やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

「よく来たなー」

我が弟である犬が皮膚病にかかってしまったと母から電話があった。「元気なくて、ボール遊びもしないで私にすり寄ってくるよ」「今なら触り放題だよ」。

電話のあとで患部に触れないようシャンプーハットをかぶった犬の写真が送られてきた。わたしは心配で会いたくて忙しくなり、週末に実家へ帰った。皮膚病は心配だけど、あのアホ犬が甘えてくるのは逃せない。彼に甘えたい。病気で弱っているところにすまんが、触り放題の魅力には抗えない。柵を開けると熱烈な歓迎を受けた。彼はわたしに跳びかかってきて後ろ足立ちになって「よく来たなー」とハグしてくれた。右頬の毛が抜けていて痛々しかったが、母が言うには大分元気が戻ってきたそう。よかったよかった。わたしの忙しいのも終わった。

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写真を撮るときに、かわいい弟をブログに載せようと思ったのだけど、もっといいシャッターチャンスがあったのにと思う。寝転がってお腹をだしてるところを撮ればよかったのに、そのときはわたしが彼に夢中で撮るどころでなかった。

人が嘘を吐く前に言語が嘘吐きなんだけど、その作用は嘘じゃない。

なんというか、綺麗な文章が好きじゃない。
読み映えのする比喩表現に釣られまいとするあまり綺麗と呼ばれるような文章を嫌っているのかもしれない。わたしはそういうことについて思っていて、文芸の「芸」の部分、それはただの言葉で「芸人」の芸なのか「芸術」の芸なのかも定かではないが、これはなんだろうなあと思う。

わたしには、文章の美しい人たちのことを十把一絡げに「それは本当にあなたの文章なの?」と思ってしまうところがある。匂いだな。美しさのための美しさ。もう匂いとしかいえないのだけど、空っぽの、美しさのための美しさだと嗅ぎ取ってしまう。

わたしの鼻の正しさを集めようと思えば集められる。たとえば、プルーストは「美しい文章は外国語で書かれる」と言っていた。言語が人に嘘をつかせるので、嘘でなく書こうとすれば、それは正しい語法で書かれるなんてありえない。この「語法」のルールを破るところから、国境を超えるところから、罪を犯すところから、アウトサイダーになるところから、文章が書かれるというのは近代的過ぎるだろうか。はぐれ者のゴロツキどもに文芸という語が全く似合わない。

文章が下手というよりは、正しい語法の躾けから逃れる文章を書くしか嘘をつかない方法がないから、文章が上手になりえない。そう書かれる方が嘘でないとわたしは思っている。換言すれば、人が、正しく美しく読みやすい文章のようではないということ。文章のように正しくなかったり美しくなかったり読みやすくなかったりする人のことを書けば、それは外国語のように読めなくなってあたりまえだ。

意味をあたえる さんを読んでいたら、「文章は下手に書くほうが才能がいるような競技」と書いてあって、それは違うんじゃないかと思って書いてみたらこんな風になった。

反復

どこかに飛んで行ってしまわずに繰り返される行為。たとえば通勤、通学とか、大きなものは地球の公転とか、電車の運行などなど。

ものはためし さんの「最後のひとつ」を読み返したら、これはすごいぞと思って、わたしも反復について書いていく。

通勤でも何でも反復するからには引きつける力が働いている。そうじゃないと反復しないから。レールの摩擦力がなければ電車はどこかに行ってしまう。呼吸も、ずっと吸いつづけるには横隔膜の弾力が邪魔なんだろう。繰り返す反省や悩みにもそれらをどこかに飛んで行かせない引力がある。「これが最後だ」と反復の中では気づけなくて、それが終わったあとに「反復している時は気づけなかったけど、あれが最後だったんだ」がある限り、老人の方が頭がいいことになってしまう。気づくのはいつも反復が終わった後。だからそれは老人天国で、頭にくる。偉そうなのは引力を失った老人たちだから。

「まだ繰り返してるのか? それを終えたわしから言わせてもらえば、おまえは引力に囚われているのさ」。

どこかに飛んで行ってしまわずに、村はずれに住み続ける老賢者の類型。「オワコン」とか言ってる人たちがそうだね。……わたしが反復について書くとこんな風にいやらしくなってしまうのだけど(あー書かなければよかったかな)、ものはためし さんの「最後のひとつ」はわたしみたいじゃなくて、流れるようで軽やかですごいのさ!「最後のひとつ」が最後の更新でありませんように。

読み返しはたのしい

昨夜、布団の中で本を開いていたら蛍光ペンでマークされた段落を見つけた。以前のわたしがマークした。読み返したわたしにはマークするような段落かどうかわからなかった。過去のわたしは重要だと思ってマークしていた。だから、書いてある文章と一緒に読めなくなった過去のわたしを読むはめになって、面倒になってしまって、しおりを挟んで閉じて目をつむってそのまま眠った。

猿にでも分かるように書かれた本は読者を猿にする、について。
猿でなかった時代がない。ずっと猿だったと思う。性癖の多様な猿たちが船が好きだとか女が好きだとか上下関係が好きだとかでここまでやってきた。分かることが好きな猿たちは多い。どちらが上でどちらが下かを分からせるために怒鳴ったり。「キー!」。他人のせいにするのが好きだったり、反対に、自責が好きだったり。面倒くさいね。

村上春樹は読んだことがないんだ

というか小説自体をあまり読んでいない。
「好きな小説家は?」と聞かれたら、うーん、安倍公房?、カミュかなあ。青空文庫坂口安吾はだいたい読ませてもらった。芥川龍之介谷崎潤一郎の物語についての論争は読んだ。夏目漱石は嫌いだからあまり読まずに嫌いと決めつけてる。高校生の頃にトルストイを読んだ。読書感想文を書かなきゃいけなかったから、なるべくビッグネームで、かつ薄い本を探していたらたしか「光あるうち光のなかを歩め」がぴったりだったんだ。聖書を読まなきゃわからないなと思ったよ。西洋古典はだいたい聖書を読んでなきゃ読み解けない。くやしいから読んだ。
そっからは思想、哲学ばっかり。最初は解説書を読んでいたのだけど(現代思想の冒険者たち、とか)、全然意味がなかった。解説書はダメだ。都合の良い解釈しか書かれていないし、それに、あいつら翻訳を読んでいたりする。誤訳はどうしてもあるから。

哲学少女だったんだ。リケジョなのに。天才たちの考えること、書くことはわからないけど、彼らはとにかく孤独だった。それが、わたしの寂しさを慰撫するのにちょうどよかった。寂しさっていうのは恨みです。「うらめしや」が「さみしや」になってもいい時なら、逆も可能だ。アルトーは「文学に勝手な通行を許してはいけない」って言ってたらしい。文学というか、読者だね。武器探しのために読んだり、征服するために読んだり、お喋りの種にするために小説が読まれたりするからだと思う。物語は、そういうものも含んだ、不潔さも受け入れている。清潔なのもほどほどにしないと寿命が縮むよ。漫画も好きだしネットで読む日記も好き。詩もいいね。ネットで読む普通の人たちの文章にも文学や作家性はある。わたしがすごいと思うものがそれだから。たいしたことないのもたくさんあるよね。酷いのはひっでえー。寂しさと恨みがごっちゃになったわたしみたいにむちゃくちゃだよ。

ライバル

 

スターを巡って他の人の文章を読み探すのをお休してる。そんなに多くの方の文章を読める速さがないので、五つ、六つくらいのサイトを巡って読ませてもらって、これで十分。十分なのは、わたしは書く側に回りたくて、物語を書きたいと思っているけどそもそも文章をあまり書いたことがなかったので、読んでばかりはいられない。わたしが読むのはライバルたちの文章で、盗めるものがあったら盗んでやろうとしても読んでいる。

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未練と戦果

「先輩とつきあったらどんな楽しいことがある?」。キスのあとで彼女が聞いた。別に何もない。彼女には恋人がいたから僕が奪う側だったけど、その時は分からなかった。以前から恋人に隠れてキスしてたから彼女の方から来てくれると思っていたのだけど、しまった。僕とつきあうメリット。今の相手と別れて僕を選ぶに足るなんか。あー、これはエッチのさなかに考えることじゃないな。言外の断りかも。つきあうのってメリットデメリットじゃないから。

「二年前に先輩に彼女がいなかったら、つきあってたよ」

「そっか」

「別れる理由ないんです。相手、優しいから」

「うんうん。ありがとう」

彼女に廻した腕を解いて向き直して答えた。撤退戦だ。多少の被害は仕方ない、未練と戦果を比べてひたいにチュー。ああー、そっちが言ったんだって。

肛門性

「私が何を知っているかわかる?」

少し前に問いのマウンティングについて書いた。問いの裏には「答えなさい」という脅迫があるのをわたしはずっと前から知っている。インターネットで「私がなんで怒ってるかわかる?」の問いがモラハラだと話題になっていた。何も知らないお喋りたちをわたしの肛門性が「そんなことも知らないんだ」と心の中でなじって、気分がすーっとした。

問いの脅迫は哲学者や漫画の著者がわたしに読ませてくれた知識で、広く流通していないわたしたちだけの知識だから、それが常識となるまでは「わたしたちが何を知っているかわかる?」と読めない人たちを脅迫できる。誰もが知っていれば知識は陳腐化する。誰もが糞をするから美人だって「糞たらし」と呼んで陳腐化できる。でも、知ることや知性を貶めるわけにはいかないので、糞便が肛門を通る時の密かな快感に知が結びつく。私だけが知っている私の怒りは、隠されている限り、知るべきおまえの不能をなじる。知をひけらかしたいが、ひけらかしてしまえば「そんなことで怒っているなんて」と陳腐になる。そのあとで、ひけらかしが「恥」という言い訳を得て隠蔽を正当化する。そういうことを「まるで肛門の快感を知った幼児のようだ」と分析した人たちにわたしは同意している。知識は、たくさんの人たちに知られてしまえば糞便のように役に立たないが、隠された糞便は快感を生む宝石に化ける。「そんなことも知らないのかい? そりゃあ愉快だ」。

あの秘密は、それが知識であれ喜びであれ、苦しみや悲しみであっても肛門性と共にある。「私がなんで笑ってるかわかる?」「私がなんで泣いているかわかる?」。子供たちが「内緒だよ?」と打ち明けるところにも、女たちがひそひそと陰口を交わすときにも、知っている私たち/知らないお前たちを切り分ける線と共にある。知らないお前たちに支えられる分数の分子としての「知っている私たち」。そこにいるためになら苦しみさえ捧げられる。

ドラマ「カルテット」について書きたくなる。マキさんには秘密があった。戸籍を買って別人になりすましていた彼女は罪の苦しみを隠していなかった。「私が何に苦しんでいるかわかる?」なんて言わずに普通に過ごしていた。隠しもせず打ち明けもせず暮らしていた。マキさんの秘密の存在が暴かれた時に、打ち明けずに過ごしてきた暮らしが隠していたことになった。「嘘」になった。

マキさんの秘密の存在が暴かれるその時まで、打ち明けずに暮らしていたことは嘘ではなかった。知らなくていいことを知らせる必要はない。むしろ、知らないすずめちゃんたちと同じ、秘密を知らないあなたでありたい。

終盤で、肛門覗き趣味を「知る権利」と呼ばれる覆いで欺く客たちをたくさん集めてコンサートが開かれる。罪を隠して俺たちを騙していた嘘つきの顔を見てやろう。隠している間はさぞ気分が良かったろうが、もうそうはいかない。俺たちの眼はその顔を「知る」からな。客たちは、曲名に込められた彼女の溢れた悪意を知ることはできない。知らないことにも気づかず知っている彼らは。

大人が秘密を守るのは、なんでだっけ? 思い出した。知らなくていいからじゃないのかな。音楽のような暮らしがあればいい。暴きたがりが暴かなくていい秘密を暴きにやってくるけれど。

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田舎娘だけが自分を気にする

都会の人たちが洗練されているのは、たくさんの人で混雑した交差点で「誰も私のことなど気にしてはいないさ」が身体に刻まれているから。田舎から都会に出てきたわたしの惨めさは、誰もわたしのことなんか気にしていないのに服が変じゃないかとか駅で迷ったりして恥ずかしいと思っていたところ。田舎娘だけが自分を気にする。電車からの景色が田畑からビル群に移ってくにつれてワクワクするのと自動改札にオドオドしてしまう田舎娘の羞恥心は、表と裏の関係でどうしようもなかった。

東京の大学で過ごして、季節の変わり目に行われる洋服のセールやレストランのメニューやドリンクの新しい種類がわたしたち女学生を楽しませてくれて、こっちも大いに楽しんだ。都会は力強く頼もしかった。忙しかったとも言える。恥ずかしがってなんていられないくらいに忙しかった。

卒業してベッドタウンに引っ越した。眠りの生産工場のような住宅街と大きなショッピングモールがある街に暮らしていると、ときどきふわふわした郷愁がおそってくる。田舎に帰りたいのか都会に戻りたいのかわからない船酔いみたいな気持ちをスナック菓子を食べておさめている。この次が結婚なのかもしれん。家庭をつくったらそこが帰る場所になるのかな。家庭をやるのにベッドタウンは適正につくられていて、その正しさがまだ家庭のないわたしを異人扱いしてる。田舎娘はいつまでも自分を特別扱いしたままで恥ずかしい。

 

 

倒錯

倒錯できなくちゃ人間じゃない。数学者は数と式にぞっこん。太った人しか好きになれない人。書類をめくる総合職の指。切手の収集家。ポケットの中の石にだって好意や執着を寄せられる。ベルリンの壁と結婚した女性は未亡人になってしまった。あるいは、象徴だって概念だって倒錯の対象になる。倒錯することができるのは人だけで、AIには無理じゃないかな。人がコンクリートに好いてなかったら電柱も立ってない。変な夢も見ないんじゃないかな。スマホゲーに課金しないんじゃないか。たくさんの小さな倒錯でできているわたしは、土曜日にチョコレートパフェを食べて、駐車場に止めてあった緑色の車をかっこいいなと思った。大学のサッカーコートは綺麗に整備されていて青年の身体が機敏に動いていた。わたしの小さな倒錯は次々と流れていって最後には常夜灯も消して真っ暗にした部屋で眠った。

「いやな事件だったね」は、もうこれで終わりしたいというお願い

子羊が狼に食べられてしまった事件で、固く閉ざされた扉をどうやって狼が開けたのかが話題になっていた。家に子羊が一人になるのを見計らって、狼は扉の外から声をかけて、まんまと彼女自身に扉を開けさせてしまったのだ。狼はその知恵をある書物から得ていた。変装して狼だと見破られないようにすることや、怪しまれないような声のかけ方が物語には書かれていた。もちろん、子羊が狼に食べられるいやらしい場面も描かれていた。悪知恵で羊を騙した狼は警察に捕まった。羊を食べるのは悪いこと。

羊たちは羊のフリをした狼たちと狼の味方をする羊たちを扉の外に追い出して、固く扉を閉めた。物語に描かれていた子羊を食べるいやらしい狼の場面を破り捨てた。まだ何かが足りないと思った羊たちは集まってどうしたらよいか考える。扉が内側から開けられてしまうので開けられないような難しい錠を付け加えることにした。内に残った羊の中で一番頭の良い者に誰にも開けられない難しい錠を作らせて扉に取付けた。そのあとで、ある一匹の羊が自らの子を食べてしまった。「扉を開けられるのは錠を作った羊だけ」。そうして錠を作った羊を殺してしまうと、開け方の分らなくなった扉の内側で子殺しの羊が仲間を集めて言った。錠作りの羊は狼の仲間だったと。

狼の仲間は外に追い出したはずだったが、まだ内側に仲間が残っているかもしれない。奴が最後の狼の仲間だったのかもしれない。どうしたらいいだろう。羊たちが言った。
「仲間を疑うのはもう止めたい」「きっとあいつが最後だったんだ」「もう誰も喰われたりしないさ」。いや、我が子を喰った狼はまだ見つかっていない。錠作りの羊は狼ではなかった。奴が外に逃がしたか、それとも内に留まっているか。一匹なのか二匹なのか。まだ見つかっていない。この中に羊のフリをした狼がいるかもしれない。科学的捜査が必要だ。

子殺しの羊はナイフを取り出すと自らの手を切って言った。この血が狼かどうか調べてくれ。他の羊たちもそのナイフを受け取って自らの手のひらを裂いていった。扉の内に狼がいないと分かった。あとは狼の仲間がいるかどうかだが、これを疑っていたらきりがない。それよりも、これから扉が開くことのないようにさらに錠を加えようか。誰にも開けられない錠をつくれる者はいないか。羊たちはしばらく囁き合っていたが、一人がこう言った。錠作りの羊が死んでしまったから、もう誰も扉は開けられないはずだ。あれは扉じゃなくて壁になったんだ。

そういう昔話があるんだ。だからあの扉の錠は開かない。外からも内からも開けられない。あの中には、丸丸太ったおいしい羊たちがたくさんいて、鍵をかけたことも忘れて眠っていやがるのさ。

ラーメン食べたい

ラーメンが食べたい。味噌かとんこつ。「バリカタ、ハリがね、粉おとし」。醤油や塩は食べた内に入らない。こってりギトギトのやつかニンニクたっぷりのとんこつじゃないと食べた気しない。舌でなくて胃で味わって血糖値の急上昇に身を任せてしまいたい。机の上の見積書の束が白い。白いから軽そうに見えるけど書かれている金額は多い。エアコンの風で飛ばされてしまいそう。木の葉を頭の上にのせて変身する狸みたい。お腹がすいた。

キキと絵、内部告発

空を飛べたかどうかではなくて、荷物が届いたか届かないかが宅急便。

絵のこと。
魔女の宅急便で、キキが画家を目指すお姉さんの描いた絵を見る。絵には他者の眼に映る世界があって、キキはお姉さんの世界観に触れる。知っていたつもりで知らなかったお姉さんの眼に映るもの。絵を見るのは画家のまなざしを借りること。キキは見たことがなかった他人のまなざしを見ることで大人になっていくと思うのだけど、それは、絵を見たからで、同時に、キキが自身のまなざしでしか世界を見ていなかったことを見ること。自分以外のたくさんの他者のまなざしがあるのは頭では分かっていても身体でわかる機会は多くない。もしかしたら、それは魅了という形でしか現れないかもしれない。

魔女の私は、魔女でないあなたが魔法のような絵を描くのを見たわ。この街で魔法が使えるのは私一人だけで、一人ぼっちと思っていたけれど。

 

内部告発のこと。
内部告発は内にいるその人が外に、他人になってしまうことだから、正しい告発でさえ通じずに孤立する。仲間外れにならないのが最大の関心ごとの内部で、そこから外れるには、正しさや美しさなどに魅了されなければ外れるのを受け入れるのは難しい。

絵や文章は他者のまなざしを描ける。他の人がどうであろうとわたしの眼に映る世界はこうだと描ける。仲間外れへの恐れを振り切って、正しさや美しさへ魅了された画家たちがそれらを描く。こんな絵空事に沿っては物事が進まないので、少しずる賢い企てがいるのかもしれないけど。

他者の世界はそこにあるだけで魔法のよう。魅了の手を借りさえすればという条件付きで。魅了のないところでは他者は見逃されてしまう。そして、他者との出会いも慣れてしまえば内部へ取り込まれてしまう。

私は空飛ぶ宅急便なのに。

街の人たちが魔法に慣れていくにつれ、ただの宅急便になっていった。街の内でいつもの宅急便に私がなって、私の魔法は使えなくなってしまった。私は街の人たちにとって普通の宅急便。大人は魔法なんてなくてもちゃんと届ける仕事をしなくちゃいけない。他の街の人たちと同じように。

 自分の特別さを溶かして他の人たちと同じ普通の人になるのが大人になるということ。わたしではない他の誰にでもできる宅急便の仕事。どこかで、私は魔女でなくなって街のみんなと同じになりたいと願ったのかもしれない。その願いが魔法で叶えられて、空が飛べなくなった。

「空を飛ぶってどんな気持ち?」って聞かれても、そんなの空を飛んだ人にしかわからないよ。

寂しい魔女には使い魔がいる。小説家は猫を飼う。わたしはジジになりたかった。

語と文法のハッカーとフィクションのこと

言語は人の通る舗装された道のようなもので、山の中や森の中までへは通じていない。山や森というのは隠喩で、他の人たちはそれを未踏の大陸などと表している。または、舗装された道の方を孤島だとか塀に囲まれた国だとかで表す。道を見て歩いていると山や森は存在さえしないのと、専ら人が知りたいのは、というか人はみんな言語の専門家なので通じるいつもの道を通る。言語学も修めていないで専門家気取りなのは鼻につくが、わたしたちは実験者なのだと思えばスッキリとする。観察者と対象が一体となっているけど。山や森に立ち入るには、一人で入る以外に方法がない。というのは、仲間を募るための通じる言葉がなくなるということだから。通じる言葉がなくなるというのは話の通じない狂人になること。少しカジュアルにすれば「日本語も読めないのか、話せないのか」そういう馬鹿のこと。通じる言語を捨てること。

たとえば、眼の方が言語よりも色彩を知っている。あたりまえだけど、青や赤や黄色の境界を越えて色彩は存在してる。言語の外に存在しているので眼の方が色をよく読んでいるが、眼は孤独な狂人で読んだものをわたしの痕跡に伝えられない。それは言語の方が眼よりも色に関して無知ということだが、なぜか言語の方が偉そうにしてる。

「現役の大工が教えるきれいに仕上がるかんなのかけ方」が書かれていたとしても、きれいに仕上げるには身体の修練が必要。書かれたかんなのコツとかを読んで分かってしまうことをわたしは「身体性が奪われていく」と名付けてる。彼らはそれを「知識」と呼んだりする。山や森を含めると思考にも身体性があるので、わたしは彼らが思考とか知と呼ぶものを呆れて眺めている。呆れるのは、わたしが自身を肯定するのに彼らを否定するのが手っ取り早い舗装された道だから。この否定はまだわたしがいっぱしの馬鹿(ハッカー)でないのを示してる。

単純に「知ること」は子供のころのわたしにかかってきた電話のように、気分がいいものでない場合があるし、良心に関わりはないし残酷であることも多いのだけど、なぜだかは推論できるが、知や読むことは誰も傷つけないかのような錯覚に陥ることも多い。わたしはそういうのを「眠り」と呼んで、それを読んでいたりする。山から下りてくると道行く人たちが逆狂人に見えてしまうのは山と森のあるある。言葉が沈黙の器官たち(色彩を読んでいる眼とか)に沈黙を強いている。道にたむろしている彼らは保安官。不安を殺して安心を保つのには話が通じ続けるのが一番の薬になるから。彼らは話の通じない馬鹿たちを薬の弾で撃つのを仕事にしている。あるいは、狂人と自分たちとを住み分ける縄張りを守り続ける。そんなハンターたちを撃つ仕事がハンターのハンター。

雨の日といえば、1メートルはなれる犬

埋め込んでみた。ヴァンモリソンの「Moondance」は雨の日に聴きたくなる歌。

youtu.be

学生のころ、サークルの友人が「お酒と音楽があればいい」と酔っぱらいながら言っていて、彼女はとても可愛かった。切れ長なのに笑みのためにあるような目と少しそばかすがのった白い肌が、フィンランドとかそっちの方のモンゴル人とゲルマン人の良いとこどりの顔をしていて、もしわたしがプロデューサーだったらアイドルとしてデビューさせてみたかった。背の低い彼女は子供のように無垢な性格で、わたしはよく「ウチの子になってほしい」、「知らない人についていったらダメよ」と冗談を伝えて、そのくらいかわいかった。彼女がクラブで「お酒と音楽があればいい」と誰にも向けないで、でも独り言ではなくはっきりと伝えたのを覚えている。踊ってる彼女は楽しそうだった。


先日、実家に帰って犬と遊んだ。
わたしが柵に近づくとしっぽを振って寄ってきたのだが、わたしが柵の中に入ると1メートル程の距離をあけてボールを噛んでいる。ふさふさの毛をわしゃわしゃしたいので彼に寄っていくとボールを咥えて逃げる。おいでと声をかけてもこっちに来ない。ボールを投げて遊んであげるよと言っているのに全然わたしの方によってこない。なんやねん。どうしてほしいんだよおまえは。なんだこの微妙な距離は。追いかけると逃げるし追いかけないとわたしから1メートル離れてボールを噛んだり咥えたりしている。

ブラッシングしてあげるよと櫛をみせると寄ってきたので「こんにゃろう。わたしに甘えろ甘えさせろ」と胴に腕を回して捕まえようとしたがアホ犬はすり抜けて庭の隅へ走って行った。すりぬけるときにわたしの手に彼のちんちんがあたった。そしてまた1メートル。躾けを間違ったわたしは完全になめられている。帰宅してからもアホ犬ともっと遊びたかったわしゃわしゃしたかったと悔やみ続けていると、わたしの負けだと思った。アホ犬は自分をかわいいと知ってやがる。かわいいのは天才だから敵わない。