やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

人が嘘を吐く前に言語が嘘吐きなんだけど、その作用は嘘じゃない。

なんというか、綺麗な文章が好きじゃない。
読み映えのする比喩表現に釣られまいとするあまり綺麗と呼ばれるような文章を嫌っているのかもしれない。わたしはそういうことについて思っていて、文芸の「芸」の部分、それはただの言葉で「芸人」の芸なのか「芸術」の芸なのかも定かではないが、これはなんだろうなあと思う。

わたしには、文章の美しい人たちのことを十把一絡げに「それは本当にあなたの文章なの?」と思ってしまうところがある。匂いだな。美しさのための美しさ。もう匂いとしかいえないのだけど、空っぽの、美しさのための美しさだと嗅ぎ取ってしまう。

わたしの鼻の正しさを集めようと思えば集められる。たとえば、プルーストは「美しい文章は外国語で書かれる」と言っていた。言語が人に嘘をつかせるので、嘘でなく書こうとすれば、それは正しい語法で書かれるなんてありえない。この「語法」のルールを破るところから、国境を超えるところから、罪を犯すところから、アウトサイダーになるところから、文章が書かれるというのは近代的過ぎるだろうか。はぐれ者のゴロツキどもに文芸という語が全く似合わない。

文章が下手というよりは、正しい語法の躾けから逃れる文章を書くしか嘘をつかない方法がないから、文章が上手になりえない。そう書かれる方が嘘でないとわたしは思っている。換言すれば、人が、正しく美しく読みやすい文章のようではないということ。文章のように正しくなかったり美しくなかったり読みやすくなかったりする人のことを書けば、それは外国語のように読めなくなってあたりまえだ。

意味をあたえる さんを読んでいたら、「文章は下手に書くほうが才能がいるような競技」と書いてあって、それは違うんじゃないかと思って書いてみたらこんな風になった。