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やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

昔の彼

こんなわたしでも恋をしたことがある。彼は内気だったけど話をするととても面白くて、優しくて、何かに向かっていつも歩いていた。初めは彼の廻りには彼の友人たちがチラホラいて、彼らは楽しげに真剣に笑ったり怒ったりしてた。その中でも彼の歩みは独特だった。少しずつ彼は一人になっていった。彼は友人たちのことをとても愛していて、友人たちは歩みを止めてしまったのだけど、友人たちの分まで一人で歩いていく決心をしていたのだと思う。
誰もいない遠くまで行った彼はもうそこにはいない友人たちに向かって「俺はここまで来たよ」と言っていた。届けたい人がどこにもいないのにまだ歩くつもりだったのだと思う。わたしと言えば、彼のことをチラチラと眺めているだけだった。よく物語なんかである前のめりに倒れる人だった。少し滑稽だと思った。彼も自分のことを滑稽だと思っていたと思う。

わたしと同じように彼を見ていた人も少しいて、その人たちが彼のことをどう思っているのだろうとわたしは思った。唖然としていたり、蔑んでいたり、困惑していたりしていたのだと思う。彼はとても困った人だった。廻りを困らせる人だった。迷惑な人だった。見ている人にものを贈りつけて「それはいらないものだからあげるよ」と手紙に書いていた。いつもそう書いてあった。「いらない」「あげるよ」。いまなら彼のことが少しわかる。彼は法外なものを賭けていた。彼は君と話すべきだったとわたしは思う。

適応していく取り残される

つくづく人は水のようだと思う。海に住んでいたものの内、渚に逃げ出したものがいた。海に住めなくなったから。渚で生きるのは過酷だった。渚で生きていたものの内、陸に逃げ出したものがいた。陸に生きていたものの内、森に逃げ出したものがいた。森に住んでたものの内、砂漠に逃げ出した人がいた。砂漠に住んでた人の内、紙に逃げ出した人がいた。紙に住んだ人たちはどこにも逃げ出せなくなっていた。紙より過酷な場所はない。新しい大地に適応進化する人たちにエールを送りたい。

何も言わずにすむ

ねえ、ちょっと、聞いてるの?

なんだい。僕の何も言わずに済ます権利を侵すのかい? 何も言わずに済ます権利?そんなのあるの? 僕がつくったんだ。いや、誰かの受け売りかな。私が呼んでいるのだから応えてよ。応えたじゃないか。僕の権利はどうなるのって。聞いてるのは私よ。聞いてるのは僕だよ。

仮面と骨

わたしはその人を男だと思う。簡単に言えば彼はずっと「釣り」をしていた。匿名の掲示板で男のフリをしたり女のフリをしたり、政治のことを書いたと思えば料理のことを書いてみたり、花火について書いたかと思えば絵について書いてみたりしていた。たぶん、今も続けていると思う。道化師について書こうと思う。世の中には道化師という類型がある。まずは仮面について考えなければいけない。仮面をかぶり相手に仮面を見せると、虚と実の間に線がひかれる。仮面を見ている相手は虚を見ていて、仮面の男の素顔を知らない。実と虚実を知っている仮面の男。ここから、二つの道がある。

一つは虚に騙される愚鈍さ、眼に映るものを実だと信じてしまう愚鈍さがあり、仮面の男は眼に映るものを疑う。疑えない者は騙される。疑えることができて実を知るものに騙される。騙されるか騙されないか、虚か実か、疑えるか疑えないかの白黒世界が仮面の男を待っている。こうして反転する虚実の中で確かなものを探すのが仮面の一つの道。確かであり疑えないものは何か。それはたとえば死であったり、欲であったり、美であったり醜や力であったりいろいろなのだけど、仮面の男はそういう疑えない確かなものに縋る。なぜかはわからないけど、仮面の男にとって確かなものは一つなのだ。二つ三つはありえない。「死の前には無意味」「力の前では無価値」「信じられるのは欲だけ」のようにただ一つの確かなものに縋る。「それを知っているのは俺だ」。

もう一つの仮面の道は、確かなものは何一つないという道で、これが道化師の道。騙されたり騙したりするのも等しく価値がない。確かなことは何一つ無いというただ一つ。 道化師はそれを知っていて、おどける。何も意味はない何も価値がない。自分にも価値がない。さあ、おどけて踊ろう。何かを守ったり執着したりするのは弱点だ。何も意味がないというただ一つ。仮面は虚だって?素顔だって虚さ。

この二つの道と混ざり合って仮面がある。
ヒソXやシセX、ディX。仮面の男たち。
あの男は道化師だった。

知ることと仮面は切離すことができず、多かれ少なかれ仮面の類型に従う。騙される愚鈍を笑ってみたり、無価値だと踊ってみたり、確かなものを探してみたり疑ってみたり。そういうのを見るたびに、わたしは仮面について考える。

 

わたしは小さいころ骨はあるのか聞いた
保育園のころだろうか。わたしはテレビでイカかタコを見ていた。わたしが寝室にいくと父と母は居間でテレビを見ながら晩酌をしていた。わたしは布団の中でイカやタコには骨がないということを繰り返し考えていると、その考えは夢と交じり合ってわたしは起き上がり、居間に行って両親に聞いた。「わたしには骨があるの?」。聞いてはいけない部類の問いだと分かっていたが、夢の中だから大丈夫だろうと思って聞いた。両親が応えたかどうかもわからない。どんな顔をしていたのかもわからない。わたしは寝室に戻って寝た。そうして、骨があるかどうか見たことがないのにどうして生きていけるのかと思った。イカやタコだったらどうするのかと思った。自分に骨があるかどうかを知らずに生きるなど不安でしょうがないじゃないか。わたしは眠りについた。もうずいぶん時が経ったが、わたしはあのころのわたしと友人だ。

恐ろしい想像だけど、骨があるかどうかは切れば分かる。わたしは切らずに知らない不安を眠らせた。わたしがとても聞き分けの悪い子だったら、眠らない子供だったら、骨があるかどうかどうしても知りたかったら、切ったのかもしれない。知らない不安を甘くみないこともできたろう。わたしはどこかで甘くみていた。

良心は敵をやっつけるところまで含まれる

良心は敵を定めてやっつけるところまで含まれる。線をひいて守る領野を確定して、その領野を犯すものを敵として排除するところまで含まれる。なので、穏やかに見えるいわゆる良い性格に良心はない。良心は区別なり差別なりの線をひくことと共にしかありえないのだけど、もしかしたら、このことは同意されないかもしれない。だとしてもそうなんだもの。馬鹿と利口につける薬はないと言われるけど、薬が毒に見えるだけのことで毒に見えるのを飲まないのはあたりまえ。薬をつくる人たちは毒のこともよく知っていて、毒の中に薬を混ぜて飲ませたりしている。よく考えると、癇癪と良心の攻撃性との見分けがつかないので仕方がないのかもしれない。匂いと線のひき方で分かりそうなもんだけど。

下ネタは万国共通語

世界中のたくさんの人たちに伝わるのは、なんといっても下ネタと暴力かなと思う。もう一つ「わからない」も共通語としてあるのだけど、これは伝わらない共通語なので却下。暴力はいろんな情報を伝える(苦痛や敵味方の区別など)。伝達においては沈黙よりも優秀な媒体でなにより分かりやすい。伝達はとても奥深くてやるに値する行為だ。一生の仕事にしたっていい。やるにも書くにももってこいだと思う。

わたしが知っているのは、伝達は伝達が上手くいかない限り求められ、上手くいかなさを糧にして続けられること。そして、伝達にはただ一つ上手くいっている情報があり、それはどんな伝達の中にもただ一つある。ただ一つ上手くいっているがその他は上手くいかない伝達なので、伝達はいつも思わせぶり。「上手くいっている(のに)」。

おやつが冷蔵庫にあります。そう書置きがあって冷蔵庫におやつがある。おやつを求めているわたしが読めばその書置きは用無しになる。もしもわたしが冷蔵庫を知らなかったら、わたしは書き主に伝えなくちゃいけない。冷蔵庫ってなんですか?どこにありますか?おやつは食べなきゃダメですか?猫にあげてもいいですか?

そんな風に上手くいかず続くときも何かが上手くいっている。わたしは、そのただ一つ上手くいく何かにすがって伝達を続けるよりかは他のことを考えるようにしている。伝達を後回しにしないとわたしは個人的に参ってしまうから。下ネタの競争が始まるとアキラ100%も笑えなくなっていく。いくら万国共通語と言ってもたまにやるから面白いのだ。

配と慮

配慮の能力を競うレスラーたちが突進する。転げたら腕をアームロック。骨は折らない。その代わり「まだ配慮が足りないようだな」と言う。その通り、まだまだ配慮が足りないからメダルが遠い。書いていて自分でわからなくなってしまった。何を書いているんだわたしは。配は自分の内に向かって何かを分かることじゃなく、外に向かってそれを空けておくこと。誰かの喜びや痛みへ向けて空けておく。蟻にも空けられるはずだが慮が内に向かうか。

「あんたは知らないだろうけど、ここじゃ少額を賭けるのが決まりなんだ」


書くときも読むときも何かしらは賭けられている。
書かれた文章の中には、たまに命が賭けられていたり人格や良心や法外なものが賭けられているものもある。 すっからかんになるわけにはいかないので大概の読者はたいしたものは賭けられないというか、 「読めること」を賭けて受け取っている。「書かれた文章を読めたので、わたしもまだ狂ってはいない」。 知っていることは知っていると読めなければいけないし、知らないことは知らないと読めなければいけない。ただもう何が何だかわからないときは、書いた方が狂ってると読む。 万事この調子なので読めない文章は見当たらない。私の軛から外れるようなものは見当たらない。大したことは書かれていない。なぜなら、私はその文章を読めるのだから。

困るのは読めない文章に大したことが書かれている場合なのだけど、それはきっと誰かに読まれて私のところまで読めるようになって伝わってくる。それはおそらく間違いで、たとえば爆弾の作り方なんかはずっと読めない文章であり続ける。だから、君が言うように、賭けられるのは文体くらいのものだ。少しいい感じの文体や悪い感じの文体。ちょっとした性格は賭けられてもいいが、命やら人格全体を賭けるわけにはいかない。一文無しになったら酷いから。僕たちは文章に大したものが賭けられていないと願ってる。ただ、「読める」という少額が賭けられていないわけにはいかない。誰もこの賭けから降りることは許されていない。少額を賭けて少額を受け取って、大した勝負じゃなかったと言って、ずっと賭けつづける。大抵の場合、書いたり読んだりはそういう風になっている。ジュース賭けるくらいでちょうどいい。

感情と理性

わたしはジュースを賭ける。感情と理性は同じもの。理り通りに映画館で笑ったり泣いたり怒ったりしたあとで、それを分けて語り始める人の気が知れない。

わたしは何にでも =? を付ける

「なんでおまえはこんなことも知らないんだ。こんなの常識だ」。

今、知りました。あなたが教えてくれたから。「俺が言っているのはそんなことじゃない」。どういうことだろう。わたしは常識外れの仲間外れだ。でも、彼はとてもわたしを必要としていた。

 

手加減しないと遊べないよ。かくれんぼをやってる途中でわたしが家に帰ってしまったら、みんなは隠れ続けるか探し続けるかになってしまう。ルール違反、言語違反はそういうこと。だから、「今、知りました」ではなくて「済みません」と応えなければいけない。知りましたで済ますわけにはいかないのだ。

言語中毒者とアルコール中毒者は飲み続ける。わたしは言語を飲むのを少し止めたい。だから、身体のことを考えて楽しい気分になっていたのに、君は「手加減するな」と書くのかよ。あと長いよ。そんなに長く書いていいのならわたしだって長く書くぞ?お?お?

「どこでそんな汚い言葉を覚えてきたの」と母が言った。決まってるじゃんか。誰かがわたしに言っていたのだよ。それをあなたが躾けたよく聞くわたしの耳で聞いたんだ。まったく、ふざけんじゃないよ。

 

ニュートンがりんごで発見 =?
「ビタミンB」

 

ももクロ夏菜子ちゃんの答え。考えるとはこういうこと。式を仮設するんだ。知ることなんてどうでもいい。式をつくるんだ。りんご=ビタミンB。引力を知ってる人は式をつくるのを忘れてる。りんご=? この式を考えずに済ませる。わたしは誰よりも愚かでありたい。彼だって愚かにも 落ちる=? と式をたてたろう。でも、式をつくった夏菜子ちゃんは笑われた。わたしはどんなに変な式だろうと上等だと思ってる。もちろん仲間たちと共に笑うのも楽しくて最高だ。

てかげんなしで遊ぶには

言語のこと。

自らを読めるものとして他人に表すよう強制された。または、嬉々として表すことに飛びついた。私が初めて「私」と言ったときを思い出せばその時のドラマが判明するのだけど僕は残念ながら覚えていない。昔の人はそのドラマを象徴界への参入と呼んでいた。僕は「てかげん」と呼ぼうと思う。僕は手加減して「私」になった。仕方がない、それしか道がないのなら僕は手加減してあなたたちの遊びに付き合ってやるよ。ところで、僕の取り分はどこだい? 手加減と取り分と書いたけれど、これらも読まれなければ現れない下卑た言葉だ。飢えなしで歩くのは意味があると思わないけど、それを観念として存在させるなら読まれることのない記述の助けになるかもしれない。一度、手加減なしの遊びをやりきった方がいい。手加減して周りに合わせていると「手加減してやっているぞ。さあ、俺の取り分をよこせ」になってしまう。取り分を求めて癇癪を起こした子供をどうやって眠らせるかはいろいろ考えられている。絵本を読み聞かせるのはよく聞く子に育てるためと君は書いていたけど、眠らせるためでもある。

大人は自分の内心にいる子供たちの眠らせ方をたくさん知っている。なんにせよ納得させること。自身の内にいる癇癪を起こした子供たちの聞き分けの良い耳に向かって、記号の知性に向けて、読むことのでき読ませることのできる知性に向けて納得を提供できるのが大人と呼ばれている。私は納得できる、私は私を納得させることができると確信している人物が大人を名乗ることができる。だから普通は読めない文章は忌避される。読めない文章に出会うのは赤子だったころの私だけ。私は大人だから読めるし読めなければ大人ではない。

こう書いていると僕は言語が故障していないと思う。逆に、なんてよく機能しているんだと感心する。神なんて信じないと言いながら読める自分たちとその読みを信じて疑わない彼らは神さまそのものだ。読めるように自身を表さない誰かは分裂病、今は統合失調と呼ばれている病人だ。その病気は読めるものとしての私と対になる双子のような病で、病と呼ばれるのはそこに閉じ込められている状態を指す。本当ならば、その閉じ込めることが病と呼ばれるべきもので、双子や幾人かの兄弟姉妹たちがそれぞれを行き来できるのならそれに越したことはない。「人がもはや私と言わなくなるような場所」と誰かは書いていた。

僕はそれを、人がもはや手加減しなくて済むような場所と言い換えてみる。誰かに読めるよう手加減しなくて済む場所。それはありふれたことで、たとえば絵画は読めるようには描かれない。ただ手加減なしに描かれるだけだ(キュビズムとか)。文章でもよく分裂された物語は筆者が私と言ったりはせず、私と言ったかと思えば双子の片割れに飛び移ったり戻ったりする。彼らは病気のことをよく知っているか、または手加減なしで遊ぶのをやっているかだ。私を「私」のくびきに閉じ込めて読めるものとして表す限り、書かれたものは私を閉じ込めるのによく機能する。たくさんの意見にまじめな耳を傾ければ傾けるほど窮屈に閉じ込めれていくのは、それが読めるから。

人が手加減なしで書くことと言ったら怒りや罵倒や悲鳴やそういうものになると信じられてるのは僕にとって信じられなくて、それらこそ最も読みやすい読めるものとして表れるものなのだが……。怒りだとか罵倒だとか悲鳴だとかは良く統合されているものなのだけど、それらを通っても過ぎ去ればいいと僕は思うし実際に過ぎ去っていく。それは怒りの場所にいったんは所属して、怒りの仲間たちから去っていく行為。誰もそんな場所に住み続けたりはしない(怒り続けたり悲しみ続けたりしない)。そんな風に感情に於いては遊牧民であり社会においては定住民であるような矛盾を矛盾と認識できない言語はよくできている。世界が社会と関係ないなんて言えない。社会は世界の現実の一部であるのは確かで、それになんとか適応していく努力は存分に発揮した方がいい。言語は属するのに適していて、考えるのに適しているのではなく、むしろ考えないことに適している。考えずに統治することが社会から個々人に求められている。

言語は統治する道具として故障なく機能していて、世界や社会を記述するのには適していない。それを記述するのなら絵筆やカメラを手にした方がずっといい。あるいは演劇や映画の方がよく記述すると思う。記述するに値しない道具を嘆くよりはよく統治されている事実を僕は喜ぶ。人が人を物理的暴力なしで統治するには、残酷を見ることなしで統治するには、書かれた文字がどうしても必要だったと思うし、書かれた文字がことばの暴力と呼ばれようとも、それが暴力であるから、僕たちは自分で自分を殴って統治できる。自分をコントロールできる。

僕たちが僕たち用に手加減された読める文章を読んでいる限り、「わかる」「納得する」「わからないことがわかる」「納得しないことに納得する」が続いていって、可能なことと言えば本当に文体、話体、性格をつくることだけになってしまう。実際にそれはずっと続いていて、だいたいの人が気にできるのは話し方しか残されていない。統治するために僕たちは自分自身を磔にしたり他人を磔にしたりしていて、元も子もないことを言えば、自分をいじめるか他人をいじめるかしか統治の方法が見つかっていないということだ。僕たちが自分自身の悪行や悪心を読めるものとして読み、それを悪だと読んで律し統治するか、それを悪だと読めない誰かに読み方を教えて統治するかしかない。

最低限、悪行や悪心を読めなければいけない。自分であろうと他人であろうと、自分に書かれた法であろうと他人に書かれた法であろうと、ルールだけは絶対に読めなければいけない。頭がどれだけ悪くてもかまわないからルールだけは読めなければいけない。共感能力とは、同じルールを読んでいる仲間同士の隠語を読む能力のことで、言語とはそれが隠されていようとルールの塊なので、僕は共感能力について何も言っていないに等しい(同語反復)。

近親相姦は禁止されているのではなく不可能な純粋概念だ。まさに絵に描いた餅としてしかありえなくて、たとえば、私の母が私の姉でもあるときに彼女は一体だれなのか。私の父は誰と寝たのか。それは母なのか姉なのか。では、父とは何がそう呼ばれるのか、息子と呼ばれる私は母の何なのか。誰かはそれを「名が滑っていく」と言っていた。言語という法そのものについて考えるのは近親相姦のように不可能な概念としてある。なので、たくさんの人たちが近親相姦を手がかりにして言語のことを考えてきた。

考えることが何かを守っている。守っているのであり考えてはいない。そして、その守りが別の名で流通している。これらのことが過去の一部の人たちの仕事の遺産として継承され流通している事実はとても過酷で、できることなら信じたくない。ようするに言語の外は法外であって、それは表面としては流通せず裏面に流通していて、ならずものたちの隠語として書かれている。裏社会にも遵守される秩序がある。言語の外の言語は、言語を、つまり統治され守られているさまを記述する言語として用いられる秩序であり、だから「外を知らないペンギン」として統治者たちが言外に描かれたりする。言語内の統治者たちが仲間たちと話しているように、ならずもののゴロツキたちも言語外の言語でささやきあっている。しかも、外の言語はそれなりの歴史を経て発展を続けている。この状況について、夢から醒めたと思ったらまだ眠りの中で夢を見ているような残酷だと過去の僕は思ったものだ。

以上も以下も僕の妄想なのだけど、僕がこれを妄想として切り捨てられないのはいくつもの継承された徴があるからなのと、この妄想が妄想であろうと構わないくらい美しく設計されているから。夢のように美しく設計されている。

母語を犯すゴロツキの言語。仲間外れの孤独な言語は法の外にあって法に守られていない。しかしまあ、よくできていると感心する。内と外を分ける境界線はまさしく内側と外側を守っている。外から見ないと言語のかたちはわからない。外から見るとよく設計された統治だ。そして外は、内から見れば妄想としてしか写らないだろう。実際に美しかったりおもしろかったりする幻視と結びついたたくさんの妄想が社会を彩ってる。妄想で手加減なしに遊んだ方がいい。

寝返りのうち方について

「寝返りをうった」とは書けるけど、それを詳細に書こうとすると途方に暮れてしまう。どこの筋肉や神経がどんな風に流れ動いているのか、わたしは何も知らない。わたしは寝返りをうつ知性を身体の知性と名付けている。わたしは身体の知性を知らないが、わたしの身体の知性は寝返りのうち方を知っている。わたしはわたしが何でも知っていると思うたびに身体の知性について考えて楽しくなる。身体の知性は寝返りのうち方を知っていて、ホームランの打ち方を知っている。それはわたしの知のように気づきなしで知っている。寝返りは複雑な流れの組み合わせの行為であるから、知らずに反復できるわけがない。身体は気づきなしでやり方を知っている。

わたしは知ることで、気づくことで安らいだ経験は覚えている中で一度だけある。それ以外の気づきで安らいだことはなくて、無知を知ることでいつも不安を覚えていた。寝返りをする知性は不安を感じたりはしない。自身に疑いを向けることで、内向する力とおしゃべりで存在を確信しなければならないようなやわな知性とは違って、身体の知性は不安を感じたりはしない。

ホームランを打ったり、シュートを決めたり、釘を打ったりする身体の知性のことを考えるとわたしはとても楽しくなる。身体の知性は洗脳されてるんじゃないかと疑ったりしない。でも彼らは寝返りのうち方を知っている。わたしの指はキーの叩き方を知っている。それに比べたらわたしの小癪な記号の知性が書く文章なんて寝返りすらうてない。もっと身体のごとく素直に簡単に動けわたしの文章。

難しい横文字よ、てめーはだめだ

よく躾けられた者は躾ける権利を有する。かつての王さまや神さまはよく躾けられていないと思えるが、躾ける権利を持っていた。不思議だ。なにがどうなって変わったのだろう。わたしにもよく分からないことがあって安心したし、楽しい。躾を逃れている他者が羨ましいんだ。そう言っても、嫉妬がなぜ成り立つのかもわからない。

難しい言葉には難しさが存在していて、その難しさゆえに難しい知があるに違いないと思ってしまう。でも、その難しい知は、わたしたちが簡単に行為していること。軽々と行為される難しい名前。なので物語には行為が描かれる。その行為は差延であったり倒錯であったり、転移や間テクスト性オタサーの姫であったりするのだけど、それは易々と行為される。文学を行為するのは普通の身体をした文学を知らない人々なので、別にどうってことはない。わたしは難しい言葉を使って誰かを煙にまこうとはしないと思う。ただ、難しい言葉は長々とした行為を短く名づけることでより早く遠くを考えるのを助けてくれる。言葉は光よりも速い。または、その行為の再現性について考えることができる。だが難しい横文字よ、てめーは駄目だ。

なんで嫉妬と名付けられた特殊能力が備わっているのかは、物語を省略すれば、「期待外れ」があったのだろうと思う。期待は外れるか、それが大き過ぎるかしないと期待として現れないと思う。

ちなみにわたしが、読みにくい文章や読めない文章しか読みたいと思わないのは倒錯ではなくて。赤子のころを思い出せばいい。最初にそれは読めないものとしてわたしの前に現れた。そのあとすぐに読めるものとして自分を表すよう強要されるのだけどね。

 

一人は決して寂しくないが、仲間外れは適応障害

忘れられないのが、「1+1は2だ」と強弁していた人のこと。具体的なことは忘れてしまったか、最初から具体的な事柄をわたしが見ていなかったかで書けないが。とにかくその人は、たとえば「ゴミを拾うのは1+1が2になるように当然のことだ」のような比喩で誰かを説得しようとていた。馬鹿だなと思った。

以前に1+1が分からなくて強迫神経症になってしまった方の体験談を読んだ。その方は小学校にあがったとき1+1が2になるのがわからなかったそうだ。1とはなんなのか。足すとはどんな行為なのか。普通の人はそうやって考えることなしに他人にならって解いてしまう。数学という異言語の規範に従うのを知ることだと錯覚してしまう。考える必要なしに解く。1+1が2なのは考える必要のないことで、考えずに解かれる式は儀を付けた方がまし。定められた儀式だと思えばいい。儀式には祈りがつきもので、1+1の祈りは「考えませんように」と祈っている。1とは何かなんて考えませんように。足すとは何かなんて考えませんように。どうか、大勢の他の人たちが考えずに済ませますように。そうしないと授業が先に進まない。隣人が「1とは何か」を考えていたら困るんだ。義務教育で記号論や言語論を修めないのは、記号や言語は学ばなくても使用できる前提があるからなんだけど、その修めない結果をわたしたちは見させられてる。ご覧の通りのありさまだ。