やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

語と文法のハッカーとフィクションのこと

言語は人の通る舗装された道のようなもので、山の中や森の中までへは通じていない。山や森というのは隠喩で、他の人たちはそれを未踏の大陸などと表している。または、舗装された道の方を孤島だとか塀に囲まれた国だとかで表す。道を見て歩いていると山や森は存在さえしないのと、専ら人が知りたいのは、というか人はみんな言語の専門家なので通じるいつもの道を通る。言語学も修めていないで専門家気取りなのは鼻につくが、わたしたちは実験者なのだと思えばスッキリとする。観察者と対象が一体となっているけど。山や森に立ち入るには、一人で入る以外に方法がない。というのは、仲間を募るための通じる言葉がなくなるということだから。通じる言葉がなくなるというのは話の通じない狂人になること。少しカジュアルにすれば「日本語も読めないのか、話せないのか」そういう馬鹿のこと。通じる言語を捨てること。

たとえば、眼の方が言語よりも色彩を知っている。あたりまえだけど、青や赤や黄色の境界を越えて色彩は存在してる。言語の外に存在しているので眼の方が色をよく読んでいるが、眼は孤独な狂人で読んだものをわたしの痕跡に伝えられない。それは言語の方が眼よりも色に関して無知ということだが、なぜか言語の方が偉そうにしてる。

「現役の大工が教えるきれいに仕上がるかんなのかけ方」が書かれていたとしても、きれいに仕上げるには身体の修練が必要。書かれたかんなのコツとかを読んで分かってしまうことをわたしは「身体性が奪われていく」と名付けてる。彼らはそれを「知識」と呼んだりする。山や森を含めると思考にも身体性があるので、わたしは彼らが思考とか知と呼ぶものを呆れて眺めている。呆れるのは、わたしが自身を肯定するのに彼らを否定するのが手っ取り早い舗装された道だから。この否定はまだわたしがいっぱしの馬鹿(ハッカー)でないのを示してる。

単純に「知ること」は子供のころのわたしにかかってきた電話のように、気分がいいものでない場合があるし、良心に関わりはないし残酷であることも多いのだけど、なぜだかは推論できるが、知や読むことは誰も傷つけないかのような錯覚に陥ることも多い。わたしはそういうのを「眠り」と呼んで、それを読んでいたりする。山から下りてくると道行く人たちが逆狂人に見えてしまうのは山と森のあるある。言葉が沈黙の器官たち(色彩を読んでいる眼とか)に沈黙を強いている。道にたむろしている彼らは保安官。不安を殺して安心を保つのには話が通じ続けるのが一番の薬になるから。彼らは話の通じない馬鹿たちを薬の弾で撃つのを仕事にしている。あるいは、狂人と自分たちとを住み分ける縄張りを守り続ける。そんなハンターたちを撃つ仕事がハンターのハンター。