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やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

花を見て、花びらの数を数えるのは詩情がない

子供に絵本を読み聞かせるのは、誰かの話をよく聞く子に育てるため。集中して、遮らずに、他の何かを思わずに、よく聞く。耳を傾ける。誰の話に耳を傾けるのか。読み聞かせてくれる母や父の話。読み聞かせる母もわたしに聞かせると同時に誰かの話を読んでいる。その誰かも誰かの話に耳を傾けた。耳を傾ける母。耳を傾ける誰か。そうやって、傾けられる耳はずっと遠くの誰かの話を聞いている。わたしもいつかは話を聞かせる側になるのだけど、これは嘘で、聞かせる側になんかなりやしない。今までもこれからも誰かの話を聞くわたしで、話すことと言ったらずっと遠くの誰かの誰かに聞いた話。わたしは誰かのエコー。だから、わたしたちに許されている自由は性格をつくること。話し方、書き方をつくること。

情報やコミュニケーションという単語の裏面にはびっしりと「聞きなさい」「応えなさい」がへばりついてる。情報社会。わたしにはそれが恐ろしい単語に聞こえるけど、聞こえない人たちもいる。わたしは恐がりで弱虫で勇気がない。勇気がないのではなくて、恐怖があるだけだ。他の人が恐がらずにできる行為が、わたしにとっては勇気が必要な行為になってしまうのはわたしが恐怖を知っているからで、つまり、わたしはあなたよりも物知りということ。あなたは、わたしが知っている恐怖を知らない。勇気が必要になってしまったわたしを知らない。あなたは、勇気が必要でないことを知っているのではなくて、恐怖や不安や痛みを知らないだけだ。少しスッキリしてあくびがでた。

性格は、話し方や書き方は自由だけど(逆に言えばそれ以外は不自由で安心だ)、聞き方はどうだろう。

わたしが、情報・社会という単語に「知りなさい」「聞きなさい」「応えなさい」という声を聞くのは、わたしの聞き方が自由だからなのか。いや、文字の聞き方には聞き方のまじめさ度合いがあるだけ。その度合いが性格に侵入してくる。「聞きたい」「知りたい」「応えたい」や「聞かせたい」「知らせたい」「応えさせたい」に変えさせられて。なぜ変わるのかは、楽しい入れ替え遊びだからで、言語の形がそうだから。「わたし」と言わない人がいない。「わたし」の裏面には、交換可能と書いてある。みんなが「わたし」なのは、ままごとのようなもの。わたしがママをやってもいいし、パパになってもいい。この遊びの場所はルールの下でなら自由で、赤子にだって宇宙人にだってなれる。混ぜるのだけが禁止されていて(ママでありパパであり……マパはダメ。誰もそれを知らないから)、禁止されているように見えるのは、混ざったものを見たことがないからなのか、混ざった言葉がないからなのか。よく考えると、言葉ってうまくできているなと思う。


書き方や話し方が自由だから、いろんな性格の人が存在するが考えていることはだいたい同じで、だいたい同じだから推し量ることができるし、他人を思いやれる。人それぞれと言うけれど、考えていることや感情までも人それぞれだったら「思いやり」が成り立たない。「物語の同じところに感動する」が成り立たない。人は同じで、ただ話し方や書き方、身体が違うだけだ。使う言語が同じならば。なので、たくさんの人たちが書くことはあまり意味がない。多様なのは身体だけだから。

言葉について考えるのは楽しいけど、この楽しさは変わっていて、桜を見るときに花びらを数えるようなものかも知れない。わたしは無粋なんだと思う。