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やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

寝返りのうち方について

「寝返りをうった」とは書けるけど、それを詳細に書こうとすると途方に暮れてしまう。どこの筋肉や神経がどんな風に流れ動いているのか、わたしは何も知らない。わたしは寝返りをうつ知性を身体の知性と名付けている。わたしは身体の知性を知らないが、わたしの身体の知性は寝返りのうち方を知っている。わたしはわたしが何でも知っていると思うたびに身体の知性について考えて楽しくなる。身体の知性は寝返りのうち方を知っていて、ホームランの打ち方を知っている。それはわたしの知のように気づきなしで知っている。寝返りは複雑な流れの組み合わせの行為であるから、知らずに反復できるわけがない。身体は気づきなしでやり方を知っている。

わたしは知ることで、気づくことで安らいだ経験は覚えている中で一度だけある。それ以外の気づきで安らいだことはなくて、無知を知ることでいつも不安を覚えていた。寝返りをする知性は不安を感じたりはしない。自身に疑いを向けることで、内向する力とおしゃべりで存在を確信しなければならないようなやわな知性とは違って、身体の知性は不安を感じたりはしない。

ホームランを打ったり、シュートを決めたり、釘を打ったりする身体の知性のことを考えるとわたしはとても楽しくなる。身体の知性は洗脳されてるんじゃないかと疑ったりしない。でも彼らは寝返りのうち方を知っている。わたしの指はキーの叩き方を知っている。それに比べたらわたしの小癪な記号の知性が書く文章なんて寝返りすらうてない。もっと身体のごとく素直に簡単に動けわたしの文章。