やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

笑いを悲しみ飛ばせるか

言語が思考を決定している。いくつかの外国語に通じている方が「日本語で話すと怒りにくくなる」「私は話す言語によって性格が変わるのかもしれない」と書いていて、わたしはそれを当たり前だと思う。性格は話し方。書くときには書き方が性格になる。性格は思考の仕方。考え方。その対象を自分へ差し向けて、自分への話し方を含めた話し方だ。だから、話し方の母体、言語が変われば性格が変わるのは当たり前だと思う。性格は文体、話体だ。わたしを役者だとすれば言語は台本のようなもの。だから、わたしは変わらない性格を信じない。不思議に思うのは、昨日と明日のわたしが同じ性格なこと。「なぜ、みんなは自分の性格を覚えてるのだろう。それを忘れないのだろう」。

真面目だから。律儀に同じそれを参照し続けるまじめさがなかったら人の世界は終わってしまう。わたしは昨日のわたしの性格を読む。まじめに読む。自分では気がつくことのできないまじめさで読む。話体。話しの体が作られていく。誰かに話す話体、自分に話す話体、沈黙する話体。この体に語や文法や、見えないが読める語や文法が、刺青のように書き込まれて刻まれていく。だから、悲劇が基調になる。喜劇は悲劇の後に、悲しみを笑い飛ばしにやってくる。笑いを悲しみへ帰すこともできるが、悲しみ飛ばすわけにはいかない。まじめだからだよ。

あなたは「耳を閉じる」と書いていたけど、わたしなら「まじめな耳」と書くと思う。律儀に言語を読み続ける耳は、閉じればいいのだろうか。聞こえない音に耳を傾ける。そうだろうか。わたしはその傾きがすでにまじめさに囚われていると思うんだ。わたしはあなたより過激で悪党だから、耳の穴の奥に喉を作ってもいいのではと思うよ。うるさい音には音で抵抗しよう。もちろん、大声コンテストにならないように耳の奥に新しい小さな喉を作ればいいんじゃないか。その喉が話す母体となる言語は彼らのそれの外にあればいい。言語の外の言語。そうすれば、わたしたちが何を話しているかが彼らにはさっぱり分からなくなる。