やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

式とリレー

「冷蔵庫におやつがあります」

書置きを読んだ子供は冷蔵庫を開けてケーキを見つける。「冷蔵庫を開けてね」とは書かれていないのに冷蔵庫を開ける。子供は書かれた文章だけじゃなくて式も読んでいるからケーキを見つけられる。そういえば「レモンありますよ」って言ったのはカルテットの誰だっけ? 「からあげにレモンをかけるかどうかは、あなたの式に任せます」。


「あら、おやつ食べなかったの?」

だって、「おやつがあります」としか書いてなかったから

 「え?」

冷蔵庫を開けてケーキを食べていいって書いてなかったから食べなかったんだ。僕は書かれた通りにしたよ、偉いでしょ?

 


書かれていない小さな式は読まれている。大きな式は、ケプラーが惑星の運行に読んだり、ニュートンが落ちるリンゴに読んだりした。ただ、ケプラーニュートンが読んだ式はコクトーが言ったみたいに自分を読んだわけじゃない。リンゴはニュートンが望んで期待通りに落ちたわけじゃない。冷蔵庫を開けた子供はケプラーニュートンとは違って自分勝手なところがある。「冷蔵庫におやつがあります」と書かれた文章に、自分自身の望みを、「おやつを食べていい」を読んでる。子供は鏡を(己の望みを)読んでいる。

わたしが「式」と呼んでいるのは、そういう書かれていないアナザー言語のこと。以前に、マツコの知らない世界を見ていたらフォントに詳しい人が出演していてこんなこと言ってた。「街の看板を見ると、書かれた内容と別に「これはHGゴシックEだな」と思っちゃうんですよ」。そういうのと似てる。わたしも書かれている文章とは別に「これはこの式だな」と思っちゃう。バイリンガルなのだ。

料理好きが食堂で煮物を食べる時に「この煮物のみりんの分量はどのくらいかな」と考えるのと同じで、わたしは描かれていることの他に式を読む。他の人たちはおいしく煮物を食べられればみりんなんてどうでもいいと思ってるかもしれないが、わたしの鼻はみりんの匂いを嗅ぐ。それは変なことじゃないよね。

 

わたしが「叡智の継承」と呼んでいるものも変なことじゃない。コンピュータはミサイルの弾道を計算するためにつくられたんだっけ? 記憶違いでなければ、工学の土の下には多くの死体が埋まってると言える。はたまた、戦争の早期終結に寄与した勝利の旗がスマートフォンに化けているとも思える。世界が五分前にできたのでないとすれば、叡智のリレーは目の前にたくさんある。科学とか工学の継承は分かりやすい。文学なんかは分かりにくい。眼ではっきりと読めないから分かりにくいのだが、意外と、わたしたちは見えないものも読んでいる。冷蔵庫を開ける子供みたいに。

 

  


  

「式」はともかく、「叡智」は大げさな呼び名だろうか。うーん、いやまあ大げさにしたい気持ちの表れかもしれんが。もうちょっといい名前を考えてみよう。

知識と知式の言葉遊びができるから、わたしは式という言葉を使っている。知識はさ、知っている人/知らない人の間にはっきりと線をひいてしまうから、「なんでそんなことも知らないの?」と知らない人をやっつける武器になったりする。知式の方はうまく使えればそういう風にはならない。

 

式を知らなくても惑星は運行してリンゴは落ちてケーキは見つかる。

 

わたしはもう一歩進めて「惑星はケプラーの式を知っていて」「その式を誰かが見つけてくれるのを待っている」なんて考えたりする。そうすれば、子供は式に気づかないまま式を読み、式を知っているからケーキを見つけることになり、わたしはそれを「頭がいい」と呼びたいんだ。惑星やリンゴや子供は頭がいい。

 

それと、ポロリについて。

 

カルテットで、マキさんがポロリと溢れさせていた悪意と呼んでもいいようなものは、空き缶を投げつけた観客には気づかれない。観客が見たいと望んでいたのは嘘をついて世間を騙していた犯罪者(マキさん)の悪い顔で、それは鏡の欲望。境界線の向こうの悪者(他者)を見て、罪を犯していない観客たちは溜飲を下げようとしていたのだけど、そこで鳴らされていたのが渚のように線で分けない音楽だったから、観客にとっては期待外れだった。望む線が見えず鏡の欲望を満たせなかったのだから、そりゃあ空き缶も投げるよ。

 

どうだろう。わたしの文章はマキさんみたいにポロリしているだろうか。誰かは気づくだろうか。わたしの文章に書かれていない「悪意」と呼ばれるようなものに。とあるアニメを見ていたら「俺たちを見つけてくれ!」と男の子が叫んでいた。ポロリはそんな風にあると思う。

ポロリは

冷蔵庫の中のケーキの横に置いてあるお醤油みたいなもんかな。いくら「俺はここにいる!」とお醤油が叫んでいても、子供の眼にはケーキが写っていてお醤油は映らないから、あるのに読めない。

マキさんが選曲に込めた思いを観客たちが読めないのは、観客たちがそんなのを読みに会場へ足を運んだのではなくて、違うものを読みたいと望んでいたから。人は自分の読みたいものを読む。わたしもわたしの読みたいものを読む。それ以外は読めない。自分の欲望以外のものなんか読めないから、困ったもんだ。


「あら、おやつ食べなかったの?」

だって、「おやつがあります」としか書いてなかったから

「え?」

冷蔵庫を開けてケーキを食べていいって書いてなかったから食べなかったんだ。僕は書かれた通りにしたよ、偉いでしょ?

 

わたしたちはそんなところにはいない。物語はそんなところにはいない。おいしそうだからって毒入りケーキを食べないようにしないとね。

 

「あら、冷蔵庫にメロンがないわ」

おやつだと思って食べちゃったよ。

「腐ってたから捨てようと思っていたのに」

 

笑いばなしにすることもできる。

 

 

溝が深くてみぞみぞする。
なんでこんなに溝が深いのだろうか。

 

お客さんが一時の癒しを求めておいしそうな料理に飛びついているときに、料理人はといえば、受け継いだ技術をどうやって後世に残そうかとか考えていたりする。または、食べる人たちの健康を考えていたり、または、毒を仕込んでいたりする。お客さんが美味いとか不味いとかワイワイやっている隣で、料理人たちはみりんがどうとか調味料がどうとかオリジナリティがどうとかワイワイやっている。観客たちと料理人たちの間の線は、間の溝は、これからどうなっていくんだろうとわたしは考える。お客さんと料理人の間をふらふらしながら。

 

  


  

 

うーん、わたしは何を書きたいのだろう。
ああそうだ。わたしみたいに自分なりに割とちゃんと他の人たちの文章に向き合う読者はあまりいないから、わたしを大切にした方がいいんじゃないかしら? ってことは伝えたい!