やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

物語には読者の欲望が描かれている

「人間は書物を読むのではなく、読むことで自分自身を読む。同じように彼は絵画を観るのではなく、その絵画を観ることで自分自身を観る」


コクトーがそう言ってた。同様の寂しい事実を他の人たちも語っている。わたしはそういうのを「鏡を読む」と呼ぶ。寂しい事実と書いたのは、わたしたちが己しか読めないのだとすれば、それは一人ぼっちで寂しいから。それじゃあ、他者を読んだり観たりするのはどのように可能となるのか。

わたしは物語に式を読むけど、そこでは「鏡を割る」や「鏡の世界に陥る」などはありふれた式で、どんな風に他者と出逢うか、つまり「どうやって鏡の世界から脱出するか」はたくさんの物語に書かれている。

現実ではどんなことが起こっているのかというと、たとえば、書かれた文字や人や絵に自分を読んでいる人たちは、ツイッターやブログの中で、気の合う仲間同士でお喋りしつつも孤独を癒せないでいる。まあね、気の合う仲間というのは鏡に映った自分のことなので、孤独が癒せないのはあたりまえなのだけど。だから、彼ら彼女らは寂しさにまかせて疑似的に他者をでっちあげている。線をひく。自分たちよりものを知らない人を見つけて、自分と分ける線をひいて「あのバカは俺たちの仲間じゃない。バカだ」とやって孤独を癒している。彼らには他者がどうしても必要だから。

俺たちはバカじゃない、病気じゃないと線をひき続ける。
鏡の世界には自分しか映らないから、鏡の住人は自分より劣った人や狂人や罪を犯した人やルールを侵す人がどうしても必要なんだ。そういう疑似的な他者が自分を癒すための供物というわけ。外部をつくることで内部を(自分とその仲間を)守っている。

孤独とか寂しいとか書いているけれど、別の名で呼んだ方がいいのかもしれない。外に敵をつくるのが内部の争いを治める手段として手っ取り早く行為されるという意味で、「政治的正しさ」とでも呼ぼうかな。政治的に正しく賢い選択として他者の創造が行われると観た方がいいかもしれないけど、わたしは孤独の(線をひく)創造力と呼びたい。その方が「蠱毒」を想起できるから。

 learn to forget さんの文章の中に、物語と現実の間に線をひこうかどうしようかというためらいをわたしは読んでしまい「うーむ」と思ってここまで書いてみた。ちゃんと他者化できてる文章だろうかと心配になる。まあ、いっか。これはあくまでもわたしのひく線。

ふう。もう何度目かわからない深呼吸をして、わたしはわたしの眼を見る。そこにはわたしの書いた文字と呼ばれるものが書いてあって、その黒い線が指し示す先を参照している。

物語=つくりばなし=フィクションと現実の間に線をひいて、「漫画やゲームやドラマは現実じゃありません」と守った方がいいのは、読者の読み方にかかってるのかなあ。一方で、物語の方はといえば、リアリティの名の下に現実とフィクションの境界線を破ろうとしているから困ったもんだ。

でもその線もありかもしれない。
物語は人の叡智を継承してきていて、その知は、現実よりもずっと先に行くことができる。「私はここまで進めたから、あとは頼むよ」。そんなリレーをわたしは叡智の継承と呼んでる。先人が描いた物語に敬意をはらうからそうなって、リレーは進んでゆく。だから、これから起こりうる現実を物語は先取りできたりする。そういう意味で、物語と現実を分ける線もありかもしれないな。

 

ネットの悪いところは、簡単に自分を見つけられるところで、自分が求めている自分を見つけられるから気をつけないとね。わたしだって、わたしよりも劣っている誰かを見つけたくて見つけては「ばっかじゃないの?」とやっている。それがわたしの鏡の欲望だから。それはわたしのせいじゃなくて、身体性を欠いた記号を読んでいれば避けることができない。そうなっちゃうしくみなんだからわたしたちのせいじゃない。

鏡の世界は眠っているお喋りと夢でいっぱいで、現実は草花の沈黙でいっぱい。

ある種類の物語はわたしの欲望をまだ見ぬところへ連れて行ってくれる。そこは、まだ話されていない、はっきりと欲望されていない欲望の場所で、沈黙の場所と言い換えてもいい。他者の場所と呼んでもいい。しかしそこは、わたしが望んだことのないところだから、期待通りではなくて、期待すれば裏切られるような、残酷な場所とも思えるくらい殺伐としているかもしれない。それでも、そういうのを欲望していれば、読者の欲望を描いてくれるのが物語なんだろうなと思う。