわたしじゃない」とか「あの娘の気持ちが分からない(分からないと分かる)」とかやる。感情移入する読者はなんでも分かる神さまになりたいというところに望みを留める。「他人の気持ちを分かってあげたい」と書くと優しくみえて、「他人の気持ちが分かります」と書けばお前はエスパーかとなじられたりする。神さまたちは出し抜かれるのが嫌いみたい。というか、神さまには出し抜かれるなんて概念はない。全部分かってるのだから。誰かが隠しさえしなければ全ては分かる。明かされれば分かる。神さまだから。

明かされてても分かんない
とは思わない。
まだ明かされていないから分からないだけで
分からない=隠されている という式があり
分からない=隠されていない という式はない

読者はなんでも(明かされれば)分かると思っている神さまなんだけど、神がお互いの欲深さをよく分かっていてお互いに反省してる。「神を気取るなんてお互い傲慢だね」と。

翻って作者は分子になりたいというところに望みを留める。主人公も悪役も脇役も美しいのも醜いのもみんな私であり私でないというわけで、世界の部品である分子になりたいという欲望を持っている。

「なんでも分かる神さまになりたい」
「なんにでもなれる分子になりたい」
読者と作者、はたして、どっちの方が欲深いか。