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やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

てかげんなしで遊ぶには

言語のこと。

自らを読めるものとして他人に表すよう強制された。または、嬉々として表すことに飛びついた。私が初めて「私」と言ったときを思い出せばその時のドラマが判明するのだけど僕は残念ながら覚えていない。昔の人はそのドラマを象徴界への参入と呼んでいた。僕は「てかげん」と呼ぼうと思う。僕は手加減して「私」になった。仕方がない、それしか道がないのなら僕は手加減してあなたたちの遊びに付き合ってやるよ。ところで、僕の取り分はどこだい? 手加減と取り分と書いたけれど、これらも読まれなければ現れない下卑た言葉だ。飢えなしで歩くのは意味があると思わないけど、それを観念として存在させるなら読まれることのない記述の助けになるかもしれない。一度、手加減なしの遊びをやりきった方がいい。手加減して周りに合わせていると「手加減してやっているぞ。さあ、俺の取り分をよこせ」になってしまう。取り分を求めて癇癪を起こした子供をどうやって眠らせるかはいろいろ考えられている。絵本を読み聞かせるのはよく聞く子に育てるためと君は書いていたけど、眠らせるためでもある。

大人は自分の内心にいる子供たちの眠らせ方をたくさん知っている。なんにせよ納得させること。自身の内にいる癇癪を起こした子供たちの聞き分けの良い耳に向かって、記号の知性に向けて、読むことのでき読ませることのできる知性に向けて納得を提供できるのが大人と呼ばれている。私は納得できる、私は私を納得させることができると確信している人物が大人を名乗ることができる。だから普通は読めない文章は忌避される。読めない文章に出会うのは赤子だったころの私だけ。私は大人だから読めるし読めなければ大人ではない。

こう書いていると僕は言語が故障していないと思う。逆に、なんてよく機能しているんだと感心する。神なんて信じないと言いながら読める自分たちとその読みを信じて疑わない彼らは神さまそのものだ。読めるように自身を表さない誰かは分裂病、今は統合失調と呼ばれている病人だ。その病気は読めるものとしての私と対になる双子のような病で、病と呼ばれるのはそこに閉じ込められている状態を指す。本当ならば、その閉じ込めることが病と呼ばれるべきもので、双子や幾人かの兄弟姉妹たちがそれぞれを行き来できるのならそれに越したことはない。「人がもはや私と言わなくなるような場所」と誰かは書いていた。

僕はそれを、人がもはや手加減しなくて済むような場所と言い換えてみる。誰かに読めるよう手加減しなくて済む場所。それはありふれたことで、たとえば絵画は読めるようには描かれない。ただ手加減なしに描かれるだけだ(キュビズムとか)。文章でもよく分裂された物語は筆者が私と言ったりはせず、私と言ったかと思えば双子の片割れに飛び移ったり戻ったりする。彼らは病気のことをよく知っているか、または手加減なしで遊ぶのをやっているかだ。私を「私」のくびきに閉じ込めて読めるものとして表す限り、書かれたものは私を閉じ込めるのによく機能する。たくさんの意見にまじめな耳を傾ければ傾けるほど窮屈に閉じ込めれていくのは、それが読めるから。

人が手加減なしで書くことと言ったら怒りや罵倒や悲鳴やそういうものになると信じられてるのは僕にとって信じられなくて、それらこそ最も読みやすい読めるものとして表れるものなのだが……。怒りだとか罵倒だとか悲鳴だとかは良く統合されているものなのだけど、それらを通っても過ぎ去ればいいと僕は思うし実際に過ぎ去っていく。それは怒りの場所にいったんは所属して、怒りの仲間たちから去っていく行為。誰もそんな場所に住み続けたりはしない(怒り続けたり悲しみ続けたりしない)。そんな風に感情に於いては遊牧民であり社会においては定住民であるような矛盾を矛盾と認識できない言語はよくできている。世界が社会と関係ないなんて言えない。社会は世界の現実の一部であるのは確かで、それになんとか適応していく努力は存分に発揮した方がいい。言語は属するのに適していて、考えるのに適しているのではなく、むしろ考えないことに適している。考えずに統治することが社会から個々人に求められている。

言語は統治する道具として故障なく機能していて、世界や社会を記述するのには適していない。それを記述するのなら絵筆やカメラを手にした方がずっといい。あるいは演劇や映画の方がよく記述すると思う。記述するに値しない道具を嘆くよりはよく統治されている事実を僕は喜ぶ。人が人を物理的暴力なしで統治するには、残酷を見ることなしで統治するには、書かれた文字がどうしても必要だったと思うし、書かれた文字がことばの暴力と呼ばれようとも、それが暴力であるから、僕たちは自分で自分を殴って統治できる。自分をコントロールできる。

僕たちが僕たち用に手加減された読める文章を読んでいる限り、「わかる」「納得する」「わからないことがわかる」「納得しないことに納得する」が続いていって、可能なことと言えば本当に文体、話体、性格をつくることだけになってしまう。実際にそれはずっと続いていて、だいたいの人が気にできるのは話し方しか残されていない。統治するために僕たちは自分自身を磔にしたり他人を磔にしたりしていて、元も子もないことを言えば、自分をいじめるか他人をいじめるかしか統治の方法が見つかっていないということだ。僕たちが自分自身の悪行や悪心を読めるものとして読み、それを悪だと読んで律し統治するか、それを悪だと読めない誰かに読み方を教えて統治するかしかない。

最低限、悪行や悪心を読めなければいけない。自分であろうと他人であろうと、自分に書かれた法であろうと他人に書かれた法であろうと、ルールだけは絶対に読めなければいけない。頭がどれだけ悪くてもかまわないからルールだけは読めなければいけない。共感能力とは、同じルールを読んでいる仲間同士の隠語を読む能力のことで、言語とはそれが隠されていようとルールの塊なので、僕は共感能力について何も言っていないに等しい(同語反復)。

近親相姦は禁止されているのではなく不可能な純粋概念だ。まさに絵に描いた餅としてしかありえなくて、たとえば、私の母が私の姉でもあるときに彼女は一体だれなのか。私の父は誰と寝たのか。それは母なのか姉なのか。では、父とは何がそう呼ばれるのか、息子と呼ばれる私は母の何なのか。誰かはそれを「名が滑っていく」と言っていた。言語という法そのものについて考えるのは近親相姦のように不可能な概念としてある。なので、たくさんの人たちが近親相姦を手がかりにして言語のことを考えてきた。

考えることが何かを守っている。守っているのであり考えてはいない。そして、その守りが別の名で流通している。これらのことが過去の一部の人たちの仕事の遺産として継承され流通している事実はとても過酷で、できることなら信じたくない。ようするに言語の外は法外であって、それは表面としては流通せず裏面に流通していて、ならずものたちの隠語として書かれている。裏社会にも遵守される秩序がある。言語の外の言語は、言語を、つまり統治され守られているさまを記述する言語として用いられる秩序であり、だから「外を知らないペンギン」として統治者たちが言外に描かれたりする。言語内の統治者たちが仲間たちと話しているように、ならずもののゴロツキたちも言語外の言語でささやきあっている。しかも、外の言語はそれなりの歴史を経て発展を続けている。この状況について、夢から醒めたと思ったらまだ眠りの中で夢を見ているような残酷だと過去の僕は思ったものだ。

以上も以下も僕の妄想なのだけど、僕がこれを妄想として切り捨てられないのはいくつもの継承された徴があるからなのと、この妄想が妄想であろうと構わないくらい美しく設計されているから。夢のように美しく設計されている。

母語を犯すゴロツキの言語。仲間外れの孤独な言語は法の外にあって法に守られていない。しかしまあ、よくできていると感心する。内と外を分ける境界線はまさしく内側と外側を守っている。外から見ないと言語のかたちはわからない。外から見るとよく設計された統治だ。そして外は、内から見れば妄想としてしか写らないだろう。実際に美しかったりおもしろかったりする幻視と結びついたたくさんの妄想が社会を彩ってる。妄想で手加減なしに遊んだ方がいい。