やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

探偵ニック

 

ニックは廃棄場で目が覚めたそう。彼はあいつらに不用品として捨てられたのだ。それから紆余曲折あって人造人間ニックはシティで暮らしている。私には彼が人間よりも人間らしく見える。もしかしたら、見た目が人間そっくりではない古い人造人間だからこそ、人のフリをしているのがコミカルに見えて、それが私に「人間よりも人間らしい」と思わせているのかもしれない。モーター音を鳴らしながら黄色く光る眼をキョロキョロさせているニックの姿は可愛らしい。だから、マーナがあんなことを言ったとき、私は少し腹が立った。

 

「悪いけど人造人間にうちの商品は売れない」

 

「かまわないさマーナ。今日は俺の連れが君の品を楽しみたいそうだ」

 

シティでよろず屋を経営しているマーナは、噂によると住民のほとんどを、隣家のマルトゥーロさえも人造人間じゃないかと疑ってるみたい。彼女のメモには「マルトゥーロは優しすぎる。怪しい。彼は人造人間かもしれない」と書いてあるらしい。笑っちゃう。

 

「ニックはマーナのことどう思ってるの?」

私はヌードルをすすっている彼に聞いてみた。

 

「ん?ああ、絹のように優しい女性さ」

 

「彼女はあなたを邪険にしてたじゃない」

 

「昔ここで起きた人造人間の事件は君も知っているだろう」

 

ある日、一人の男性が街にやってきて酒場で大勢の住人を殺害した。セキュリティがそいつを撃ち殺したら皮膚の下は機械だった。それで最新型の人造人間のことが明るみになった。

 

「見分けがつかないんだ。俺と違って最新のやつはね。さっきまで笑っていた気のいい男が突然廻りの人間を顔色ひとつ変えず殺し始めた。誰かがそいつに「ウォッカはどうだい」と勧めたあとにね。きっとその人造人間はウォッカが嫌いだったのだろう。マーナはあの事件を覚えているのさ」


「誰だって事件のことは知っているわ」

 

「そうかもしれないが……。分けられず白黒つけられないのだから疑うのは正しい。そして正しくあるのは骨の折れる仕事だ。マーナに骨を折らせているのは、彼女を騙しているのは人造人間だ。彼女が人造人間を嫌うのは正義だ。正しくあろうとするマーナに俺は敬意を払っているよ」

 

ニックはシティで探偵事務所の看板をだしている。機械探偵ニックは街の人たちが自らの手では解決できないトラブルを請け負って生計を立てている。失踪人の捜索とか、危険を伴う探し物とか。トラブルなんか起きなければそれに越したことはないのだけど、ニックにとってはご飯のタネ。私はなんだかなあと思った。たとえば、ニックの手におえないニック自身のトラブルは誰が解決してくれるのだろう。

 


 

「俺は人造人間なんだよ。ほんの少しの赤血球をのぞく、あらゆる部分が造りものなんだ」

 

あらゆる部分が造りもの。機械探偵のニックはかっこいい。
くやしい!ストーリーがおもしろくてくやしい。いやあ、フォールアウト4の物語やキャラがわたしの概念回路をつんつん突く。まあ、あたりまえなんだけどさ。よく「物語やキャラの元ネタはこれこれ」なんて言われるけど、ずっと元ネタを遡って、元ネタの元ネタの……と行けば人と社会そのものだよ。元ネタが人じゃない造りもの(概念、フィクション)なんかないんじゃ。

「元ネタ知ってる?」は「人間知ってる?」に置き換えちゃえばいいのさ。そんで「知らないけど調査中」って応える。

 

マーナの調査は悲しい。わたしは幼稚園のころ夜に家族でテレビを見ていた。番組にイカやタコが出てきて「タコには骨がありません」とナレーションが流れた。
そのあと、おやすみなさいと一人で寝室にいき眠ったのだけど、わたしはのっそり起き上がって居間に行って晩酌してた両親に聞いた。「わたしに骨はあるの?」。
寝ぼけてたんだけどはっきり覚えてる。自分に骨があるかどうか不安になって聞いた。だって自分の骨を見たことないから、もしかしたらわたしはタコかもしれないって思ってさ。骨があるかどうか確認するには自分の腕を切って見てみるしかないけど、できないから、知ってそうな人に聞くしかなかったよ。

マーナも隣人たちを切って中身が機械かどうか見てみるしかないだろう。それができなくて疑い続けるはめになる。知りたいってのは残酷だ。「あなたは人造人間?」って聞いたって真実が返ってくるかどうかわからないんだから。

 

フィクションが「フィクションですよ」って自らを明らかにしてるのは限りなく優しい。破れた人工皮膚から金属や配線がのぞいていて、一目で「おまえは造りものだ」って分かるニックみたい。フィクションはそれ以上嘘のつきようがなく読者を騙しようがない。創りものの嘘はわたしを騙さない。フィクションはわたしを「騙す価値のない人」にしてくれる。

マーナみたいに「誰かが私を騙してるかも」って疑いつつ「私は誰かにとって騙さなければならない(騙す価値のある、騙しがいのある)人間だ。なぜなら……」って思うのはつらくて悲しい。そして悦楽でもある。

 

フィクションは嘘を隠さない嘘だから、正直だよね。
物語は自ら造りものであることを隠さないので、わたしは一番信用できると思うのだ。なんというか、よかったなとホッとする。オレオレ詐欺に騙されないように信じることを気をつけなきゃいけないからさ、フィクションはオアシスみたいなものよ。「ニックは偽物のニックでニックは自分をニックじゃないって知ってる」。文章にするとわけわかんないけど物語にはちゃんとそういうのが描かれてる。

はあああーため息でちゃうぜ。

 

ケイト

 

「自惚れ屋。あなたなんかに明日のこと未来がわかるわけないでしょう。他人のことだってそうよ。なのに、どうして悲観できるのよ。この先どうなるかあなたに予知できるっていうの?」

 

私はケイトにそう声を荒げたのだけど、どうしようもない、もしかしたら最もかけてはいけなかった言葉だと思う。 本当に違う。泣いている彼女の背中を見て私ははき違えてるのを反省した。でも、悲観の中毒になっているとき、きっと悲しいことばかり起こると予知してしまう傲慢に効く薬を、私は持っていなかった。

 

「あんたはそうだ。いつも。放っておいて」

 

放っておければ苦労しないんだ。
この子はいつも。うまくいかないことがあると、それを抱きしめて離さなくなる。小さいころに大切にしていたぬいぐるみや毛布みたいに握って離さない。哀しみが自分の半身になる。そんな感情への自己陶酔は歌詞やドラマの世界の話だと割り切って、少し馬鹿にするくらいに突き離して、大人になっていくものなのに。誰だってそうしてる。ケイトはまだ自分を感情の主人公だと自惚れている子供だ。私は彼女の気持ちがよく分かる。かつての私を見ているようで放っておけないんだ。

 

「ああ、ほんとう嫌だ。あんたにも悲しくなる。膜があんたを覆ってる。なにか考えてるだろ。最悪と思うよ。考えてる人の前で泣くのは最悪の組み合わせ。未来なんて知らない。クソな最悪の繰り返しが私をみじめにするんだ」







わたしはドラクエ11を大満足して終えた。ドラクエを友人に貸して、その代わりにFallout4を借りちゃった。 とっつきにくくて難しいなと初めは思っていたのだけど、今はケイトちゃんが可愛くてしかたない。 わたしはケイトちゃんと核戦争後のアメリカ北東部を旅しています。物語もすごくいい。

人間と見分けのつかない人造人間たちが紛れ込んでいる地上世界。隣人が人造人間じゃないかと疑いながら暮らしている偏執狂。壁に開いた穴を本棚で隠すだけで見て見ぬふりをしちゃう市民。真実を暴こうとしてるがため周囲に煙たがられてしまう新聞記者。正義と管理の名のもとに排他的になってしまう軍人たち。いいね。物語はいつもちゃんとしてる。

幸福と真実が乖離しちゃってるのはどうにもならないよなとわたしは思う。幸せを追求してる人にとって壁の穴や仲間の外のことなんて知らないよとなるのはどうしようもない。 真実を追求すること=幸せと倒錯しちゃってる新聞記者さんは可哀そうだが、不幸せな話はたとえ本当のことだろうが聞きたくはないさ。 幸せに生きる権利は知りたくないことを知らずに済ませる権利。でも真実は、わたしもわたしの隣人も地下から送り込まれた人造人間なのかもしれない。疑えばきりがないので どこかで考えるのをやめて正直そうな誰かに尋ねたり描かれた線を抱きしめる。物語は神さまが描いた設計図みたいだって思う。ドラクエもそうだったけど、物語はすごい。

核爆弾は理系の叡智の継承の結晶で人の手には負えない力の塊だけど、物語爆弾は文系の叡智の継承の結晶なんじゃないか。爆弾を作る技術は身体の中に眠ってると思うんだよね。ほとんどの人たちは爆発させないように眠らせていて、 たまに誰かの物語爆発が眠ってた読者の体内爆弾に引火しちゃうのだと妄想する。変な風に爆発しないように、ちゃんと爆発するように精密につくられた化学式爆弾。あー、爆発しない不発弾の物語だっていいか。

 

中二病、いい主観

 

中二病を助長するような漫画とか映画とかに囲まれてそのまま素直にあこがれて中二病になったのに「中二病」と揶揄されてしまうのは可哀そうだなと思う。漫画や映画などの「中二病をつくる側」にまわるとき、つくる側の人たちは中二病的な感性を守って隠しながら生きてきた人たちで、その作品には揶揄する大人たちとの孤独な闘いが映されたりする。そしてまた作品に影響された中二病の人たちがつくる側になって抑圧する世間との闘いを描く……なんて繰り返されるサイクル。あるかもね。素直な感性(中二病)と同調圧力(世間)との反復する闘い。マッチポンプというか振り子というか。継承っておもしろいなと思う。クニとイエ(からの抑圧)は日本の文学に通底してきたテーマだってどこかで読んだことあるけど、ドラマだとかアニメにも継承されてる。そんなこといったら作家さんはだいたい中二病みたいなものか。哲学者とか思想家とか科学者だってそう。世間の抑圧がグツグツあるからバーン!といくのだろう。


平気な顔して狂ってね。わたしは狂人とか迫害された人とか理解されなかった人とか、そういう人の書いた文章が好き、というかそういう人たちの書いたものしかおもしろいと思わない。大げさかな。わからないものをおもしろいと思う。「わからないことすら、わからせないもの」まで行っちゃうと、もう肌感覚ね。さっぱりわけわかんないのに「あ、読まなくちゃ」ってなる感覚。いい直感、描かれたいい主観。そういうのを肌が探してる。


音楽の方がいいかな。わかるとかわかんないとかが音楽にはあまりない気がする。絵画や写真も。でも、それらにも読める人だけに読める文脈や手法が、伝わる人にだけ伝わる継承があるのかもしれない。そういうの、わからないことすらわからないままに聴いたり観たりできるっていい。いい直感、いい主観に手を貸してくれるもの好き。いい声ね。いい声で耳をいっぱいにしたい。

 

23:54

会社の机でこれを書いている。わたしだけに風を送るエアコン。さっき買ってきた十六茶。立ち上げているメモ帳。サンドイッチ食べたら眠くなってきた。それだけだったらいいのに。エアコンと十六茶とメモ帳だけだったらいいのに。そうはいかないので悩ましい。私は私を悩ましくしている。そうしたいから。

わたしは悩みたいから悩む。それを解決したいと思うのは別の欲望だ。だから、悩み相談というのは「悩みたい」と「相談したい」のマルチタスクで、マルチタスクできるのは才能のようなものなのでマルチタスクできる時点ですごい。世の中にはシングルタスクで、このシングルタスクを執着と呼んだりするけど、相談などに欲望が浮気せず「悩みたい」の欲望だけに一途にまっしぐらしちゃうときだってある。悩んでるわたしが誰かに解決策を提示されても聞く耳持たなかったりするのは、または、解決でなく悩みへの同情を求めちゃったりするのは、そういう感じなのだ。「もうしばらく私は悩みを悩んでいたいのに、解決だなんて野暮なこと言わないでよ」。

どうかな。正確に書けたかチェックしよう。

うん。「欲望が浮気せず」のとこどうかな。うううーん。そもそも欲望はサラサラしてて、それが粘っこく一途になるのはどうしてかなという問いの立て方で精密だろうか。そうだよね。たぶんこの時制であってるよね。そうなのよ。たまに「あれ?逆だったかな」となっちゃう。いつもそうなんだ。メモったりしないから忘れちゃう。メモったら自分にばれちゃうからね。

ね、眠い。

こんなことやってる場合じゃねえ。

ノーベル文学賞、カズオだって

 

字面だけだとサザエさんちのカツオくんが浮かんできちゃって、「磯野やったな!」って泣いている中島くん。師匠兼ライバルとして見守ってきた伊佐坂先生も感無量。ノリスケさんの勤めている出版社はてんやわんやだ。外国にいるカツオくんから波平さんへ電話がかかってきて、もしもし?なに!受賞を辞退する?バッカモーン!までがアバンタイトル。メロディーにのって「カツオ、ノーベル賞を辞退する」。あけて「カツオくんらしいや」とマスオさん。

 


 

ウィキペディアノーベル賞のページを読んでみた。歴代の文学賞受賞者の一覧を眺めて聞き覚えのある名を探してみたりした。ベケットは読んでみたいな。いつか読もう。でも小説ってとっつきにくい。漫画やアニメやブログの中にある文学のエッセンスみたいなのもわたしは好きだな。以前に進撃の巨人をアニメで見たけどすごく文学だった。境界線の内と外のこと、人と社会のこと、うわーと思いながらワクワクして見てた。テレビドラマやゲームの中にだって文学はあるじゃん。ボーダーレス、ジャンルの境界を越えて遍在する文学ね。わたしはそれを人の営みだと決めつけてるからあたりまえか。人の営み=文学で、それが精密に描かれることだとわたしは決めつけてる。壁の外にわけのわかんない巨人たちがいる。無垢な欲望が境界を越えてきて壁の内側の秩序に守られていた人々を喰らう。それって、まるで私たちって思う。

 


 

「わたしは思う」を全て「決めつける」に代えよう。

言葉はみんなの共有物だけど、たとえば、「文学」が指すイメージはみんなとわたしで違ってる。たとえば、愛憎なんて呼ばれて愛が憎しみに変わると言われるけど、わたしのイメージではそれは変わっていない。わたしの決めつけでは愛/憎は愛=愛。愛の領地を示すのに愛(x)=愛(y)の式を使えばもっとわたしが納得できる。憎しみだって愛さ。でも、みんなの優しさにわたしの言葉は負ける。わたしがいくら「憎しみだって愛さ」と述べたところでみんなはみんなで共有してる言語の秩序を守るから、わたしの負け。たくさんの人たちが愛は愛、憎しみは憎しみだよって言って、壁の内側のみんなを優しく守ってあげている。既存言語の秩序VSわたしの決めつけ。それは愛/憎を分かつ境界線を愛してるからだよとわたしがしつこく決めつけ続けても「おまえがそう思うのならそうなのだろう。おまえの中ではな」と言われたら言葉がない。うん。

 


 

文学賞にはXXXこそ相応しい」

「いやXXXなんて文学じゃない」

イメージの共有を巡る闘い。言葉はみんなで使うものだから文学の名が何を示すのかアンケートをとって決めていけばいいのだろうか。それとも辞書をひいてみるか。ちょっと待った!わたしはわたしの独りよがりな決めつけを進めたい。そもそも、その闘いの元になってる伝えたいという願い、通じたいという呪いはなんなのか? 関数:願い(a)=呪い(s)の描線はどうしていつまでも繰り返されるの? どうしてわたしはそれを繰り返されてるって認識してしまうの? それは……、ええと、あれがこうなってそうなって……とずっとやっている。既存言語の秩序からできるだけ自由になって、言葉の壁を壊して、わたしは決めつけてみたい。イメージをアンケートとか選挙や辞書で決めるのは辞退させてください。わたしはわたしの言葉と概念を抱えてずっと生きていかなきゃいけないから、個人の想像とか妄想と呼ばれる場所がもしもあるのなら、わたしはそこで自由というか原始を目指したい。もちろん社会人として公の場では現行ルールに従います。アンケートの結果に従うから、ね?お願い!妄想だったらいいでしょ? フィクションだったらいいよね。

 


 

言葉は一生ずっと付きあってくパートナーだから納得して仲良くしたい。言語の話を全部鵜呑みにするんじゃなくて大人のお付き合いがしたい。

「言語さん、あなた私を騙したのね」
「信じてたのに全て嘘だったなんて」
「ああ可笑しい。愛した私が馬鹿だった」

こういうマツイカズヨみたいな依存した付き合い方はやめときたい。それもドラマチックでいいけどね。今ね、スマホに知らない番号から電話がかかってきたわけさ。ググってみたら迷惑勧誘の番号だった。この人たちだって言葉を代えればわたしに「伝えたい通じたい」って思いで電話してるわけでよう。いくら先方が「今よりお安くなります!あなたのためです!」って優しさを纏ったって迷惑勧誘は迷惑よ。優しく伝えればいいってわけじゃないの。まったくさあ。そんでなんだっけ? そうそう妄想ね。そうだよ妄想さ。わたしが、わたしだけが納得しようともがいて作られるわたしの妄想が他の人にとっての迷惑勧誘になってしまうこともあるに決まってる。それでも行きたい。わたしは他の人たちの妄想に助けてもらった経験がある。「妄想だデタラメだ」「嘘つきめ狂人め」って非難されてしまった過去の妄想人たち、彼らが紡いだデタラメなイメージにわたしは助けられちゃった。これも観方を変えれば、彼らの迷惑勧誘にまんまと引っかかってわたしは余計なことを考えるはめになったとも言える。このやろう。言語の法の外なんて思考の底なし沼に誘いやがって!責任とれよこんにゃろう(憎)。けれでもサンキュー(愛)。感謝の半分以上は強がりだな。ありがとよ!(泣)。

 


 

ある幼児が父親に非難をこめて言った。「あんたなんてラッパよ!椅子よ!砂場よ!それから、それから!……」。

言語の法の彼岸。この幼児が向けた非難に比べると「あんたが嫌い」の言表や我々が思いつく限りの侮蔑は、語法下の従順な苦情に留まるように思える。犬がにゃんにゃん猫がワンワン……。

 

最近読み進めている古い論評集に大真面目に「犬がにゃんにゃん」って書いてあったので笑っちゃった。犬はワンワン、それとお父さんはラッパじゃない。だからちゃんとお父さん嫌いって言わないと伝わらない。でも「あんたなんかラッパ!それから、それから……」と狂ってしまったその子の誰にも通じないデタラメにわたしは耳を傾けちゃう。父親のこと、ひょっとしたら嫌いじゃないんじゃないかな。うーん? 引き続き壁外調査を継承する。

 

責任感をぐしゃっと丸めてゴミ箱へ

 

消しゴムのカスをまとめてシャーペンの先でつついている。やすらぐ。なのに仕事ときたら来年の数字をはじかねばならず、私は来年のことを考えるなんて不幸のどん底だと思った。後悔をつくっているようなものじゃないか。私だけのならともかく、あんたたちの来年なんて知らないよ。あきらめてこれは今のことなんだと思うよう仕向けることにする。この操作が上手く行かずに大勢の来年を背負ってしまうと私は私に潰されてしまう。去れ私の責任感。

ひたいから伸びていた来年の枝がするすると縮んでいって消しゴムのカスくらいになって机の上に落っこちた。重かった私の頭、枝の長さによる慣性モーメントで重かったのだけど、それが少し軽くなる。書類の数字や文章にくっついていた言外の文脈、「この数字は我々の未来なのだぞ」「そこんとこ」「わかってるよな?」をぐしゃっと丸めてポイー。わっかりませーん。

 



身体のレベルまで落とすんだ。何もかも。数字は溶かして飲めるように、文章は水にして泳げるように、利息は音にして聞こえるようにする。落とせ落とせ。来年のことは今に落として、束になった書類は一枚一枚の撫でる紙に落とす。カチカチの文章はやっかいだ。私をそこに泳がせまいと拒んでいる。ならばと時間を逆戻して象形文字、クサビ形、呪文か絵かわからないとこまで落としてやる。文字は「月まで行ってきました」みたいな顔をしている。わたしの文章もそう。わたしの指がキーを叩く。キーを叩くときの指の気持ち良さまで、わたしの身体だけが知っているそのレベルまで引きつけよう。
それがわたしは苦手だから気をつけよう。

 


 


愛されたーい。
もちろんみんなにだよ。つまり会社に愛されたいよ。でも会社が愛してるのは責任感のあるおじさんなんだよ。だからみんな愛されおじさんに変身していくんだ。

 

「会社ちゃんの好きなタイプってどんな?」

「責任感があって残業してくれる人かなー」

「君のためなら俺はそれになる」

 

会社ちゃんとおじさんちゃんは人目を気にしないカップルみたいにイチャイチャしてる。システムとか決まりとか社会や場所も欲望するんだ。それらは発情だってするかもよ。わたしたちはその欲望に応える。私はそんなイチャイチャリア充カップルを横目にうらやましいなあと思いながら消しゴムをつついている。いいな私も愛されたい。愛されてるんだって感じたい。でも今日は会社に抱かれたくない気分さ。

 

 

恥ずかしさの反射

 


「ここまで何か質問ある?」

「はーい。先生のスリーサイズ教えてください」

「今は言えないから、田中くん、知りたかったらあとで職員室に来なさいね」

 

耳が真っ赤になるような純情中学生を妄想してうひひひと眠りについた。布団の中で力の天才たちのことを考えていたらこういうのが浮かんできた。言葉と力がいったりきたりする感じ。謎の力が彼の耳朶を赤くする。身体を赤くする力の式があるならば田中くんはそれを知ってるはず。ただし、天才のやり口で。

 

 

「言語活動が始まると共に欲求が人間化する」

夜に本を読み返していたらこんな文章を見つけた。田中くんの耳が赤く染まるのは熱力学かな。それとも恥ずかしさが鏡で跳ね返ったのか。

 

力には言葉がある

 

わたしたちは言葉の専門家じゃなくて力の専門家みたいなこと。

 

ネットでLGBTの話題を見つけてさらっと流し読みした。そこには「差別に苦しんでる人がいることを知ってほしい」と書いてあった。知るだけならいくらでも知るよと思った。でも、行間から読めるのは知ってほしいという願いだけではなくて知ったうえで同情してほしいということだった。


「苦しみを知ってほしい」。知ったあとで当然に同情なり配慮なり反省なりするだろうとの予断からそれらについては表記されてない。言葉の専門家ではなく力の天才であることが読者に期待されている書かれ方だった。知る以上のことが「知る」という言葉に込められていた。

 

言葉が通じるのではなく力が通じる。

 

あるいは、「知る」という言葉が余計なのかもしれない。「苦しみを知ってほしい」じゃなくて「私たちは苦しい」でいいんじゃないかな。そうすればわたしみたいな屁理屈屋に「知るだけならいくらでも知るよ」なんて言わせなくて済む。

ん?まてよ……。

「知る」というのは同情とは何の関係もない概念だったかと考える。

 

うーん。

 

知ると一つの名で呼ばれている事柄の中には、わたしの考えでは、同情に近い形態はあった。そっか。「苦しみを知ってほしい」イコール「同情してほしい」でいいのかもしれない。専門用語は難しい。

同情してほしいの代わりに知ってほしいと表記できるのは天才的だ。知への渇望や無知の不安や 知っている/知らないの境界や分けることで生まれる力のことを身体が知ってなければできない言い換えだと思う。

馬が走る天才だったり魚が泳ぐ天才だったりメッシがサッカーの天才だったりするみたいに、わたしたちは言語活動の天才。同情してほしいや共に闘ってほしいではなく、知ってほしいと書ける天才。それを泳ぐように読めてしまう天才たち。たくさんの人たちがみんな天才なので、その天才さがわからなくなってしまってる。


わたしも色んなことを誰かに知ってほしい天才の一人なのでそれに名前を付けて流通させてみたい。まだ名付けられていない、だから誰にも呼ばれていない概念とか人々とか疾患のことをわたしは思う。名がなくて、だから呼ばれないもの。わたしはそういうのを考えるとウキウキして、そして名がなくて可哀そうにと思う。十万字くらいの長い名だったら楽しいだろうな。あまり短い名前だと、それは今までにはなかった無知をつくっちゃう。短い名にはそういういやらしさがある。短い名(文章)を好む人たちもたくさんいる。わたしも短い名について、たとえば「知るとはなんなのか?」とかを考えるところから始めて、そりゃあ短い名で示すのは無理じゃんと今は思っている。

 

 

一般論は書きやすくて一人に向けては書きにくい

 

金曜日だイェイ!

 

「コーヒーはよくかき混ぜられなければならない」

 

9月29日。id:masa1751 さんのところの文章を読み始めた。このまえ誕生日だったそう。おめでとうとわたしがコメントしたら「最近見かけなかったじゃん」と返ってきた。ああ、そうそう。自分の文章を読みなおしたら結構いいと思って満足したのと、色気がでて次は何を書こうかな変身しようかななんて考えたら更新頻度が落ちちゃった。いっちょまえに「次」だって。小さなブログにもそんな小さなストーリーがあるなんておもしろいなと思った。あと、ドラクエが楽しくてネットするのを忘れてた。


昨日スターバックスでドリップコーヒーを頼んだら可愛い店員さんに「ジューシーなXXXの豆とYYYなグアテマラの豆があります」と聞かれたので「ガテマラで」と伝えた。「グアテマラで」よりも「ガテマラ」の方が言いやすいと咄嗟に判断して声に出した。コーヒーでジューシーとかフルーティーとかいうのは酸っぱいやつのはずだ。苦いのがわたしは好き。グアテマラの豆はさっぱりしていておいしかった。

 


「最近みかけなかったじゃん」と言われたのはうれしかった。「うん、まあね」。masa1751さんの中では一応わたしは登場人物になってるんだなと思った。やりとりあったもんね。匿名のその他大勢やお天気の話をするのに比べると一人へ話すのは苦労がある。一般論とか原則とか自分の日記を書くのと比べて大変だ(どうというわけではないが)。一人へ向けて話したり書いたりするのはね。クラスメイトとか仕事の同僚とかそういう仲間じゃない見知らぬ一人へは特に。

 

はてなスターはてなブックマークは優しくできている。見知らぬ人へ一対一でなにかをコメントするのはぶっきらぼうなので、そのあたりを上手くかわしてやりとりできるようになってる。

 

それに、見知らぬ人に一対一で話しかけるなんてのは普通はあまり要請されたり必要になったりしない。ナンパくらいかな。ん?ええと、つまり、匿名の大勢にわたしはなりやすく、匿名の大勢に訴えることにわたしたちは慣れてくるのだけど、そのときに一人を感じさせてくれるのはうれしい!

 

「最近みかけなかった」ってそっちだってそんなに更新頻度高くないじゃん!どうせいっちゅうんじゃまったく。「コーヒーは混ぜられなければならない」から読み始めて
「浅い海の底に沈めた」まで読み終わった。小さなブログの小さなストーリーの「次」を考えていたわたしはちょっぴり癒された。早く冬がこないかなと思った。まだ昨日はむしっとしてコーヒーのおいしい季節じゃなくてトールを飲みきるのに苦労したんだ。

 

わたしはビールやコーヒーのことが書いてあるのはすごくいいと思った。

 

一般論や標語が天気の代わりに優しく書かれたり読まれたりする中で(「いい天気ね」の代わりに挨拶みたいにそれらが書かれる中で)、飲みものの話やらの個人的な文章はぶっきらぼうに聞こえる。わたしのいやらしい優しさが引っ込んでいった。masa1751 さんはきっと文章ののどごしを考えているに違いない。あるいは、のどごしのいい文章が身体に染みついているんだろう。いい感じだと思った。のどごし=ぶっきらぼうの感じでわたしは書いている。

 

論や標語はいやらしく優しいがウザいお節介でもある。わたしにはどちらかというと論が染みついている。ようは「嫌いが好き」なの。だから、優しくないぶっきらぼうな文章は読んでいてまぶしい。読者の同意を必要としてなくてまぶしい。読み手の「うんうん、そうだよね」「わかるわ」を必要としてそれと合体して初めて完成する論や標語の文章の多くは月のようなもの。誰かに読んでもらって「うんうん」と照らされるのを待ってる。

簡単に言い換えると「かまってちゃんじゃない文章」の良さ。放っとける感じがいい。
月明かりもいいけどね。わたしはどっちも好き。あ、はてなスターだから星灯りか。

 

わたしは以前にも「あなたの文章は残酷にも読者を必要としていない」と書いた。また同じことを書いちゃった。そうならないように「次はなにを書こうかな」と考えたり変身とか書いていたのに。まあ、いっか。

 


 

あなたの好きなものはなに? 好きを話した方が楽しいに決まってる。

 

「私は「これが嫌いだ」って話すのが好きよ」

それでもいい?私が聞くと彼はしぶしぶ承諾した。それでもまし、それでいいと言った。私は楽しくなって「まあまあ、飲んで酔っ払いなさいな」と彼にビールを注いであげた。「おつかれさま」。

 

「冷たいビールの季節も終わったね」

「冬もおでんにビールだよ」

そう言って彼は咽喉を鳴らした。こだわりがあるんだかなんでもいいのだかわからないと思った。アミちゃんが遅れてやってきて「やっと一週間が終わった。死ぬかと思った」と言ってバッグをおろした。もう一度おつかれさまと三人で乾杯。自分の体力がないのか廻りが頑健過ぎるのかと彼女はこぼした。仕事がきついみたい。

 

「落ち着きそう?」

「いやーわかんない。もう無理かもしらん。とうとう辞めどきかも」
「むしろここまで続いたのを褒めて」

 

会社がまともで自分がまともじゃないのか、その逆かと彼女は自問した。ねえ、わかんないんだよ。なんでも。さっきさ、こいつが「何かが嫌いじゃなくて好きな話しようよ」とか言っててさ。

 

「あのねえ。何が好きか分かったら苦労しないんだよ」
「今の仕事向いてないって思うけど、じゃあ何が向いてるって全然見当つかないもん」

 

そうだそうだ。彼は首をひっこめてばつの悪そうにしてる。両手に花のくせにとひじで突いて三人で笑った。夏でも冬でもビールが好きみたいに仕事はいかない。生活かかってるんだから。グラスのふちを拭いてアミが「今日のビールすごくおいしい」と言った。「頑張ったからだよ」と私は返した。あ、うーん、だからって頑張れってことじゃないよ。「モッちゃんあんまり飲んでないでしょ二人で乾杯しよう」。

私と彼女で再び乾杯した。

 

「酔ってるよ。仕事好きの人たちって会社や自分に酔ってる。こっちはシラフだっつうのに」

彼女は続ける。

「仕事できるマンはアル中。あれ、仕事を絶ったら発作が起きるね」

 

できる自分をガソリンにして頑張れちゃう人いるよねと私は相槌をうった。私より飲んでるはずのマサくんは平気な顔をしてメニューを広げている。なんだか憎らしかった。こっちはもう酔っ払っちゃって飲めなくなってるのに、まだ美味しそうにグビグビやっている。

 


 


更新頻度かあ。そのときそのときで適当な更新頻度がみつかるでしょ。id:letofo さんの今日の文章に「一週間くらいブログを書かないでみた」って書いてあった。それでも世界は終わらない、グレーとも。わたしは読みながらキリンジが「永遠と刹那のカフェオレ」と歌っていたのを思い出した。それでコーヒーで二人の文章がわたしの中で繋がったのだった。


なんかバシっとばっちりな文章がオッケーと共に書けたら終わるだろうから、もしくは大大大NGで「はいもう終わりー卒業ー」ってなったら終わるだろうから、それまではねちっこく更新するんだろうなあわたし。あれ?これも一般論か?一般論は酔いやすい。大勢が、誰でもそれをグビグビ飲めちゃうから人混み酔いってやつだと思うんだ。

 

 

 

優しい人に聖者であってくれなんて求めたくないよね

 

北朝鮮関連のニュースを読んだあと灯りを消して布団にもぐった。もしもわたしが北朝鮮に生まれていたとしたらどんなストーリーを夢想したかななんて考えながら。自分たちを苦しめる奴らをやっつけてくれるヒーローを想像しただろうか。それか境界を越えて逃げていくとか。

 

そのあと読解力という文字をネットで見かけて記事を少し読んだ。従属力の間違いじゃないの? 分かりやすくて読みやすい文章に読解力を慰撫されている人たちに辟易しちゃった。いつまでもお客さん気分で分かりやすさに「おもてなし」されてればいいさ。

 

自らを伝わるに足る人物だと思い込む。

何かあれば誰かが伝えてくれる、さらに、「私には伝わるのだ」と信じられるのはお客さんの特権だ。あれだけ「伝えられないこともある」「何かを守るために嘘をつかなきゃいけない場合がある」「あなたの知らない壁の外側がある」とハリウッド映画や大河ドラマが繰り返し描いているのにのん気かなと思う。でも、お客さんはのん気でいいのだ。食べやすく調理された読みやすい文章を提供してもらえばいい。おもてなしする側とされる側を分ける境界線ははっきりしている。料理に毒が入ってないといいね。

 

お客様の特大権力。

レストランで店員に横暴にふるまったりさ。「おもてなし」の享受権を確信する彼らの傲慢は文章の場面にももちろんある。俺は読める。分かりやすい文章をだせ。読みやすい情報で私をもてなせ。そんなモンスター読者たち。そういうお客さんを相手にしなきゃいけない料理人たちがおもてなしにこっそり毒を混ぜていても、わたしは見て見ぬふりをして「いいぞもっとやれ」って思うよ。

 

むしろ、わたしをはっとさせてくれるのはおいしい料理に混ぜられている毒の方。だから、わたしが気をつけなくちゃいけないのは毒中毒。「私は毒のおいしさが分かる」なんてなっちゃったらあの境界に加担してるお客さんたちとなんも変わらない。んー別に変わらなくてもいっか。

 

おもてなしと言えば、id:lookwho さんはどうしてるんだろう。おもてなす側される側を分ける想像線に頼りきっている人たちのイヤな感じを、たぶん、lookwho さんは知っていると思うんだ。

 

あの関係につけこむ感じ。
「私たち友だちでしょ?」
みたいな脅迫さ。

 

サービス精神の塊みたいな聖者たちが、おもてなし世界線の理想人物像として押し付けられるのをわたしは見たりしてる。あーあ、その奉仕の心はお客さんたちをつけ上がらせてあの分かつ線を高く厚い壁にしてしまうのに。聖者の理想像は優しい人たちを反省させ続けてしまうのに。バカみたい。わたしは優しい人たちに聖者であってくれなんて求めたくない。

 

万一求められたりしても困るしね。

ん?そんなだっけ?
わかんなくなってボーっとした。

 

意地悪で優しい物語

 

昨夜、布団の中でこんな文章を読んだ。

 

一人の娘が川のほとりにいる。
彼女は通りがかったバラモンに嬉しげに話しかけた。いつも辺りをうろついていた五月蠅く吠える犬がいなくなってとてもいい気分だわ。あの犬はここにやってくるライオンに食べられてしまったそうよ。嫌な犬がいなくなったおかげで居心地がいいわ。

 

このインドの昔話を引用してから、本の著者は「ライオンは一度きり跳びかかれば十分だ」と続けた。わたしはその娘がライオンに食べられてしまうのを、犬と同じようにいなくなってしまうのを想像した。

しかし、著者が「一度きりで十分だ」と続けたのはなんだろう。

彼女は嫌な犬がいなくなってせいせいしているが、ライオンにとって犬と娘は同じ餌。己を知らない娘。わたしは自分のことを彼女のように知らない。彼女が犬と同じ運命を知るのはライオンに食べられるとき。そして、昔話を引用した著者は「一度きりで十分」と続ける。

なるほど、「私は自分を知らない」と不安になるにはライオンは一度きり跳びかかれば十分だ。もしかしたら食べられないかもしれない。娘は運良く生き延びるかもしれない。わたしは物語を俯瞰で読んでいるから「娘は犬と同じく食べられちゃうだろう」「自分を知らない無知な娘は哀れだなあ」なんて思ってしまう。

そして、さらなる俯瞰に立てば「読者の私も彼女と同じように自分を知らないのだろう」と不安になる。そうか、一度だけで十分だ。

 


物語が何かを伝えようとしていたら、それは優しいだろうか。このインドの昔話をつくった人は「人は自分の無知を知らない」と伝えたかったのか、他のことを伝えたかったのか。それとも描いただけなのか。解釈は読者に委ねられている。

まさかとは思うが「ライオンは一度きり跳びかかれば(人の知を揺るがせ不安にさせるには)十分だ」と伝えたかったのか。

 

うーん、それはないと思うけど。

 

伝達の読解レベルは坂道じゃない。段々と少しずつ坂を登るように読めていくのではなくて、エレベータでしか行き来できない階層のように断絶している。「愚かな娘は犬のように食べられてしまうだろう」と読む人たちと「娘がライオンに食べられるなんて書いてないじゃないか」と読む人たちは断絶している。「ライオンが跳びかかるのは一度きりでいい」と読む人たちはさらに別の階層にいる。

 

優しさと意地悪。


わたしは物語の中に入っていって娘に語りかける。「ライオンからすれば犬もあなたも同じだよ。食べられちゃうかもしれないよ」そんな風にして彼女を怖がらせるのは優しさなのか、いらぬ恐怖を植え付ける意地悪なのか。運良く上手くいけば食べられないかもしれないんだから。


私が食べられるかもですって?ああ、さっきの話を聞いていたのね。よかった。ライオンと言ったけれど、それは私のことよ。あの嫌な犬に噛みついてやったの。

あなたも美味しそうね。

知らないのはわたしだった。彼女は牙をむいてわたしの咽喉を噛み切った。すべて仕組まれていた。無知を装っていた彼女にわたしは喰われた。騙された。いや、わたしは驕っていておびき寄せられたんだ。わたしは彼女よりも知において優っていると思ってた。なんて愚かで幸せな時間だったのだろう。


いや、違うね。

 

ライオンは述べた。

今の方が幸せなはずだ。死ぬ間際に真実を知れてよかったろう。もしも後ろから跳びかかったらどうだ?おまえは私の正体を知らぬ間抜けなままで死んだのさ。真実を知ってから逝けるおまえは幸せだ。

 

 

わたしはしおりを挟んで著者のことを思いながら本を閉じた。

ライオンが跳びかかるのは一度きりでいい。そう記した本の著者は意地悪だ。どうして一度きりで済むのかの理由を書かないで、その一文だけで済ませて説明なしで、さっさと次に行ってしまうあくどい著者だ。おかげでわたしは考えるはめになる。わたしに考えさせてくれる。わたしは彼の意地悪に感謝する。全てを手取り足取り教えないでくれてありがとう。

物語は伝達として意地悪だ。結局、娘はライオンに食べられちゃうの?どうなの?物語は答えないので伝達に正解はない。

 

「嫌な犬がいなくなって娘はいい気分になった」。そういう文章通りの読み方もいい。「愚かな娘は犬と同じ運命を辿るのを知らない」と言語外言語を読んで教訓を得るのもいい。物語を引用して「一度きり跳びかかれば」と述べた彼のように解釈を進めるのもいい。

 

うんうん。物語の答えない意地悪さはわたしは好きだよ。世界はわたしに答えないって思う。吠えても拷問しても物語は答えない。いろんな読み方を放っておいてくれる。伝わりたい人にだけ伝わって、読みたい人たちにだけ読まれて、考えたい人たちに考えさせてくれる。

物語は読者の欲望のまま読まれるのがいい。わたしたちの首を掴んで引っ張って「こうやって読むのが正しい」なんてお節介な優しさを物語はやらない。わたしも物語を描きたい。意地悪になりたい。

 

「レモンありますね」

そんな感じ。

 

反省のしすぎは

 

反省は自身に加える暴力だ。

反省は自身に加える暴力だ。そう唱えていないと頭でっかちになって動けなくなってしまう。「反省は自身に加える支配欲だ」でもいいのだけど、これだとピンとこない。うまく身体に通じない。「暴力だ」の方が支配よりもイメージがピンとくる。

あくまでも私の場合はそうだということ。力の弱い場合、反省は力に留まる。「反省しなさい」と誰かに促されてそれをするようなときは大抵は弱い力を自身に向けて済ます。「反省は自身に向ける抑圧だ」。弱い力のときはそう表すのが適切だろうと思う。社会に適切なだけだけど。

 

反省という名の自身に加える鞭。これの困ったところは、ムチと同時に飴でもあること。誰かに「反省しなさい」と鞭を打たれる前に自らすすんで反省するときの甘い味。自身を自ら支配することの甘い味。抑圧を外に向けないで、暴力を外側に向けないで自分の内側に向けるというコントロールの良さ。他人を裁けないのならせめて自身を裁こうという小さな法廷。私には自分でルールを定めてその自分ルールで自分を裁く権利がある。一人の私の反省に立法権司法権が同居している、さらには暴力装置、私の反省は警察みたいなふるまいをする。一つの反省に三権が集中しているのでその腐敗や癒着を防ぐのは不可能なのだ。

この癒着により人は自分の(反省の)都合の良いものしか読まないし分からない。私は私に都合の良い苦しみも好む。私に都合のいい怒りも好むし悲しみも好む。苦いコーヒーを好むみたいに、反省をする。

なので、私は「反省は自身に加える暴力だ」と唱えておく。考えすぎはよくないよと自身に言い聞かせる。コーヒー中毒になっちゃわないように。

 


「反省は暴力なんかじゃない」
「それは痛くも痒くもない」

「痛くなるまで、苦しくなるまで反省したことない?」


考える、悩む、反省する、気をもむ、心配する。この辺りの境界線も曖昧なのに加えて痛みや苦しみをそれらの証拠として、つまり、それらの行為の交換物として、人質として要求するなんてのが常にある。

 

「痛いほど考えたのだ」
「苦しむまで反省しろ」
そんな具合に。

 

頬をつねる代わりに「夢じゃない」って確信を交換するようなもの。ほどほどにつねらないと暴力になってしまうってこと。思考の拠り所が言語である限りお互いにつねりあわなければいけない様相は、コミュニケーションは暴力であると言ってもいい。それが神話である限り「神話じゃないよね」って隣人の頬をつねるという感じで。

 

「コミュニケーションは暴力じゃない」
「優しく促すことができる」

 

そっとつねったり、または自身の力で頬をつねるよう促すのは可能だと思う。既にそうでもある。「なんか鼻がムズムズしてさ、鏡貸してくれない?(鼻毛出てるよ!気づいて!)」。ほのめかしと呼ばれたりもするけど。わたしだったら、一人だけ眠りに落ちてたらひっぱたいて起こしてほしいって思うかな。でも、醒める必要のない日曜の朝にひっぱたいて起こされたりしたらふざけんなってなっちゃうね。

 

黙っているルイス

 

 

ルイスはイヤホンを取り付けた。
目や口と違って耳はひとりでに閉じないので、やるには両手で塞ぐか耳栓などをするかになる。彼は母親の声で自分の耳が侵されるのをイヤホンで防いでいた。誰かが安らいでいる音楽にも、うるさくて耐えられない隣人から苦情がでもする。世界で親しまれている名曲であっても騒音になりうる。ルイスにとって母が親しんでいる母の英語がそれだった。彼はそれに悩まされていた。

母が我が曲で息子の鼓膜をふるわせようと彼の部屋に近づいてくる。ドアが開けられ彼が話すべき彼女の英語がやってくる。ルイスのイヤホンからはヘブライ語が、ドイツ語が、その他の外国語が呪文のように流れていた。
母は初めに優しく語りかける。

「おはよう、どう?」

「また黙っているの?」

「私に話しなさい」

そら、ピットピットが来た。なぜあなたは僕にそれができるとするんだ。ルイスはボリュームを上げてラテン語で耳をいっぱいにした。僕にはそれがでない。あるいは、別のやり方を見つけなければいけない。

かつて、僕は病院に連れて行かれて医者と二人になった。なぜ黙っているのかと聞かれて「あなたはなぜ話すのか?」と僕は組み替えて返した。彼は患者の話を聞くのが自分の仕事だと述べた。僕は観念してその仕事に協力して僕が得るものについて聞くと、彼は「君を理解する。治していく」と応えた。それは医者の取り分と僕は思った。彼に仕事は嫌々やっているのかを聞くと、「そんなことはない」と彼は笑顔で返した。

「それは不公平です」

「どうして?」

「僕は嫌々で、あなたに良いばかりだ」

医者は僕の味方だと繰り返した。「嫌われてしまったかな」と微笑んでいた。僕は彼への協力をやめてしまって、その代わりに金をはらった。

 

公平な学習が必要だ。できるなら多くの人たちにと思う。母や医者は僕を理解したい望みを言う。まるで僕の望みかのように。彼女たちの理解へ僕が奉仕するのが当然であるかのような態度で、僕に自白をせまる。「話しなさい」「理解したい」。それで口を割らせようとする。彼女たちは学ぶ態度の代わりに警察の態度を身に付けていた。ああやって自白させている。

医者は微笑んで口を割らせようとしていた。母は初めにささやいて、そのあとに大きな声をあげて僕の口を割らせようとするのが常だ。黙っていて彼女たちの捜査に僕の手を貸さないのは裏切りのようだ。僕はできるだけ街を歩いた。

街灯の下を通り過ぎて建物の横に行く。建物の横を通り柵に沿って疲れるまで歩いて行った。すれ違う人たちは別のことを考えているのだろうか無言で、善良で、余計な望みを払わず真っ直ぐに歩いていた。僕は自らの理解を喜ばせるために他人に自白を強いるのを神が許すか考えていた。イヤホンを取り出してロシア語を聞くことにする。SVET、スヴィエート。僕を眠らせないように光をあてて、疲れさせてとうとう口を割らせるやり方に僕は参っていた。


二回目の面談で医者は「私を嫌いになりましたか?」と笑って、僕に聞いた。あなたが望んで私がそう答えたならこのあとどうなるかと僕は問いを返した。

「君はなにを望んでいるんだね?」

「これを終えて少しましな気分を」
「家で眠るのに必要な静かさを望みます」

僕はどうにかしてそれらの語をひりだした。

母、問題、解決。そのような単語が医者の口から出て、矢継ぎ早に「君のせいではない」と言った。彼はあらかじめ決まっているかのようにすばやく喋って迷わず家に帰るみたいに話を終えた。僕は失語症の診断と眩暈をかかえて病院を出た。

医者や母にとって話すのは迷いではない。彼らは生まれてどのくらいでああなったのだろうか。僕はあたりを探して建物の脇に階段を見つけ腰をおろした。イヤホンから流れるドイツ語はくぐもってよく分からなかった。僕はまだ迷って見つけられずにいる学生だ。いずれすっきりと探しあてたら僕も滔々としゃべれるようになるのかもしれない。教壇に立ち自らの理解について話す様を想像して僕は咳込んだ。それがどんな語で行われるかの手がかりも掴めずに今はいる。彼らのようにあっという間に語をならべて、その音を鳴らすとき入れ替わったり混ざったり舌を噛んだりせずに、よだれを吐いたりせずに。僕は彼らが理解と呼ぶものが語が聴こえなくなることだと思った。訓練によって可能となるのだろうか。巣へ帰るとき巣を探して迷う鳥がいないようなものか。僕はあの家で一生を送るのか。

僕の前を車が通り過ぎていき、イヤホンを外すとなにかが噴出しているような音やこねるような音が耳に入ってきた。ドイツ語、ハオス、あれのHをDにしてAをとる。ダス、Mを加えてドムス、ラテン語。彼らはおしゃべりの塔を造り終えてしまっている。母のように初めはささやき、そのあと叫ぶか泣くかして脅す手口でピットピットをしゃべらせて不能でない神に比肩するおしゃべり塔を造った。彼らはそこへ迷わずに帰っていくので帰りに迷わない。僕は頭のうるささをおさめようとイヤホンをしてボリュームをあげた。彼らは塔と他人の口を割らせるために最後の語や最後の注射さえどこからか持ってくるだろう。


僕の母は街を歩いている人々だ。僕の医者もそうだ。僕は階段から腰を上げて右へ歩いて行こうと思った。歩き出すと静かにすれ違う人たちや煙を上に吐く煙突が好ましく思えた。僕はそれらから生まれるのを想像する。僕の母は街を歩いている人々だ。しかし実際には彼女の尻から生まれてきたために彼女に最初に見つけられてしまった。僕は生まれ直すように街を歩いた。黙っている僕が捜査すべき裏切りでないまま、歩きながら眠りたいと思った。家で夢を見ながらの質の悪い眠りだけでは治療に不足する。それが明らかだった。

 

 

駅は整然としている。そういえば、わたしは駅について誰かに教えてもらったことはない。電車が到着するところ。電車に乗るところ。切符が売られているところ。授業で教えた方がいいんじゃないか。小学校くらいのときに。「駅ってなんですか?」。駅は複雑だから。

 

どこからが駅なんだろう。あの歩道橋からかしらと訝りながらわたしはホームにいた。柱に各駅停車とそうでない電車の止まる駅が書いてあり、電光掲示板には次の電車の到着時刻が流れている。読むものがたくさんある。どれを読めばよいかわたしは判断してそれを読んで、間違いなく次の列車に乗るのだと決めた。車両の数と乗客が並ぶべき場所は足下に書かれている。駅は本当に読むものが多くて、かなり不親切に思えた。上から読んでいけばいいメールや右から読んでいけばいい本とは違う書き方だ。


これは、たぶんプログラムに似ているだろうと思う。わたしが駅に入力された信号だとすれば合点がいく。「駅ってなんですか?」「プログラムです」。もしもこれが正解なら小学生にはきびしいな。頭で理解しようとするなら、でも、駅は理解するものではないからなんてことはない。情報の過剰さに面食らうけれど、行きたい駅さえ分かっていればそこから逆引きして自分に必要な書きものを読めばいい。それはそれで難しい作業だが。整然とした駅にはしっかりとした足どりが似合う。学生たちが大人びて見える。

 

 

 

「鏡を読んでいる」。分かる文章や読める文章を読むことをわたしはそう呼んでいる。人は自分の理解回路を文章に写して読んでいる。自分を変身させないままに読める文章、自らの理解回路を組み替えないままに分かる文章を読むことに、わたしはあまり価値を見出していないばかりか、鏡を読むのは毒を飲むようなものだと思ってる。

 

よく、嫌なものを見てしまう人に「嫌なら見なければいい」と忠告することがあるけど、これは鏡の悦楽を考慮にいれていないもの言い。嫌なものを見て嫌だと分かり嫌だと言表する鏡の欲望は、悲しい映画を観て悲しくなったり、仲間の怒りを我が怒りにするのと同じように望まれている。

 

「嫌なら見なければいい」は「わざわざ映画を観て悲しくなるなんておかしい」とだいたい同じ。嫌なものを見て嫌だと思うことで鏡が慰められる。悲しい映画を観て情動が慰められるのと同じように、それは鏡の自分に感情移入する悦楽だ。

 

鏡は、隠語としていろんな物語に登場する。
だいたいの人たちは鏡を読んで暮らしている。

 

他人を自分と同じ思考回路を持つ鏡だと信じている平面上で、何ごとも進んでいく。なので、鏡の世界には「厳密な出会い」がないと昔のわたしは思った。同じ思考回路、同じ感情回路の他人と出会う?それは鏡に向かうのと同じ。鏡の世界は孤独なのだ。

 

ドラマ「カルテット」のアリスは鏡の中にいた。まるで世界に自分しかいないみたいに孤独だった。「私が誘ったらあなたは鏡みたいに返事をする。当然でしょ」。だから、サンドウィッチマンの人がつれない応えを返したとき、アリスは自身の思考外にいる異人に出会った。「私の誘いを断るなんて、理解できないわ」。

 

違う人間と出会うということ、理解不能の言語に出会うということは、孤独でなくなること。しかしそれは理解の外にあるので、アリスとサンドウィッチマンの人みたいに断絶する。「私の魅力を読めないなんて、あなた読解力不足ね」。アリスはそういう風に鏡に閉じたままだった。

 

「鏡」メタ言語の一つで、ある概念を指し示している。メタ言語というのはすわりが悪いなあ。言語はそのまま「メタ」だもの。それはともかく、言語には言語の正しさを証明する術がない。それを使用して流通し続けることで、流通が証明され続ける。翻って「鏡」の方はというと、鏡は言語外言語の一つなのだけど、こっちは通じることではなく描かれることでその概念が証明される。流通しない絵の具だ。

 

 

 


アリスの幸せは、彼女の魅力を読解可能な人に、読んでもらって理解してもらうこと、つまり、彼女の価値を認めさせ流通させることだった。マキさんたちの幸せは、鳴らすことだった。カルテット・ドーナツホールの幸せは価値を認めさせて流通させることではなかった。悲しい話だけど、描く人たち、鳴らす人たちへのエールとも読めるよね。