やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

肛門性

「私が何を知っているかわかる?」

少し前に問いのマウンティングについて書いた。問いの裏には「答えなさい」という脅迫があるのをわたしはずっと前から知っている。インターネットで「私がなんで怒ってるかわかる?」の問いがモラハラだと話題になっていた。何も知らないお喋りたちをわたしの肛門性が「そんなことも知らないんだ」と心の中でなじって、気分がすーっとした。

問いの脅迫は哲学者や漫画の著者がわたしに読ませてくれた知識で、広く流通していないわたしたちだけの知識だから、それが常識となるまでは「わたしたちが何を知っているかわかる?」と読めない人たちを脅迫できる。誰もが知っていれば知識は陳腐化する。誰もが糞をするから美人だって「糞たらし」と呼んで陳腐化できる。でも、知ることや知性を貶めるわけにはいかないので、糞便が肛門を通る時の密かな快感に知が結びつく。私だけが知っている私の怒りは、隠されている限り、知るべきおまえの不能をなじる。知をひけらかしたいが、ひけらかしてしまえば「そんなことで怒っているなんて」と陳腐になる。そのあとで、ひけらかしが「恥」という言い訳を得て隠蔽を正当化する。そういうことを「まるで肛門の快感を知った幼児のようだ」と分析した人たちにわたしは同意している。知識は、たくさんの人たちに知られてしまえば糞便のように役に立たないが、隠された糞便は快感を生む宝石に化ける。「そんなことも知らないのかい? そりゃあ愉快だ」。

あの秘密は、それが知識であれ喜びであれ、苦しみや悲しみであっても肛門性と共にある。「私がなんで笑ってるかわかる?」「私がなんで泣いているかわかる?」。子供たちが「内緒だよ?」と打ち明けるところにも、女たちがひそひそと陰口を交わすときにも、知っている私たち/知らないお前たちを切り分ける線と共にある。知らないお前たちに支えられる分数の分子としての「知っている私たち」。そこにいるためになら苦しみさえ捧げられる。

ドラマ「カルテット」について書きたくなる。マキさんには秘密があった。戸籍を買って別人になりすましていた彼女は罪の苦しみを隠していなかった。「私が何に苦しんでいるかわかる?」なんて言わずに普通に過ごしていた。隠しもせず打ち明けもせず暮らしていた。マキさんの秘密の存在が暴かれた時に、打ち明けずに過ごしてきた暮らしが隠していたことになった。「嘘」になった。

マキさんの秘密の存在が暴かれるその時まで、打ち明けずに暮らしていたことは嘘ではなかった。知らなくていいことを知らせる必要はない。むしろ、知らないすずめちゃんたちと同じ、秘密を知らないあなたでありたい。

終盤で、肛門覗き趣味を「知る権利」と呼ばれる覆いで欺く客たちをたくさん集めてコンサートが開かれる。罪を隠して俺たちを騙していた嘘つきの顔を見てやろう。隠している間はさぞ気分が良かったろうが、もうそうはいかない。俺たちの眼はその顔を「知る」からな。客たちは、曲名に込められた彼女の溢れた悪意を知ることはできない。知らないことにも気づかず知っている彼らは。

大人が秘密を守るのは、なんでだっけ? 思い出した。知らなくていいからじゃないのかな。音楽のような暮らしがあればいい。暴きたがりが暴かなくていい秘密を暴きにやってくるけれど。

 


知識は身体には適わない。肛門性を知っても、知識をひけらかして知らない人をバカにしたいと思ってしまう。それに、単語のイメージが汚いからといって肛門性は悪いことばかりじゃない。良い肛門性もあるので欠くことができない。肛門性はただの理念として、言葉としてあるだけ。ドラマや漫画や哲学書や日常風景の見えないところに書かれている言語として、世界を切り分ける言語としてあって、新聞や会話に使われないから馴染みがない。わたしは、マキさんや、肛門性との闘いを考えるのが好き。