やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

渚という行為

ネットでとある記事を読んでわたしは憤慨した。「今までも人類は危機を乗り越えてきた。きっと現在の危機も乗り越えていける」。
一読するといい感じに聞こえるがこんなバカな話はない。確かに過去の危機は乗り越えられたが、それは乗り越えた人の物言いで、たくさんの見えない犠牲がはらわれたはず。乗り越えたろう。顧みられない犠牲を伴って。わたしは顧みられない側の人間だ。その他大勢の見えない側の人間だ。声のか細い、目立たない、辞めていった、死んだ側の大勢だ。わたしは書いたものをネットに公開しておいてなんだが、書かない側の人間であるし、いつも書かない人たちの味方だ。書かれないこと見えないことを何も知らないくせに、何かを知ったかのように大声でわめき散らしているモノマニーたちを心底軽蔑している。でも、理屈ではただ一度だけ肯定している。そうなっていることを。循環参照のエラーを肯定している。わたしが平凡な人間だからわかる。平凡なわたしが平凡な仲間たちを求めるのを肯定する。わたしはわたしと同じ価値観の凡人を求めることを循環参照と呼んでいる。
わたしには天才の言うことはわからない。「わからない」は「わからないと、わかる」ことではなくて、「わからないことにも気づかせない」ことなので、とりつくしまもない。わたしは常にわからないを行為している。でも、わたしは読んでいる。たとえば、渚という名ははっきりと海と陸を分ける線ではない。今はただの名前でしかない。