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やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

後悔は通れない

誰だって自分だけが自分のことを知っていると思いたいし、そう思う。頬をつねって痛みを感じたら夢じゃないという感じ方があるけど、思っているかどうかはなかなか思えないから、恐れや不安や痛みの方が分かりやすい。物知りは分かりやすいことを知っていて、分かりやすいのだから他の誰かにも分かると信じている。僕は情報や社会はとりあえず放っておけばいいと、それらに気を配るのはほどほどにと思っている。

僕は書くに価する情報を持っていなくて、情報のない人が無理にそれを書こうとすると自身を切り売りしなきゃいけなくなる気がする。ぱっと思い浮かんだのは臓器売買。僕を覆う皮の下にはグロテスクな臓器があります。しれっとしていますが僕たちは糞をするのです。そういう分かりやすい物知りたちの情報。

知っても知らなくてもいい(知らなくていいではなくて、どちらでもかまわない)、応えても応えなくてもいい、そういう文章は通っていて安らぎを感じる。通ると書いたのは読むという単語を使いたくないからで、「読んでもいいし読まなくてもいい」そういう読み方を道か管を通るようなものと僕が思っているから。読むも聞くも使いたくない。

情報の裏側に「知りなさい」という指示を読んでしまう君のまじめさは、君のまじめさなのか、それとも情報の方が君を素通りさせないのか。通り去れない袋小路のような情報は脅しなのかもしれない。今は気をつけているのだけど、過去のある頃の僕は誰かと話をした後に「さっきの会話は、僕の受け答えは正解だったか」と採点する癖があった。会話の相手にもっと良い印象を与えられる応えがあったんじゃないか。そんな風に考えるのは自意識過剰で、相手は僕のことなどそんなに気にしてはいないと気がついて、自身の会話を採点するのは今ではあまりなくなっている。僕が怒ろうが、泣こうが、汚かろうが、相手は僕のことを気にしてない。僕が相手をそれほど気に留めてないように。僕が僕を思うほどには、他人は僕を思っていない。

他の人が、そんな自身が定める自分の価値と他者が定める自分の価値の差をどうやって解決しているか知らないけど、僕の場合は繰り返し「誰も気にしてはいないさ」「僕があいつを気に留めていないように」と自らに読み聞かせないといけなかった。自分の会話を採点するのは僕のまじめさだったのだと思う。僕はだんだんと自分へまじめに向き合わなくなった。あの、過去のまじめさは脅迫じみていた。「ああすれば良かった。こうすれば」。後悔は、もっと良くやれる能力が自分に備わっているのに(なぜできなかったんだ)そんな自負で、それが「次は上手くやってやる」という向上心にならず後悔のまま留まっていたのは、僕が自分を気に留めていたからだと思う。