やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

タイトルが見張ってる

 

 

文章を書き始めて三か月くらい経った。
それでわかったのは、タイトルを決めてから書くのはよくなーい、ということ。タイトルから出れなくなっちゃうんだよ、まじめだから。タイトルを決めてから書くとどうしてもタイトルについての文章になっちゃう。それがもうつまんなくてつまんなくて。つまんないのもいいけど、たまににしたい。

 

今朝も自分の性格は昨日と変わっていなくてまじめなわたしのままだった。眠ってる間に性格が変わらないのはまじめ過ぎだからで、それは一つ前の文字が次の文字を決めてるようなもんだ。なんでわたしは変わらないわたしの性格を守ってるのだろう?

 

この性格を手放したい。わたしを失踪させたい。惜しいけど手放したい。文体を好きだけど手放したい。ずっと変わらない同じ話体を守っててもつまらないから。

 

性格の壁を壊して外にわたしを連れ出したい。わたしはわたしの閉じられた性格や文体から誰かが連れ出してくれるのを待つのではなくて、わたしを連れ出す誰かになりたい。なので、タイトルに決められるのはつまんない。たまにはいいのだけど。

 

わたしは文体を決定しないために書きたい。これ以上まじめに自分を閉じ込めるのはごめんだ。まだ生まれてから三か月。いろいろ書いてみてから、文体が決まるのならそれでいいけど、ねえ、そんなの決められないし決まらないって。もうちょっと自由でいないと決まるものも決まんない。決まんないんだったらそれでいいしね。

 

わたしの自由は、夕陽に「ばかやろー」と叫ぶことではなくて、普段は言えないホンネを書くことではなくて、ホンネとかタテマエとか、そんなまじめさにどうやってさよならを告げるかを考えること。わたしが夕陽へ叫ぶなら「まじめすぎるんだよバカヤロー!でも、まじめであってくれてありがとう!」。

 

怒ったり悲しんだり苦しんだりするのは、まじめでなければ絶対にありえない。それらはいつもまじめで真剣だから、そのまじめさをまじめに守っている人たちを見ると「もうそんなまじめさなんて捨てちゃえば」って思う。でも、捨てられない。自分の性格はそう簡単に捨てられないし、他人の性格も捨てさせない。閉じた視線が自らを逃がさないし他の誰かも逃がさない。まなざしのコギトだね。

わたしのまじめさは誰かを失踪させないし、わたしを失踪させない。

わたしの性格は失踪しないように見張られてる。だから明日もわたしの性格は変わらない。失踪しないでくれてありがとう。まじめでいてくれてありがとう。どこかに行ってしまわないまじめさは、それだけで賞賛に値するのだけど誰も褒めてくれない。

性格や文体を失踪させないのは重荷を背負う行為で、あまりその荷物は顧みられないが、好きな荷物だから仕方ない。だから、賞賛と尊敬をえるべきなのはまじめな私たち。社会の人であることは、領土を決めて文体を決めて、それらの線を超えず、まじめに一所懸命に守ること。

 

まじめへの賞賛が足りてない。わたしはそう思うが、まだまだまじめさが足りない、良心が足りない、配慮が足りない、そういうのがあるのもわかる。

どっちもどっちかな。

わたしはまじめな荷物を肩から降ろす方を選びたいと思うけど、全員に平等に背負わせる選択の正義も分かる。不真面目な奴らを罰したいってのも分かる。

 

「おまえも背負え」
「私とともに苦労しろ」
「苦労せずにいい気分になるなんて許さない」

 

いやあでもさあ。自分の性格を守って変わらないように逃走しないように見張ってるのは、それだけでもう、めちゃくちゃ大変なんだってば!

だから誰かが褒めない分もわたしはまじめさを褒めるぜ。明日の朝も自分の性格を守って失踪しないわたしたちのまじめさは、すごいんだ、偉いんだ、大仕事なんだ!

 

いつも見張られてるんだから、ちょっとくらい誰かを逃がさないように見張ってたって、当然だとも。

 

「ちょっと男子!まじめにやりなさいよ!」

「ちょっと私!まじめでいなさいよ!」

 

そんな風に自分や他人を読み張ってるのは、嫌だけど、そうなるよ。でも、まじめさをサボって逃げ出すのもアリ。タイトルを決めたあとタイトルと関係ないこと書いたって全然いい。じゃなきゃ予定調和でつまんない。

 

夫婦喧嘩、猫がいない

 

「ご飯は冷凍してあるから、おかずも何日分かは冷蔵庫にあるから」

 

それわたしの毒だから。バタンとドアを閉めて私は出ていく。さあ、実家に帰ろう。しばらくは顔もみたくない。物を投げつけて怒るなんてさ、あれがあいつの正体なんだよ。旦那さんを怒らせた悪者の私は退散。私がいない方が怒らなくて済むでしょ。それが私の思いやり。謝ったってなにしたって正体があれなんだからと思うと哀しい。いつも優しかった旦那さんが飛んできたモノで一瞬で嘘になった。

 

猫はいいね。全部がおまえの正体だもんな。母にしばらくいるからと伝えて、猫と遊ぶ。おまえ化け猫じゃないよね。あいつみたいに化けないよね。人の男って嫌だね。ひざに乗せて首筋を撫でてやると目を瞑って顔を揺らしてる。ふふふ。不幸をみんなしょい込んだみたいなあいつの顔。恐かった。うん、もうあんな恐い思いするのだったら、ずっと君を撫でていたい。

「恐かったんだよ」

猫は動かなかった。私はすぐに泣いた。

 

「お姉ちゃんだってなにかしたんでしょう」

「じゃなかったらXXXさんが怒るわけないよ」

母が隣に座ると猫は顔をあげてそちらへ移ってしまった。夫婦生活の大先輩よ、こういうときは優しく、いつまでだって居ていいって言うもんだぜ。わかってないなあ。XXXさんのことだって私より分かってるわけないじゃん。猫までとっちゃってさあ。猫までとっちゃって。私はいつの間にか泣く理由を探して、猫もとられたと追い打ちしていた。


「何か飲む?」

「いらない。放っておいて」

いまごろ、私がつくった毒をあいつは食べてるだろうか。きんぴらごぼうとか、ハンバーグとか、あいつの好物を、つくって、ラップして、冷蔵庫に入れてきたんだよ。モノを投げられて恐かったのに、つくったんだよ。それなのに猫もいない。

 

続夏風邪、仇討ちするゲーム盤

 

咳をするとズキンと頭が痛む。
鼻水が今頃になって粘度を上げてきてのどの奥にまとわりついている。のどの痛みがひいたあとにどういう了見でそれをやっているんだ鼻水め。病院でいただいた薬を飲みきった。わたしは部屋を夏風邪モードから通常モードに片づけて、溜まった家事にとりくんだ。そのあとでベッドでおとなしくしていた。漫画を読んだりスマホをいじくったりしながら、文章について考えたりもしてた。

ねえ、なにかこうドカンとすごいものが苦労せずに書けないものか。

たいしたことないと思われるのは嫌だな。

でも、たいしたことないはずないんだよねえ。だってわたしすごい文章ばかり読んできたんだもの。それでたいしたことが書けないのなら、それは何かがおかしい。読んでなかったことになっちゃう。
もしかして読まないで消費してた? いやいや。
そりゃあ少しは読むことを慰めにしてたけど? 慰めでしか読んでいないのならこんな風になるはずない。ああ、逆にもっと慰めておけばよかったのかな。

思い出せばいいのかな。

感情とその慰めを今は侮りすぎてるのかもしれない。

 

むかし、友だちと群れているときは彼女らを小馬鹿にしてたっけ。「くだらない」って「こんなのと一緒にされたくない」って。そんな風に一人を慰めていた過去のわたしが今のわたしを仇討してるのかな。やっぱり描くことよりも自分の裏書ばかり気にしてんだ。

 

そんな風に考えながら枕に顔をこすりつけたりして、眠りについた。

 

 

「あんた分かってんの?あんたが知らなくちゃいけないことを私は知っているんだよ。
私が教えなければあんたはずっと知らないまま。それでいいの?あんたが知らなくちゃいけないことなんだから。知らずには済まされない。あんた知らないでしょう? あんた以外はみんな知ってるんだ。だから、もっと怖がんなよ」

 

いいんだよ。そんなにわたしに優しくしなくても。いいの。あなたが知っていてくれれば。わたしに伝えてくれなくても。

 

「ふざけるな!知れよ! 本当はそんなちゃっちいんじゃないが、私もみんなもおまえを嫌ってる。知らなかったろう? それだけじゃないもっと知ってるんだ。あんたが知らなくちゃいけないことを。こっちは!」

 

教えてくれてありがとう。知らなかったよ。でもいいの。教えてくれなくても。あなたがわたしにしてるのは、昔にあなたが誰かにされて、それが「効いてる」こと。あなたはわたしにもそれが効くと知ってる。わたしをその薬が効く患者だと知ってる。あなたと同じ病気だと確かめたい。仲間に入れてから仲間外れにするって嫌なこと、誰かにされたんだよね。ごめんね。でも、怖くないのに怖がったらあなたもっと嫌だと思うの。

 

 

うーん、夢みてた。
知の仇討ち、仇討ちする知。


「もっと私を恐がれ」って迫るあいつもわたしだった。

知を人質にして身代金(恐れ)を要求できるのは、人質が身代金に値する大切なものじゃなきゃいけない。相手が人質の価値を知らないと交渉にならない。価値を知らぬ間抜けとは交渉できない。或いは、交渉ゲームを知りすぎるほど知っている場合に恐くなくなる。なので、交渉のゲーム盤上で白痴の駒とゲームマスターは同じ挙動をとりうる。

 

「知らないって恐いの?まずそこから教えてよ」
「なんであなたは知らないことが恐いことだって知ってるの?」
「そこから教えてよ」

 

白痴とゲームマスターはゲーム盤を囲む壁から締め出されてる。「話にならない」という形で締め出される。

 

ええと、だから、なんて考えたりして、また眠りがやってくる。わたしは夏風邪のゲーム盤から出たいよ。あとどのくらいしたら鼻水でなくなるかな。それ教えてもらっても、それまで鼻水ずるずるなのとガラガラ声なのは変わらん。

 

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スターウォーズよりもバイシクル

youtu.be

 

自転車とその乗り方が書かれた良書を百万冊読破しても自転車には乗れない。バーイセクーバーイセクーってクイーンも歌ってた。今までもこれからもずっとわたしたちは自転車について語っていくし読んでいく。小説や映画やドラマや漫画とかゲームとかの物語に出てくる自転車はテストだ。「君は自転車の乗り方をどうやって知ったの?」そういう問い。

自転車はマリーの部屋と同じテスト。

メアリーの部屋 - Wikipedia

 

わたしは自転車のサドルのことを何にも知らないけど自転車に乗れる。乗り方を知ってるから。小さいころに自転車を読んだから。転んだり戸惑ったり勇気をだしたりして何度も自転車を読んだ。読んだから乗り方が分かった。わたしの書く文章は自転車であってほしい。ソッチ側の文章になりたい。世の中には自転車みたいな文章とそうでない文章があって、前者は、頭では何も分からなくても読むと自転車に乗れるようになる。後者は頭に伝わる。すべての文章は、文章に限らず音楽でも像でもそうだけど、そういう自転車みたいな断絶線で分かれている。スターウォーズは現実模倣だけどバイシクルは……。なんだろう?どこにでも行けるということかな。

感性とかセンスとかで自転車に乗ってるんじゃなくて、わたしがそれを走らせているときにわたしはたくさんの数式を解き続けてる。カーブするときも坂道を登るときもカーブ式や登坂式を解き続けてる。自転車の乗り方は知らないけど知ってる。わたしは科学的に自転車を走らせていて、なんだかよく分からないセンスみたいのでやってるんじゃない。id:lookwho さんがブックマークでコメントくださった「何を言ってるかさっぱりわからない」というのは納得いかないが、自転車的には大正解で、わたしは前述した"ソッチ側"に行きたいのでとても嬉しかったです。

まあ、ようするに身体に刻まれた走らせ方の星座?みたいなもんで、それを読んだり書いたり解いたりわたしはしたい。わたしも べびーめたる趣味 さんを自転車だと思って読んでます。

 

電線

 


窓を開けて電線を見ていたら風で揺れていて良かった。あれがわたしの家のエアコンをつけて、わたしの家からあの電線を辿っていくとどこかの家と繋がって、そこの家族の御馳走をつくってると考えるとロマンがある。孤独ってなんだろうと思った。わたしは一人で過ごすときに孤独だと思わずに楽しくやっている。誰かと一緒にいてそいつと話さないときにわたしは孤独を感じているようだ。エネルギーが電線でくっついているのはどうだろう。家は電線で発電所まで繋がっている。あと、電話線もあった。

電柱の上の方には電源線が、その下には通信線が走っているのだっけ。まえにタモリ倶楽部でオーディオマニアがマイ電柱を建てるとかやっていた。あれはトランスを自前にしてノイズを低減しようとする企てだ。他の電気の需要家と共用のトランスを用いるとどんなノイズが侵入してくるか分からないから。オーディオマニアは徹底的に電気的孤独を選ぶということ。聞こえればそれでいい人たちとオーディオマニアは価値観が断絶してた。マニアじゃないわたしから見ると「はあ?なんでそこまでこだわるの?わけわかんない」となる。孤独なオタクたちは面白い。断絶線が面白い。

もうちょっと他の人の文章を読めるかなと思って探して、べびーめたる趣味 BABYMETAL-MINDED さんを見つけた。ベビーメタルは名前は知ってるけど曲を聴いたことないわたしだけど、なんか文章がいいなあおもしろいなあと思って読んでいます。あと、ニャンニャンワールド さん。すごくいいと思う。更新が楽しみ。

 

 

夏風邪のゾンビ

 

夏風邪をひいて寝ていたら数日が過ぎちゃった。

身体の弱ったわたしは床の中で読むもの見るものにだいたい言い訳を探していて、枕もとにティッシュやのど飴や、病院で診察をうけていただいた薬を置いたら、病人らしさに囲まれて満足した。
咳をゴホゴホしたまま職場に行っても周囲に迷惑がかかるし、なんといっても身体が一番大切だと言い聞かせないと、休むのはやっぱり、肩身が狭かった。または、風邪が治らないまま出社したらわたしは頑張っていて偉いと、少し体調が悪いくらいで会社を休まなくて偉いと廻りに思わせて自分を慰める妄想との間で、言い訳とその間で迷ったり探したりして床にふせてた。

たぶん、扁桃腺がいちごみたいに腫れてるのだけど、そのせいで頭は回らないわけではなく、のどは痛いけど難しい計算を間違えるわけでもなく、身体が弱っても1+1が3にならないので仕事しようとすればできないわけではない。だから、熱が出ても会社に来てしまう人たちがいて「38度の熱があったけど学校に行った」みたいなのが誇らしくなってしまう場面があって、こんな風に身体と記号は別々の世界にあるのだなと思う。

身体が風邪をひいたら1+1が3になってしまえばいいのに。

逆を言えば、言語に罹患してる人たちは全員ゾンビになる。

 

「俺とおまえは同じだ」
「同じゾンビだ」
「隠しているだけだ」
「見せてみろ」

「ほら、やっぱり俺とおまえは同じだった」

 

「38度だが俺は出社したぜ、君は?」のような思想の「私と同じであれ」という記号ゾンビたち。ようは、自分と他人が同じでないと気が済まない。38度の熱は、38だから自分の熱でも他人の熱でも変わらず同じ38。38のもたらす苦しみは人それぞれなのだけど、ゾンビにとっては同じ38だから「38度でも出社したぜ」とゾンビは言える。

漫画とかでゾンビやグールや吸血鬼が出てきたら、わたしは記号ゾンビの暗喩かどうかをまず読む。だいたい悪役ってわたしたちなのだ。過程をすっとばして結果だけを操るラスボスなんて成果主義の権化たる私たちだし、壁に囲まれた世界の外にいる人喰い巨人や鬼なんて私たちだし、魔女を名乗って物語通りに人を殺していく女も私たち。

同一視ゾンビの階級を考えてみる。
ゾンビ兵卒:同じだから私たちは同じ「38度だけど出勤したぜ」。
ゾンビ兵長:同じ中で偏差を利用し兵を束ねる「自分の頭で考えよう」。
ゾンビ大尉:自責するゾンビたち「あの悪は俺たちだ戒めねば」。
ゾンビ大佐:ゾンビの習性を利用する「まだ同じところで消耗するの?」。
ゾンビ将軍:ゾンビの行く末をあんじる「悟りが分からぬなら祈ろう」。


文章とか物語とかは、この「同じであること」へ対峙しているし眩暈がするほど長い時間と途方もない真剣さで対峙してきたので既にいくつもの答えを出している。同じであることを頼りながら文章は書かれる。同じ言語や式を解してなかったら読めないから。

でも、その読みをどうするか、同じであることの壁の外へどうやって読者を連れ出そうかという課題を同じくしてきたからこそ答えへ歩んでいける。世界と歴史はゾンビたちが思っているほどには単純じゃないけれど、単純さも一つの世界なので良い悪いじゃない。

「38度の熱だけど……」の人には単純に38の同じ世界があって、その外に世界がないと思い込みながら生きていくのにどのくらい干渉すりゃいいのさ。38度といっても平熱の違いや症状の違いもあって、なんて説明するよりも「そうだね。君はすごいね」と応えた方が38度の人たちは幸せだろうと思う。でも、わたしは休んで寝てたよ。寝ている間は寂しく言い訳と慰めを探してた。それらが見当たらなかったから、寝室を病室みたいにつくりあげた。

 

隠喩

言語自体が隠喩なのだけど、よく流通することで隠喩である事実が消えていく。流通することで消えていく隠喩の意味と、流通しても消えていかない隠喩の意味がありどちらかをわたしたちは選ばされている。といっても、流通しているので言語は隠喩ではないと思っている人がほとんどだから、その意味で通っているのだけど。伝われば隠喩ではないということ。まあ、よくわからない理屈だけど。

流通だから、言葉は

プールに浮かんでいるナマコみたいにあみで掬われるのを待っていたり、あるいは、流通しつづける、つまり、しゃべりつづけたりする。表現、または表明をヒマな時間つぶしに使うことで言語のように清潔になっていくと同時に、清潔のせいで不潔さが際立ってしまう。ヒマな時間を別のことに使うと沈黙が表現される。

小池都知事みたいにまだ流通してない横文字を使うと、行進のなかで先に行っているようにみえる。たぶん、文章の修飾比喩も同じようで少し先に行ってみえたりする。使い古されていない表現、表明。新しい表現。表現という隠喩を描写と区分けして書いてみている。

始まるときと終わるとき

 

恋愛は始まりが一番楽しい。
始める前から、始まりの地点を過ぎて軌道に乗るまでが楽しい。特に、初めて手を繋ぐとき。一人だった私が、二人になって、二人だった私と誰かが一人になるのが手を繋ぐときで、手を繋いだ後はエスカレーターみたいに登っていくだけ。他の人は知らないが私の場合はそうだから告白や繋いだ後のことよりも、手を繋ぐまでを大切にして欲しい。そこが雑な人とは合わない。いきなりスキンシップしてくるとかは無理。

それと、終わるのもいい。
別れ方が綺麗な男の人は、女の子もそうだと思うけど、なかなかいない。別れる時はたいてい納豆みたいに糸をひく。一人を散らせないようにくっつけていた粘着質のあれが私と誰かをくっつけていたのだからねばっとするのも当然だ。私もフラれた時は相手に爪痕を残してやろうかと思う。それでも、手を繋ぐときの興奮が裏返しになってやってくる終わりが好きだ。たまに、糸をひかずに終えてくれる人もいて、その時は「おおっ」となる。友人としてキープしておきたいなって思う。一度手を繋いだ人と友人に戻るって私には難易度が高いから、できちゃう人たちはすごいな大人だなと思う。大人というか遊牧民?「草を食べつくしたら他のところへいく」とか考えてそうだ。

 

片思い

 

 

「あんたが私を嫌いなの、私が嫌いにさせたわけじゃないから。あなたが嫌ってるの。それはあんた。あんたの片思い。じゃあね」

 

あいつは帰ってしまった。

一人になった教室で私は唖然としてる。

 

何を言ったんだあいつ。
みんなが嫌ってるのわかってるのか。私だけじゃないのわかってないな。夕方で影が伸びていた。私はあいつの机を思い切り蹴っ飛ばして列からどかした。気に喰わない。ばーか。ホントあいつ、わたしらをムカつかせるために生きてんじゃないの。もういっかい彼女の机を蹴飛ばした。

 

 

アリアドネ

 

迷宮をテーセウスが進んでゆく。それはアリアドネのためだった。鍛えたテーセウスの両腕は向かってくる牡牛の角を掴み舵を切るように捩じる。牡牛は首を曲げて横転させられる。テーセウスは短剣で息の根をとめた。彼の腰巻は濡れて肌にはりついている。短剣は屠ってきた野獣の血で染まっていて、彼の体表は汗と血で土色になっていた。糸の向こうでアリアドネが待っている。これは彼の試練であった。

 

「私の持ち物は勇気だけ。倒した獣も、勝利も、知恵もすべてアリアドネ、君へ捧げる」

 

雄々しいテーセウスの声が迷宮の中に響いた。

 

迷宮はアリアドネの耳朶だった。
彼女には耳の中を進む小さなテーセウスの脚を引きずる音が聞こえてきた。「私のせいで、可哀そうなテーセウス」。彼女がしゃがみこんで嘆いていると傍らにディオニュソスが現れた。


「いいや、可哀そうなのはお前さ、アリアドネ

「テーセウスは君の耳を捉えようとやっきだが、その小さな耳は」

 

ディオニュソスは笑って、まだら色の一枚布にまかれた身体をアリアドネへ近づけた。

 

「あいつが牛の首を折る音を聴くのかい」

 

ディオニュソスアリアドネがテーセウスに渡した短剣を知っていた。分かっていながら誘惑しているのだ。

 

「獣を殺しているのは私の剣」

 

「そうだアリアドネ。だから君は哀れだ。もう一つの耳を僕の歌で慰めるといい」

「他の男を待つ女人に惹かれた僕の歌を片側に載せて量ってくれ」

 

賢しいディオニュソス
あなたは慰めと言いながらテーセウスと同じで私を待たせる。二人を天秤にかけろと言う。男の体重で押しつぶそうとする。あなたの美しい歌もこうなれば獣の声と変わらない。

 

嫉妬、憧れ、ライバル心

 

 

下、上、左右。嫉妬、憧れ、ライバル心に「羨ましい」も加えて煮込んだスープがふるまわれたとして、味わい方はそれぞれ。嫉妬の味がすると言う人もいるし憧れの味がするという人もいる。わたしは猫舌なので「あっつ!」となってしまいそう。数式でも解くみたいに「憧れをみじん切り、ライバル心は大さじ二杯」とやる料理人たちはキッチンにいて主役はお客様です、なんて思ってる。ちょっとした騒動だ。


「憧れの味が強すぎて飲めたもんじゃないわこんな安物」「本当の味を知らないのね」「あちっ!」「こっちは黙って食べているのに」「熱っつ!」「文句があるなら来なければいい」「僕は……」「あっつい!」「いやこれは嫉妬が主役のスープだ」「あっつ!」「あっつ!」

 

「「あっつあっつってうるさい!!」」

 

すみません……。

 

他の客たちが帰っていったあとでようやく飲みごろになったスープを口に運ぶ。複雑な味がする。コックさんが食器を片づけにくる。雪山で遭難してるときだったらこのスープで身体を温められて最高なのに。まあ、雪山じゃないしなんだったら初夏だし。コックはあの騒動を聴いていたに違いなくて大変だなと同情するが、お客さんはお金はらってるし仕方ないな。味を決めるのは配分なのか素材なのか料理人の腕か客の舌か。素材が美味しく料理されたがっているのならそれを美味しくできないと。

 

パピプペペッポ

 

起きるのつらい。

昨日も朝が来てつらいめにあった。

これまでの朝のつらさを積み上げていったら地球なんか滅びてしまえと画策する魔王くらいになってるはず。車内でひとりあくびをしながら「ああ眠い」と声にだすとうまく声にならなくて面白い。勤め先まできたらここは勤め先王国で建設仮勘定だとか新規事業開発グループだとか「大変深刻な状況である」とかの異国語が飛び交っていた。


動物園での出来事を再構成する。


「唇がある動物は人間だけなんだよ」

 

「へー。じゃあ破裂音だっけ爆発音だっけ? 出せるの人だけ?」

 

「だから斎藤さんはぺっぺっぺーって言うのかな」

 

Rちゃんは鋭い。ぺっぺっぺーにはなんか、口唇期の子供っぽさがあるもんね。パピプぺばくはつしてしまえ。あの異国語もつらい朝も爆発させる核ミサイル発射ボタンがあったら、積み重なった鬱憤で押せ。泣いている子供は疲れるまで泣き止まないが、大人は誰かを焦がすまで松E一4や北朝鮮みたいに鳴き続ける。唇のことをAくんが話すのだったらわたしの朝のつらさや松E一4や北朝鮮のことも話していいような気がするが、ここは動物園だから遠慮してそれを話すのにふさわしい機会をわたしは伺おう。

「斎藤さんがぺっぺっぺー」と話すRちゃんには敵わないが。

柔らかくて濡れているRちゃんの唇が、唇というか外に捲れあがってしまった口の粘膜がぺっぺっぺーと言ったらもう太刀打ちできないくらいにかわいい。わたしが言ったらバカみたいなだけだ。

 

「鳥はピーピー鳴くじゃん」

 

「あれは咽喉でじゃない? 犬が吠えるのと一緒だよ」

 

AくんとRちゃんはわたしを放っておいて唇を交わすようにしゃべっていた。お似合いのカップルだ。三人いたら必ず話しやすい一人が選ばれて、選ばれなかったわたしは別のことを考える自由を得る。この自由も今までの分積み上げたら大変な魔王になりそうだ。

 

 

 

はてなブックマーク千個分くらいの長い文章を送りつけてやる!

 

「社会的な死」は重いなあ。わたしはそれを「社会的な閉じ込め」と呼んで書き始める。

 

バスの運転手が突然立ち上がって「俺はサッカー選手だ」と叫んだら事故が起きる。それは発狂と呼ばれていいと思うけど、作家はそんな発狂を飼うはめになる。わたしはそう仮定している。

ボーダーレス。

主人公も悪役も脇役もバスの運転手もサッカー選手もわたしだとなれば社会はそれを許さない。わたしもまだわたしをそう許してはいない。事故になるから。もしも明日のわたしがゲスい悪役になったら、「おまえらバカじゃないの? 生きてる価値ないよこのハゲ!」とやったら、社会は誰も読んでくれない。でも、「あれもわたしであり」とやれないとあれを生んだ世界を描けないと思う。


いやあそんなことはないさ、柔和な気質に自分を閉じ込めたまま世界が描けるぜという人たちもいるかもしれないけど。わたしはボーダーを超える方を選びたい。選びたいと書くことと選ぶのを望むことは全く別だから、望めるかどうかをわたしは知らないので、ようは口だけ達者で偉そうなわたしの可能性も高い。

読者と作者の境界を超えるには「わたしは分析される側だ」とならないといけない。「いけない」と書くのはダメだなあ。それを自然に欲望できないので探すように書くはめになっているよわたしはね。もしかしたら、ここまで書いても伝わらないかもしれない。明かしても伝わらないのであれば、ますます書くべきで、それはわたしにとって都合が良くて都合が悪い。ますます書くべきなのは良い方で楽しくて、伝わらないのは悪い方でちょっとだけつらいかな。


むしろ、社会的に死んでいるのはわたしでないと困る。

「俺はサッカー選手だ」と叫ぶバスの運転手の方をわたしは目指しているから。それは社会では認められない反則であって、非社会的行為者としてわたしたちは社会の境界から追放されなきゃいけない。逆に言えば、非社会的にもわたしは生きていきたい。わたしはid:masa1751さんの書く文章の方にこそ非社会的な生命力を感じるし社会的な閉じ込め(重く書けば社会的死)からの脱出力を嗅ぎ取っている。


わたしの単純な脳は、大人気ブロガーみたいなのを「社会的に生きている」と見做していてわたしはそうじゃないし閉じ込められたくないから、わたしも社会的に死んでると思いたい。


大人気ブロガーは人として分かられやすい(分かりやすいということは境界を越えないということ)。人物は分かられやすいキャラクターでいいのだけど、物語は読者に分かりやすくにじり寄ったりしないし読者を助けもしない。わたしはキャラクターになりたいんじゃなくて、そのキャラクターを生む世界を描きたいんじゃ!


読者は勝手に読んで勝手に助かったり躓いたり勝手に分析してればいいのさ。

 

そりゃあ社会的にも生きてるよ。

いい子ぶってるんじゃなくてわたしは社会的にもいい人なのです。正しくいい人だと思われたいのと同時に、非社会的にも生きたいという欲張りを発揮したいのだ。非社会的にというのは、バスの運転手が「俺はすし職人だ」「今まで俺はおまえらの期待通りにバスの運転手だったが」「その期待に応える俺を、俺は捨ててやる」「残念だったな。このバスは次の停留所には行かないぜ」「寿司屋に行くんだ」となるということ。


そんな行為は社会が許さない。お客さんたちが、読者が許さない。

いいや間違った、読者は許すね。だって面白いじゃんそのストーリー。バスが寿司屋に向かうってワクワクする。だからさ、ブログを読んでる人たちって読者じゃないんだよ。人を読んでいるお客さんなんだ。彼らは文章なんか読んではないないよたぶん。人を読んでる? 読んでるとも言いたくないや。当然次の停留所へ向かうと信じているお客さんなんだ。


思い切り悪く書けば、バスの運転手という役割を押し付けて寿司屋に行かせないお客さんなんだよ。寿司屋に行ったら困るお客さんで、お客さんたちは狂っていない自分たちと同じように運転手も狂っていないと求めながら読んでいる。そういうのはそういうのでとても良い優しい世界なんだけど、わたしは作家さんに寿司屋に連れてって欲しいと思う。


わたしは作者に「どこでも行先は任せるよ」と思う読者なので、悪役として言わせてもらえば「わたしが読むということは、それだけではてなブックマーク一万個以上の価値がある!」。わたしは作者が人でなしだって全く構わないと思ってるちゃんとした読者だからさ。お客さんたちは著者が人でなしなのを許さないでしょ。見てりゃあわかるじゃん。読者じゃないお客さんなんて放っておけばいいよと悪者のわたしは囁く。わたしをちゃんと職場まで届けてくれる優しいバスの運転手さんにも感謝しつつね。

 

masa1751さんブックマークありがとう。
「社会的に死んでいる」について書いてみました。

 

 

読者は神の視点、作者は分子の視点、人物はmol視点

 

感情移入という娯楽は人物に対してなされていて、「あの人はわたしだ」とか「あの娘の気持ちが分かる」とかやる。または、「あいつはわたしじゃない」とか「あの娘の気持ちが分からない(分からないと分かる)」とかやる。感情移入する読者はなんでも分かる神さまになりたいというところに望みを留める。「他人の気持ちを分かってあげたい」と書くと優しくみえて、「他人の気持ちが分かります」と書けばお前はエスパーかとなじられたりする。神さまたちは出し抜かれるのが嫌いみたい。というか、神さまには出し抜かれるなんて概念はない。全部分かってるのだから。誰かが隠しさえしなければ全ては分かる。明かされれば分かる。神さまだから。

明かされてても分かんない
とは思わない。
まだ明かされていないから分からないだけで
分からない=隠されている という式があり
分からない=隠されていない という式はない

読者はなんでも(明かされれば)分かると思っている神さまなんだけど、神がお互いの欲深さをよく分かっていてお互いに反省してる。「神を気取るなんてお互い傲慢だね」と。

翻って作者は分子になりたいというところに望みを留める。主人公も悪役も脇役も美しいのも醜いのもみんな私であり私でないというわけで、世界の部品である分子になりたいという欲望を持っている。

「なんでも分かる神さまになりたい」
「なんにでもなれる分子になりたい」
読者と作者、はたして、どっちの方が欲深いか。