やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

「みぞみぞ」

ドラマ「カルテット」ですずめちゃんが「みぞみぞする」と言ってた。新しい言葉はいい。新しい感情?観念? 文章でもドラマでも絵画でも、その全体で新観念をひとつでも生み出せたら痛快だ。「みぞみぞ」は伝わらなくて痛快だった。小さな創造だものね。

伝わらないと孤独だとわたしたちは思うけれど、「みぞみぞ」みたいな伝わらない孤独だったら悪くない。先日、友人と「眠れてる?」なんて話をしていたときに、彼女が「左側を下にしてると自分の心臓の音が気になって眠りづらい」と言って、そんなこともあるんだなと思った。その日の夜に左を下にして寝てみたら、わたしは全然気にならず右でも左でも眠れるので得意になって次の日にそれを報告した。すると彼女は「私は小さい頃からずっとそうだよ。たしか友だちにも私とおんなじ子がいた、あーいなかったっけ」と話して、同じ子がいたか思い出そうとしてた。「この話、むかし誰かとしたような気がするんだよな」「ほんとに? そんな人他に聞いたことないよ」「あーもしかしたらいなかったかなあ」。

じわりとパズルのピースがはがれていって、また組みなおす。わたしだって愛と呼ばれているものについてずっと考えてる。それを「守ること」にしてしまうと一気にロマンが失せていく。自分を守ったり他人を守ったりするのが愛で、だから自他の境界線や言葉のひく境界線が防衛線として働く。どうしても線は内と外を分けるから、だからたくさんの物語で海と陸を分けない渚がモチーフになったりする。振動するもの、音楽とか感情の波とかも。

白か黒か。仲間か敵か。嘘か本当か。自分か他人か。正しいか間違ってるか。それが分かり、分ける線を守るわたしたちにとって愛は厳しくせまってくる。廻りを見渡せば、どちらが正しくてどちらが間違っているかをはっきり分けるため起こっている争いがたくさんある。人と人の間でも、一人の心の中でもある。

わたしは他者を守って闘う人たちに敬意を払う。闘わない人たちはどうしようもないが、また、戦わない、または諦めた、愛のない人たち、なにも守らない人たちのスタイルが求められたりするだろうが、神さまの設計図は美しくできているから大丈夫だろう。守るものが自分しかない人たちや闘わない人たちはそこから進めないと物語で決まっている(今のところはずっと継承されている)。そこまではたくさんの物語に描かれていて、物語はそこまでは到達してるんだ。わたしはもっともっと進めたい。愛=守ることの式は、納得できるけどわたしの好みじゃない。