やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

空の色を青と呼ぶのは相続された

空の色を青と呼ぶのが正しいかどうか誰にもわからない。ただ、青と名付けられた事象があって、それを青と呼ぶことで不都合なく過去は過ごされていった事実がある。それを青と呼ぶことで起こったこと、起きなかったことを想像できるほどには、まだ、わたしの頭は良くない。もう少し待ってて。そうすればきっとわたしの頭はもっと良くなって、起きたことと起こらなかったことをつくってみせる。言葉はわたしたちがつくったものではないのに、その故障が一人一人に押し付けられている。この状況にわたしは憤慨しているんだ。たぶん、世の中には言葉が故障していると思っている人たちと、故障していないと思っている人たちがいて、故障していない派は「言葉は使われているし使用感もいい」と思っていて、故障なんてどこにもない。上手く使いこなせないのは当人の努力や工夫や勉強が足りないからだ。翻ってわたしを含めた故障している派は……なんて言い返せばいいのだろう。この故障している言葉で。故障しているからおしゃべりには終わりがないんだ。

故障によってよく動くもの。たとえば、修理を生業にしている人たち、医者とかさ。昔の人が「芸術というものはなく、ただ医術があるだけだ」と書いていたのだけれど、わたしは彼の言葉に同意する。故障によってしか言葉は働かない。わたしは故障派だ。おしゃべりによって癒される人たちが癒される限り、言葉は病んでいない。

故障派と故障していない派の闘いは一人一人の心の中に行われているのだけど、その闘いは別の名で呼ばれてる。それが闘いと呼ばれなかったためにわたしは平和を望んでいると言えてしまえたりするんだ。わたしは平和を愛するように闘いを愛していて、ついでに愛を愛するように憎しみも愛してる。きっとみんなそうだと思うのだけど、故障してない派の人たちにわたしの文章は届かないだろう。自分の心が故障してるなんて誰も認めたくない。わたしだって故障してるなんて言われたらすぐ怒りとデートしてしまうさ。