やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

確かなものを探しているときに

確かなものを探しているというよりは、あなたを騙すものを探しているときに、わたしは確かでなくなりたいと思っている。騙されやすいと自省する迂闊でない人たちが、あの手この手で騙そうとしてくる環境のただ中で、訴えることのできる良心の保全にやっきになっている姿を、わたしはインターネットに見ています。たとえば、集合知という既にないかもしれない言葉がまだあるとすると、知が明かされる公開されるという前提が集合知には必要なのだけど、なんでそんな前提が成立するのかわからない。

知は明かされるだろうか。簡単に知が明かされてしまうと学ぶ姿勢が奪われてしまう。集合知とかつて言った人たちはどんな知の集合を考えていたのだろう。

悪い人たちに爆弾の設計図が与えられませんように。

もしも集合知があったら、わたしたちはそんな風に祈りながら過ごしていたかもしれない。誰かを非難するための悪知恵ばかり集合させている人たちに知は届けられるだろうか。知者たちはそんなに愚かだろうか。現実には何が集合している?