やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

続き

「なぜ読書をしなければいけないか」。そんな問いからは離れるけど、横山光揮の三国志(漫画)で諸葛亮が「書を読む者に良心がないわけがない」と言っていて、僕はその通りだと感心した。書を読むと良心が育つのは「まじめさ」に繋がっているのかなと思う。書へ真面目に向き合わなくて済ませられるのは子供くらいだろう。

 

「わ」にねずみを見て、「し」を傘の持ち手に見る子がいたら、親はそれをやめさせる。ふざけないで真面目に読みなさい。「わたし」を「ねずみ、た、傘」と読まないのは、書を読む人の気づけない真面目さなのかもしれない。

 

僕の友人は週刊漫画雑誌を読み終えるといつも「続きが読みたい。早く来週にならないかな」と言っている。なぜ読書するのかの応え、「続きを読みたいから」はどうだろう。

 

「耳を閉じる」と僕が書いたのは、「続きを読みたいと思えない文章に対して耳を閉じてしまえ」ということ。僕は道路標識みたいな文章を想定してる。「書いてあることをみんなが守れば事故は起きません」のような、続かない文章。

 

優しい人ほど他人の話をよく聞いて、それに配慮するから、書かれていることを守ろうとするから、優しい人ほど苦しむことになる。その道は二つに分かれていて、一つは、優しい人ほど怒るようになる。「守れない、配慮できない奴らに配慮する必要はない(優しさは交換だ)」。人に優しくすれば人から優しくされる。この優しさの交換を認めてしまえば良心を人質に相手を脅迫できてしまう。「俺はお前に優しくした。さあ早く俺に優しさを返せ」。

もう一つの道はその交換が自分に向かうこと。「返せ」と他人に言えない人たちは自分の心の中だけで交換を完遂する。交換を終わらせようとする。

 

僕は悲劇が基調だなんて思わない。「続きが読みたい」と週明けを待っている友人が悲劇を基調にしているなんて思えない。だから、君の文章の続きを楽しみにしてる。続きが読みたい。