やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

仮面と骨

わたしはその人を男だと思う。簡単に言えば彼はずっと「釣り」をしていた。匿名の掲示板で男のフリをしたり女のフリをしたり、政治のことを書いたと思えば料理のことを書いてみたり、花火について書いたかと思えば絵について書いてみたりしていた。たぶん、今も続けていると思う。道化師について書こうと思う。世の中には道化師という類型がある。まずは仮面について考えなければいけない。仮面をかぶり相手に仮面を見せると、虚と実の間に線がひかれる。仮面を見ている相手は虚を見ていて、仮面の男の素顔を知らない。実と虚実を知っている仮面の男。ここから、二つの道がある。

一つは虚に騙される愚鈍さ、眼に映るものを実だと信じてしまう愚鈍さがあり、仮面の男は眼に映るものを疑う。疑えない者は騙される。疑えることができて実を知るものに騙される。騙されるか騙されないか、虚か実か、疑えるか疑えないかの白黒世界が仮面の男を待っている。こうして反転する虚実の中で確かなものを探すのが仮面の一つの道。確かであり疑えないものは何か。それはたとえば死であったり、欲であったり、美であったり醜や力であったりいろいろなのだけど、仮面の男はそういう疑えない確かなものに縋る。なぜかはわからないけど、仮面の男にとって確かなものは一つなのだ。二つ三つはありえない。「死の前には無意味」「力の前では無価値」「信じられるのは欲だけ」のようにただ一つの確かなものに縋る。「それを知っているのは俺だ」。

もう一つの仮面の道は、確かなものは何一つないという道で、これが道化師の道。騙されたり騙したりするのも等しく価値がない。確かなことは何一つ無いというただ一つ。 道化師はそれを知っていて、おどける。何も意味はない何も価値がない。自分にも価値がない。さあ、おどけて踊ろう。何かを守ったり執着したりするのは弱点だ。何も意味がないというただ一つ。仮面は虚だって?素顔だって虚さ。

この二つの道と混ざり合って仮面がある。
ヒソXやシセX、ディX。仮面の男たち。
あの男は道化師だった。

知ることと仮面は切離すことができず、多かれ少なかれ仮面の類型に従う。騙される愚鈍を笑ってみたり、無価値だと踊ってみたり、確かなものを探してみたり疑ってみたり。そういうのを見るたびに、わたしは仮面について考える。

 

わたしは小さいころ骨はあるのか聞いた
保育園のころだろうか。わたしはテレビでイカかタコを見ていた。わたしが寝室にいくと父と母は居間でテレビを見ながら晩酌をしていた。わたしは布団の中でイカやタコには骨がないということを繰り返し考えていると、その考えは夢と交じり合ってわたしは起き上がり、居間に行って両親に聞いた。「わたしには骨があるの?」。聞いてはいけない部類の問いだと分かっていたが、夢の中だから大丈夫だろうと思って聞いた。両親が応えたかどうかもわからない。どんな顔をしていたのかもわからない。わたしは寝室に戻って寝た。そうして、骨があるかどうか見たことがないのにどうして生きていけるのかと思った。イカやタコだったらどうするのかと思った。自分に骨があるかどうかを知らずに生きるなど不安でしょうがないじゃないか。わたしは眠りについた。もうずいぶん時が経ったが、わたしはあのころのわたしと友人だ。

恐ろしい想像だけど、骨があるかどうかは切れば分かる。わたしは切らずに知らない不安を眠らせた。わたしがとても聞き分けの悪い子だったら、眠らない子供だったら、骨があるかどうかどうしても知りたかったら、切ったのかもしれない。知らない不安を甘くみないこともできたろう。わたしはどこかで甘くみていた。