やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

分ける線をかき集めてしまいそうになるとき

 

よく噛んでゆっくり食べた方が太りにくい。頭では分かっているが早く食べて太ってしまう。だって、嚥下する快感や胃が膨れていく気持ち良さが舌で味わう美味しさを上回るんだ。頭で分かるのなんて所詮はそんなもの。頭VS身体の対決はたいがい身体の勝ち。だからわたしはジョギングするぜ。走るのは気持ちいいからな。

頭が食べ過ぎるという現象もある。精神構造学者のジョーギング氏によれば「否定と呼ばれているものは肯定の別名でしかない。だから私はそれを否認と呼ぶ」と言っていた。わたしは彼に同意する。

嚥下の気持ち良さに負けて食べ過ぎてしまうように、頭でっかちの気持ち良さに負けて考えすぎてしまう。本当は、胃が膨れていくのは苦しいのだけど、それを快感と取り違えてしまうように。本当は楽しいのだけど苦しいと取り替えてばかりいる。わたしみたいな頭でっかちはね。だから、線がひかれるし分ける線をかき集めてしまう。翻ってジョギングは、苦しいと気持ちいいを分ける線の間を走っている。

科学宗教学者のワカルンダ氏はこんなことを言っていた。「どう考えても科学的に人間は死ぬ。固い棒で殴ればそれは明らかだ」。それを語るワカルンダ氏はとても楽し気だったそう。それを楽しく語ることのできる彼は幸せだったのだろうとわたしは思う。分かるというのはそれほど楽しいのだが、わたしにははちゃめちゃに見える。それが分かってそれを知って、嬉しいのかな。

 

 


 

「否定という概念は論理学には必要なのでしょうが、私のように精神を扱う学問に身を置いている者はそれが必要かどうかよく吟味すべきです。私たちは生活において扉を開け、誰もいないことを見つけたりしますが、私たちは、ないものは見つけられないとするところから出発します。言語を通して学問を行為するのであれば、少なくとも、数学者が数字を扱う手つきで言語を扱うべきでしょう。ですから、否定はなく、否認があるのみだと私は立場上言わねばなりません。それでも、数学者の控えた手つきに比べたら私のそれは傲慢と呼ばれるべきでしょう」

 

道具の助けを借りて行為するなら、行為に相応しい道具を手に入れてから始めないといかん。スプーンで井戸は掘れない。スープは飲める。言語は考えると呼ばれているものの先に到達するには適さない。だって色んな学問の概念がゴチャゴチャになってるから。そして、わたしたちは考えるという名が示すものをおそらく取り違えてる。たぶん、「考える」と書かないで「反省する」と書いた方がずっと実情に近い。「考える」という言葉の柔らかさが使いやすいから使っちゃってるんじゃないか?「自分の頭で考えよう」なんてスローガンは「自分の頭で反省しよう」と書き直した方がずっと実情に近いと思う。