やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

「あんたは知らないだろうけど、ここじゃ少額を賭けるのが決まりなんだ」


書くときも読むときも何かしらは賭けられている。
書かれた文章の中には、たまに命が賭けられていたり人格や良心や法外なものが賭けられているものもある。 すっからかんになるわけにはいかないので大概の読者はたいしたものは賭けられないというか、 「読めること」を賭けて受け取っている。「書かれた文章を読めたので、わたしもまだ狂ってはいない」。 知っていることは知っていると読めなければいけないし、知らないことは知らないと読めなければいけない。ただもう何が何だかわからないときは、書いた方が狂ってると読む。 万事この調子なので読めない文章は見当たらない。私の軛から外れるようなものは見当たらない。大したことは書かれていない。なぜなら、私はその文章を読めるのだから。

困るのは読めない文章に大したことが書かれている場合なのだけど、それはきっと誰かに読まれて私のところまで読めるようになって伝わってくる。それはおそらく間違いで、たとえば爆弾の作り方なんかはずっと読めない文章であり続ける。だから、君が言うように、賭けられるのは文体くらいのものだ。少しいい感じの文体や悪い感じの文体。ちょっとした性格は賭けられてもいいが、命やら人格全体を賭けるわけにはいかない。一文無しになったら酷いから。僕たちは文章に大したものが賭けられていないと願ってる。ただ、「読める」という少額が賭けられていないわけにはいかない。誰もこの賭けから降りることは許されていない。少額を賭けて少額を受け取って、大した勝負じゃなかったと言って、ずっと賭けつづける。大抵の場合、書いたり読んだりはそういう風になっている。ジュース賭けるくらいでちょうどいい。