やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

わたしのスイッチ

小学二年生だったわたしは、たまたま家にかかってきた電話をとった。もしもし、山森です。わたしにとって電話はまだ遊びだった。「おまえ誰だ」。女性の恐い声でわたしはびくっとした。「山森の娘か。母親によく言っておけ。人の旦那に手を出すんじゃねえってな」。これがわたしのスイッチ。わたしだけがそれを知っていて、誰にも言えないこと。

電話を切ったあと、わたしはどうしたのだっけな。母が酔って帰ってきたときのことかな。また電話がかかってきたらどうしよう。いつも通りに振る舞おう。お父さんが電話に出なくてよかったな。妹が電話に出なくてよかった。お母さんでなくてよかった。わたしでよかった。わたしには妹がいて、かわいくて、寝ている顔にいつもチューをしてた。彼女の笑った顔が大好きだった。妹や父や母を守るために、わたしが知っているそれは押してはいけないスイッチになった。そのあと、電話はかかってこなかった。それが良かったのか悪かったのかはわからなくて、時が経つとわたしはそれを忘れて過ごすようになったのだけど、わたしの記憶は、母と妹と父のことを嫌いになったわたしとして長く残った。「何も知らないくせに」。

こうして書いてみると、小学二年生のわたしが今のわたしを見ている。つらかったね、と彼女に声をかける。高校生のころにフロイトの「夢判断」を読んだ。そこには確か「夢は願望充足である」と書いてあって、わたしはなるほどと思った。思えばそこから、わたしのわたしを巡る冒険が始まった。わたしは知りたい。わたしはあの頃のままだ。あの沈黙に閉じ込められた過去のわたしをわたしが見捨てるわけにはいかない。わたしの冒険は探し求める旅、秘密を守る大人だった幼いわたしに寄り添い、秘密を知らない愚か者どもをどうしたら許せるのか、どうしたら肯定できるのか、どうしたらよかったのか。わたしは「知ること」の冒険の中で、わたしと同じように秘密を守っている大人たちに出会った。もう亡くなってしまった異国のおじいちゃん、おばあちゃんたちが残したたくさんの手紙。そして、彼ら彼女らを継承している物語たち。大人は秘密を守る(大人の中の子供がそれを少しだけ溢れさせる)。守られて眠っている観客たち。それを知らないから世界で一番かわいいわたしの妹。何も知らない憎たらしい寝顔の妹。物語は寝ている子供を起こさないようにキスをしたり牙をたてたりしている。


 id:masa1751 さんもスイッチの夢を見ていたとブックマークでコメントくださって、うれしくなってスイッチについて続きをかいてみた。ちょっと重い話になったけど、今は家族と仲良しです。いつかmasa1751さんのスイッチの文章も書かれたらいいな(既に書かれていてわたしが読んでいないかも)。こんなこと書いてたらどこかで読んでいるような気がしてきた。

ゆみちゃんの文章もすごくよかった。ゆみ先生のまなざしと女の子たちのそれが重ならないところから重なる場所へと移っていくのがいい。重ならないのは、ゆみ先生が「何を見ているの?」と問わないからだとわたしは思ってやきもきする。そのあとで、重なる場所がバスの中なのがすごい。たまたま同じバスに乗った知らない人たちと視線だけが出逢うのはすごい。よくわからないけれども。ゆみちゃんは古典の先生だけに文学を行為してたのだと勝手に思いました。

わたしはブログ? を始めて間もないからわからないけれど、スターを付け合う人たちは同じバスにのる知らない人たちかなと思います。たまに「読んでないのにつけてるだろう!」っていうスターもあって、そういうのは匂いでわかる。「別にいいけど」と書くけれども。

100文字だったっけ、140文字だったかもだが、その規則で行儀よくわたしがおさまらないのでスイッチのことやゆみ先生をちゃんづけで長々書いてしまった。ふと思ったのが、他の人の描いた文章のあとについて何かを続けるのは野暮と呼ばれて避けられているかもしれないということ。境界を越えて土足であがりこむような野暮はよろしくない。馬を盗んで国境を越えたり、バリケードを破ったり、規則を越えて犯罪を侵したり、不倫をしたり、つまりはスイッチを押してしまうたいがいの物語は境界を超える野暮さを抱えたろくでもない話だから、わたしはバスに、ちゃんと、ろくでなさが少し溢れている人たちが乗って欲しいと願っているのだけど、どうなんだろう。わたしの指から打算の匂いがするだろうか。記号銃をつきつけて「わたしの文章を読んでください」「応えてください」という匂いがするかどうか。自分の書いた文章の匂いだけはてんでわからないのは溢れることと関係があるような気がする。

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