やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

瞬間のガチャ、継承のレベル上げ

 

「どんな日を幸福と呼ぶか教えてやろう。眠るときに空腹でない夜だ」

 

羊は日々を過ごすように生きていて、羊飼いは収穫する日のために今日を殺す。羊と羊飼いの争いはいつも行われている、それは一人の中でも行われていて、「ごはんいっぱい食べたい(羊)」「半年後に可愛い服を着たいから糖質制限よ(羊飼い)」そんな感じ。

欲望同士の闘いだ。羊飼いの方は、未来を企図通りにつくろうとする欲望とか、欲望を制圧しようという欲望とか、役割のおかげで欲望が人間化していく様子が見て取れる。

わたしは羊になったり羊飼いになったりを気づかぬままやっているが、こうして線を引いてみるとどちらの味方をしようかと迷う。七つの目をもつ羊。昔から羊は羊で、羊飼いの夢も見ている。まるで「アンドロイドは電気羊飼いの夢を見る必要がない」だと思った。

 

 

 


 

世界が五分前にできたと信じている羊たちを僕は許せない。自分のことだけ、瞬間の欲望を満たしているだけの七つ目の獣たち。家や街、知識や技術を継承してきた人たちが断念せざるを得なかったもの。瞬間の享楽を捨てて未来に尽くしてきた人たちを思って、僕は苦しくなる。

羊たちには未来を紡ぐ気なんてさらさらない。彼らには付け焼刃の、今、ここ、の欲望しかない。そのせいで次の世代が被る苦難を、僕は想像する。自分たちの苦しみを未来に相続させたくない。僕は強くそう願う。

 


 

便利さは呪いだ。もう後戻りできない。技術の速さに僕らは息つく暇もなくて、油断しているとあっという間に出し抜かれる。「今」がないイライラしている人たちを見て、僕らはいつもイライラする。「なんでこんなにも余裕がないんだ」。僕らの未来は誰かに握られている。

握られているという実感のせいで「誰かが握っている」と思う。そう思いたくない、誰かが、なんて。だから、僕らは積み重ねない瞬間の獣になるべきだ。

 


 

 

 

 


先日亡くなったわたしの祖父は臨済宗のお寺で眠ることになった。臨済宗のことを調べたら、それは自力仏教らしい。自分の力で修行して極楽にいく?そんな感じかな。他力仏教は「自分の行いで極楽に行けると思うなんておこがましい」そんな風で、念仏さえ唱えれば修行しなくても悪人でも極楽に行ける。そうわたしは思ったので、他力はかなり謙虚だ。自分の力でなんとかなるなんてどんだけ自分に自信があるのよってこと。

 

ガチャみたいだとわたしは思った。

 

マジでやばいのは、誰かにとっての苦痛が誰かにとっての享楽であるような倒錯で、誰かがダイエットのため苦しくジョギングしているときに、誰かは単純に楽しくてジョギングしている。誰かが嫌々と線で学習しているときに、誰かは楽しく流れてやっている。そこに交換が絡まって「苦労した方がえらい」。それでこう、面倒くさくなったりするんだ。嫌々競争してる人たちと楽しく競争してる人たちとか、そういう欲望の星座は、星座というのは、見る人によって星の並びが絵に見えたり物語に見えたりするという意味だけど、おもしろいというか、夢みたいな話だ。

他の人たちが楽しんでやれることがわたしにとって苦痛だとヤバい。欲望が「普通」じゃないといろいろと。

 

 

他の人のブログを読む

 

ちょびっと引っ掛かりを感じて、id:masa1751さんの文章を読み返した。夕方にわたしは外で、キンキンに冷えた手でiphoneをなぞって読み返して、「うーん、もしかしたらブログを書くのやめるってことかな」と思った。そうは書いていなかったので、なんともわからない。どうなの?

わたしには少しそう読めたが、もしかしたら引っ越しをするのかもしれないとも思った。彼の文章は川の流れみたいで、「ここまでがこれ!あそこまではあそこ!」のような区切りがない。流れている文章を読むのはわたしは苦手で、わたしは食道に水を流すみたいに読もうと心がける。

ツイッターの騒がしさと比べて、ブログは静かで気持ちがいい。おとなしいわたしは、今日はそう思う。明日は「もう少し騒がしくてもいいのに」となるかもしれない。

ボンバーマンで遊んだ

 

いとこの息子、祐くん(六歳)とゲームして遊んだ。Wiiのマリオとボンバーマンを二人でやっていたら、わたしの母が部屋の戸を開けて「もう夕飯だからそろそろやめなね」と諭した。わたしは懐かしい感じがしたが、祐くんには悪いことをしたなと思った。「ごはんだって。行こう」と促して居間に行って手巻き寿司を食べた。いとこが「XXちゃん悪いね、遊んでもらって」とわたしに言った。

 

祐くんは早々に食べ終えて「待ってるからね」とわたしに伝えてゲームの部屋に行った。わたしはゆっくり食べて、そのあとお茶を飲んだりした。祐くんを待たせたりなんだりで、わたしの価値が高まっていった。

 

しばらくしたら祐くんが戸を開けて、「お姉ちゃん、(ゲームの設定は終わってるから早くしてよ)ねえ」とねだった。母といとことわたしは夕飯を終えてお喋りをしていた。わたしも子供のころは大人のお喋り好きなのを理解できなかった。テレビのニュース番組なんて大人はなんで見るのだろうと思っていた。つまらないのに。わたしも大人になって、トロフィーを眺めるようにお喋りしたりニュースを眺めている。「トイレに行ったら行くから、ちょっと待っててね」と祐くんには伝えた。

 

 


 

 


お姉ちゃんは君に黙ったまま、ボンバーマンの設定を変更するという不正を行った。


祐くんはボンバーマンで、すぐに自機を死なせて「みそボン」になるのを好んだ。やられたあとも間接的に戦いに参加できる設定が「みそボン」で、ステージの外側からまだ生きているキャラたちの闘いを邪魔できるのだ。わたしはシンプルな設定が好きなので、やられたらそこでおしまいの設定「みそボン:なし」にした。

祐くんは自機がやられたあとみそボンにならないので「あれー?」と言った。ゲーム設定の細かいところまではまだ子供だからわからないのだ。わたしは「今度のステージはみそボンなしにするよ」とは伝えなかった。「お姉ちゃんの好きな設定でいいよ」と言われたので伝えずに変えちゃったのだ。ごめんね。


現実は厳しいんだよ、祐くん。
誰も教えてくれないんだ。

 

誰かが丁寧に教えてくれるなんて期待してはいけない。観察して学び、盗んで、自分のものにしたまえ。競争相手が手の内を親切に明かすなどというゲームはない。

「教わってないから知らなかった」
「騙された」
そういうのが通じないときもある。

 

競争相手の不利益が自らの利益になる仕組みではそうなる。恨むならその仕組みを恨みたまえ。ワハハハハ。

 

そんな場面でも「仕組みの外にいる人」は重要になる。わたしと祐くん以外の、競争相手ではない、通りすがりの公平な誰かが「お姉ちゃんがズルしてるよ」と教えてくれたらいいのだが、しかし、密室ではそれが適わない。

 

「ズルい奴もいるんだ」。大人は自らの不利益になるようなことは教えない。嘘をついて秘密を守りさえする。そういうのを実践して祐くんの身体に教えてあげるわたしなのであった。誰もが君の味方ではない。「伝えてくれなければ、わからない」。そんな弱音を吐かないで、自分の眼で見てよく読む学び方を身に付けて欲しい。家族という無償の愛の壁の外には君の競争相手がわんさかいる。眼に見えること、教えてくれる言葉、見えない仕組み、それらをよく観て推理してくれ。あるいは、ゲームの外にいる誰かがドアを破ってやってきて、理不尽を正してくれるのを待つのもいいだろう。

わたしと祐くん(六歳)でやるボンバーマンは、そういう人生の縮図だった。とても楽しかった。

 

金曜日

 

 

外はスーッとするガムみたいに冷たい空気。わたしは左手を太ももとシートとの間に挟んで暖めた。右手はハンドルを握ってる。今日は金曜日で、出勤もちょっとウキウキした。

ヨダさんのお天気検定が土曜は雨と伝えてくれた。休日に家でゴロゴロする理由ができてとても良い。ゲームしようかな。それか録画してあるドラマを観ようか。明日は個人的な休日にしよう。インディビージュアルなホーリデイ。家庭教師のバイトで英語を教えてたとき、生徒に「発音のアクセントってなんですか?」と聞かれて、わたしはちょっと考えて「伸ばすんだよ」って教えた。インディビーーージュアルなホーーーリデイ。

あれ?パーソナルなホリディかな?それともプライベート?インディビジュアルは変かな。このときの「変」ってオッド?それともストレンジ? 言語は難しい。誰かに聞いて教えてもらうしか手立てがない。

教えてもらうそのときに、わたしに教えてくれる誰かが嘘をつかず、わたしを騙さず、正しく教えてくれるのを願いながら、わたしは尋ねる。「オッド?それともストレンジ?」。どっちが普通?どっちが変じゃない?

SNSソーシャルネットワーキングサービス、つまり言語。その正しさは誰かに聞くしか手立てがないということは、すなわち、個人で考えても分からないということ。オッドかストレンジか、わたし一人で考えてもそれは鏡に尋ねるようなもので、どっちが適切かはわからない。
教えてくれる誰かが、わたしを騙さない他者でありますようにと祈る。ついでにその他者が、既に他の誰かに騙されていませんように。SNS(言語)の幕の向こうにはそういう祈りが流れてる。何が普通?どっちが適切?正しい? 祈っても埒が明かないので殴り合いになったりするのだけど。

尋ねるしか手がない。「私って普通?」そういう風に。あるいは「これが普通なんだ」って押し付ける。でも普通、凡庸なのも物足りなくて、ビザー、クイア、イクストラオーディナリー……。できればわたしはファニーがいい。ファニーやまもり。

 

ファニーでいいなとわたしが思うのは滝沢カレンさんのインスタグラム。言語感覚すごい。クセがすごい。

 

 


 

 


「あの優しいママは私たちを騙していた。だから、おじさんだって私たちを騙しているかもじゃない?」

「私、おじさんと話してみるよ」

エマはそう言った。

エマが「おじさん」と呼んだあいつ。あいつは俺たちのどちらかを殺そうとしているはず。いや、「死なせようとしている」が適切だ。鬼に襲われたところでエマか俺かどちらかを助ける。そうして、「一人を助けるのが精一杯だった」。そんな野暮を言わずとも、俺たちにはそれが嘘か真実か確かめる術はない。

あいつは、俺たちと同じく農園を脱出した人間だ。ミネルヴァの暗号を読み解いて管理者との騙し合いを制している。ならば、俺の思考はなぞられていると思わなければならない。だから……、エマだけが希望だ。エマだけは死なせるわけにはいかない。

おじさん、あいつは「先輩」だ。

ハウスの外、この鬼の世界で生き延びてきた先輩だ。知識も力も技術も経験も俺たちよりも勝ってる。頼むよおじさん。どうか、驕っていてくれ。俺が「先輩」に勝てる部分は、エマとの付き合いの長さ、それだけだ。エマとの付き合いでは俺の方が「先輩」なんだ。おっさん、あんた、エマが俺たちにとって「読めない人間」だって気づいているか? エマは俺たちの思考の外にいるんだ。


「おじさん、背負わなくていいよ」

「おじさんがわたしたちの名前も覚えてくれないの、背負ってしまうからでしょ?」

 

 

わたし語

 

 

とても失礼な客が帰っていった。私はバタンと閉められた我が家の玄関に向けて石を投げてやりたくなった。あー腹が立つ。夫は丁寧に笑って奴に応対していたのでその分が余計に私を苛立たせた。夫は「ふう、やっかいだったな」と溜息をついた。

「我慢しなくてよくない?あんな奴にさ」

私は強い口調を隠さなかった。

「うん、まあ。相手の土俵に降りていきたくなかったし」
「それに、いい人ぶりたかったから」

ふうん。私しかいないんだから、いいよ別に、いい人ぶって本音を隠さなくても。そう伝えると夫は「本音が、いい人ぶりたいんだ」と言った。「みんな我慢していい人ぶってやってくれてるから、電車が時間通りに来るんだよ」と続けた。

「大人はつらいですな」

「そうそう。僕の代わりに君がそうやって怒ってくれるの、ありがたいよ」

 

 


 

 

日馬富士のニュース、わたしはお相撲ファン、悲しくなった。故障した交換。目には目を言葉には言葉をとはならずに、後輩力士の些細な言葉の侵犯が彼の激昂、暴力と交換されてしまったのは、交換が故障していて、交換が故障なく機能している。彼の身体に染みついている経済の式、交換の式を対象化できればよかったのかな。そうしたら身体が交換式に従って動く前に踏みとどまれたかもしれない。

現象を読む人たちと現象の背後の式を読む人たち……「式」といっぱい書いてしまった、わたしがよく使う式という呼び名はたとえば、物体が運動する現象の背後に書かれている F=ma みたいな式のこと。式は「発見される」対象とした方がいいのかもしれないが、わたしの理念体系ではちょっとしっくりこなくて、式は「読まれる」対象となっている。言葉は難しい。

式は眼に見えないが現象の背後に存在する。存在?この語もちょっとなあ。「式は現象の背後に書かれている」の方がいいと思うのだ。だから、それが「読まれる」と続く。

リンゴの身体には引力の式が書き込まれていて、その式に従って地面に落ちる。この見解は分かれてもいい。誰かが「リンゴは引力の式を知らないが、式に従って落ちる」そう書いてもいいが、わたしは「リンゴの身体は引力の式を知っていて、それで落ちる」と書きたいよ。リンゴみたいなわたしのためにね。

象徴界(線を引く界)は宇宙みたいで空気も水もなくてしんどくて生きていけない。そんな過酷なところで、故障した交換のメリットとデメリットを受け入れながらなんとかやりくりしていくの、我慢大会みたいにきっつーい。

故障した交換のメリットとデメリット。
些細なことで怒ったりするのと些細なことで喜んだりするのとかで家計簿つけて帳尻を合わせていくわたし、えらい!

そうやって象徴界の現実は、頑張ってやりくりした分相応に褒められないと、報酬がないと、交換がないとやってられない。「腹をすかせた私に食べられるためにリンゴは落ちたのさ」。そんな風な都合の良い読み方で現象を読み終える。わたしも、わたしに都合良く読んでいて、わたしの都合がわたし語に現れている。わたしはしんどいのは嫌だ。些細な侵犯に怒り、怒るべきところで怒らず、小さな報酬で喜び、喜ぶべき行為を見過ごす、そういう故障した交換がしんどくて嫌なので、せめてわたしの紙(象徴界)の上ではわたしはわたし語で線引きする。

式を読んであげたい。
些細なことで怒っちゃうの、仕方ないよ。わたしも式の通りに少しゆれたら落っこちちゃうもの。でも、お酒に酔って奇襲するんは卑怯だ。守るもののために闘うなら正々堂々の決闘がいい。

 

 

 

体験

 

気づくことなく知っている身体

ここにたくさんの人が行きつくのは、すごくおもしろい。 それは、既存の「知る」とか「考える」とかの共有された概念では汲み尽せないところを考えさせてくれる……なんて都合のいいもんじゃない。そんなによくない。ロマンチックではあるけど、残酷な話だ。

既存の言語を他者とする、控えめに言い直して、「それ(言語)は私ではない」と線引きを試みると、待っているのは断絶なので私は残酷と書いた。既存の言語が書けなくなり読めなくなるのはしんどい経験だと思う。既存言語という他者に「さよなら」を告げるのは(執着系の)愛の話で、今までせっせと既存線でもって構築してきた自分にさよならを告げられるかどうかの物語。私の私への愛、私たちの家や街を捨ててさよならするなんて、私だったら、話せる自分や読める自分を捨てるなんてもったいなくてできない。できるわけないよ。自ら書けなくなり読めなくなるのを望むだなんて、不可能と思う。

ええと、捕捉すると、頭で知る考えるにさよならして身体に向かうってのは、言語を他者とすること。他者とするとは、既存言語が読めなく書けなくなること。

たとえば、他の人たちは「それ(捨てる)をやるには一つのやり方しかない」と描いている。私は本当に?と疑いながら、そうかもしれないなと思う。

あれ?なんで通じる言語を捨てなきゃいけないのだっけ?

ええと、既存の言語の中でだと、その中のことしか考えられなくて、外に出られないから。外なんてあるの?という問いもあるけど、たぶんあるんじゃないかな。

戻って、「一つのやり方」のこと。

それは自分の外にある何かを守る(移る)というやり方。他人でも集団でも事物でもなんでもいいが、そういう外のものを守るのに自らを捨てなきゃいけない場合がある。そのやり方で捨てる。そういう体験はなかなかできないので物語が担ったりしてる(外のものは外のもの。それを守ることによって自分も救われるような偽の外ではない)。うーん、たとえば……ダメだ、たとえ(物語)が浮かばない……。豊臣家を守ることだけ考えてた石田三成は廻りの人たちの協力を得られなかった。石田には徳川が豊臣を滅ぼす未来の事実が見えていたかもだが、あの時点では、たくさんの人たちにとって都合のいい現実、「石田こそが豊臣の反逆者」となってしまった。石田にしてみると「おいおい、なんで事実が読めないんだよお前ら」なんだけど、他人からは「貴様こそ現実が読めてない」ってなっちゃう断絶の残酷。……とりあえずこんな感じ。

わたしなりに簡単に書くと、自己愛の外体験、かな。

話せなく書けなく、読めなくなるのは自己愛の外体験。話せる話されたい、書ける、読める読ませられる、そういう根本的な間主体性を流通させ保存し続けたいという望みの外側にそれら(外体験-身体)はある。そして、外において、線の内を観察するための単位や体系をゲットするというのが、このやり方の大筋なのだそう。既存言語で組みあがっている概念塔の隣に別の単位で組みあげる概念塔が立つと、二つの異なる体系で世界線を観察できるようになるんだってさ。

……こういう線のひき方はめんどくささがある。

既存線の背後に異なる概念線が走ってる……その概念線は読めず書かれず話されずなので、どうしても断絶してしまう。「そんなのない」と言われればそれまでなんだ。

「いいえ、「ある」わ。あなたには見えないだけ」

「あるのなら(既存線で)証明してみせろ」

「説明してみせろ」。説明も証明もあなたの線ではできないし、するべきでない。読めないものとして存在させて継承していくしかないのがこの物語のめんどうなところ。わたしにも、わたしの体験以外のところは、見えないのでよくわからない。でも、現実にそういう線がありえたとしても、なかったとしても、どちらでもかまわない。どうでもいいってことはないけども。

わたしはこういう感じで見てしまうからネットは嫌だなあと思う。話せて書けて聞けて読めると信じてる人たち。その信仰を対象化できない、自分が信じていることが見えない、そういう言葉の内側の人が「宗教を信じるなんてばからしい」なんて書いてるのを読むと、内に囚われた鏡の私が「うわーマジか」ってなる。自分が読めたり書けたりするのは信じてて、丁寧に説明されればなんでも理解できる頭脳の持ち主だって信じてるくせにって。対象が別なだけで信仰は同じだよ、私には宗教よりもたちの悪い風に見えてる。必要な性能は備わっている、分からないことはまだ伝わっていないだけだと安らかに信じてるくせに信仰を非難するの、嫌だなあって思っちゃう。そうであったらいいなとわたしも望む、わたしもわたしに必要なことは既に備わっていて、知るべきことは伝わってくると信じたい。でも実際には、どこから陸でどこから海か曖昧な渚なんだろうね。

 


 

渚、振動、回転。
「外」はそういうものとして描かれたりする。

言葉自体が広く通じてる隠語だと思えば、外の人たちが異なる隠語で話していたとしてもありでしょう。破線の隠語もあり。あんまり、気づきとか分かるとか知るとかのパキっとした線の語に囚われると、どっちが加害者でどっちが被害者か決めて、式の上で無限大の分数パワーになっちゃうからやめたほうがいい。「傷は治るが痛みは消えない」ってやつ。復讐心は線に従属して無限パワーになる。線から生まれるパワーは大切なんだけどさ。

 


 

「知らない不安」は知らない不安ではなくて、「誰かが知っているのに私だけが知らない、そういう状態の不安」ということ。みんな全員一緒に知らないのであればそれは不安になり得ない。知と不安は何の関係もなく、知らないことで不安になったりはしない。同様に不安が知によって慰められもしない。なのでわたしは、みんな全員一緒に知らないことへ向かい、それを知ろうとする望みを過去の人たちがどうやって得たのかなと想像する。だいたいは不安が解消されればそれでいい、わたしもそう。興味は「全員一緒に知らないこと」へはなかなか向かわない。望みが狂ってないと向かわないというか、現実離れしないと向かわないというか、なんだろう。暇だったのかね。

望みが「全員一緒に知らないこと」へは向かわない。言い換えれば、伝えたり伝わったりすることにしか望みが向かわない。これだと知は停滞しちゃうのだけど。それは今までだってそうだったろうし、それを個人の根性とかに還元されても困る。現実の自身の政治的な慰めや不安の解消をわたしは望む。けれども、ここまで来たら進めるところまで欲張って進んでみたい。現実も事実も両方ともなんとかしたい。慰められもしたいし読んでもみたい。ワクワクしたい。わたしがワクワクするのは、読めない伝わらない、異なる思考回路で組み上げられた事実に出会ったとき。読めないものを読もうとするとき、わたしはわたしの回路を変身させる機会に喜ぶ。だから、「伝わんなくていいや」って書いてある文章が好き。主観や身体が書いてあるのがいい。芸術家の人たち頼みます。流通するしくみと折り合いをつけながら、読めない伝わらないをそっと、わたしだけにちょうだいな。

 

 

お葬式の式

 


骨。どこの骨だろう、わからないけど、痣のように紫色がついていた。

「どうして色がついているのですか?」

火葬場の方は「お花の色がついて、こういう」と促した。わたしは他の骨に黄色がついているのを見て得心した。

 

 

 


祖父が亡くなって、長男の父が喪主をやるのは、そうなんだろうなと思っていた。葬儀屋さんとの打ち合わせで「位牌は喪主の方、遺影、骨壺、花束を持つ方を決めておいてください」と言われて、遺影を母が、骨壺は叔父が、花束はわたしが持つことになった。「骨壺は男じゃないと。重いから」。そう誰かが言ってた。

 

 

 

 

仕事中にメールが入って、祖父が危篤だと知った。わたしは定時に退勤してアパートに帰ってシャワーを浴びて服装を選んだ。車で三時間超かかるから病院につくのは十時ごろになるだろう。どうだろう、今度は亡くなるかなと思った。一週間ほど前にも「今夜は危ないかもしれない」と言っていたから、もしも今回ももちこたえたら死ぬ死ぬ詐欺だな。母が大変だから亡くなるなら早く亡くなってほしいと思っていた。着替えを用意して「今からこっち出ます」とメールを母に送って家を出た。

 

わたしが病室に着いたとき、祖父はもちこたえていた。わたしの父、母、妹、叔父がいた。横たわっている祖父は目を開いて、まばたきをしていなかった。喉と呼吸器が動いていて息をしているのが分かった。脈拍と血中酸素を表す機械からアラームが鳴っている。少し経って祖父は亡くなった。

 

お医者さんが来て脈や目を確認した。ドラマみたいだと思った。看護師さんが遺体を拭いてくれるとのこと。わたしたちは病室を出て休憩室へ行った。「置いてある荷物を片付けなくちゃね」と母が言った。父はお医者さんと葬儀屋への連絡について話していた。どうやら今から葬儀屋さんが来て、病院から家まで遺体を運んでくれるみたい。夜中なのに大変だなと思った。「布団はある?枕元にお花を用意しないと」と叔父が言った。


看護師さんに呼ばれて病室に戻ると祖父は浴衣姿になって、お化粧もされていた。「お化粧が落ちてしまったらこれで」と試供品のような化粧セットを渡された。

「ご家族でお体を拭きますか?」

看護師さんに促されてガーゼで祖父の手を拭いた。「綺麗になってよかった。男前になった」と父と叔父が話していた。わたしと母と妹で病室を片付けた。

 

 


男性が二人やってきた。葬儀屋さんみたい。
手を合わせたあと、遺体をストレッチャーに乗せて運んでいく。わたしたちは荷物を持って後に続いた。遺体は地下一階の小さな部屋に運ばれてそこでお線香をあげた。お医者さんや看護師さん、宿直の方が続いてお線香をあげて、わたしたちは「ありがとうございます」と頭を下げた。死亡診断書を持った人が霊柩車?(普通のワゴンだった)に同乗しなくちゃいけないとのこと。わたしたちは各々の車で来ていたので誰が乗るか相談した。父が同乗して、わたしが父の車で実家に行って、わたしの車はあとで妹と取りにくることにした。わたしは父の車を慎重に運転して実家へ向かった。

 

実家に帰ると祖父はすでに布団へ寝かされていて、枕元にはローテーブルがあり、香炉やお花が置かれていた。掛け布団の上に刀が置かれていた。居間で葬儀屋さんと両親が打ち合わせ。わたしはお茶を用意した。通夜、葬儀告別式のことを話し合っている。来るだいたいの人数、香典返し、通夜振る舞いの料理、精進落としの場所と料理、そういうのを父と母が決めていった。わたしはメモをとった。

「今日はもう遅いので新聞には明後日出ることになります」

明日の朝にお寺と火葬場に確認をとって日程が決まるという段取りになった。それまでにやっておかねばならないのは死亡届を書いておくこと。それと遺影の写真を選んでおくこと。生花供物のパンフレットと申込書や喪主挨拶の例文とか、そういう書類を置いて葬儀屋さんは帰った。わたしと妹は車を取りにもう一度病院へ向かった。叔父もそのタイミングで帰った。夜の一時過ぎだった。

 

 

 

朝の九時ごろ葬儀屋さんが来て、日程が決まった。玄関に忌中の看板が立った。朝、わたしが起きたときにはお供え物がしてあった。山盛りのごはんに箸がさしてある。いつやったんだろう。わたしは母と連絡する親族について話したり喪服を用意したりした。

「通夜番はお父さんと私とお姉ちゃんでいい?」

会場に布団が三組あるそうだ。「親戚がうちに泊まるだろうからXXは家にいた方がいい」。結局、父と叔父の二人で通夜番をすることになった。弔問の方に出すお菓子を買いに行ったり、親戚へ連絡をしたり、お客さんへお茶を出したりして一日が過ぎた。父と叔父はお寺に行って戒名をもらってきたそう。

 

 

通夜の日。夕方に葬儀屋さんが来て納棺を行う。
祖父に足袋をはかせたり脛あてをつけたり数珠を持たせたりを葬儀屋さんに教えてもらいながら親族で行った。六文銭(紙)の他にお小遣いを持たせる。「五円はやめて、一円や十円で」と言われた。「お札でもいいかな?」と誰かが言って、わははと笑った。

装束を終えて、お気に入りだった服などを棺に入れることにした。上着は足元へ、ズボンや靴は胸元へと逆に入れるそうだ。ベルトやバッグは金具を外して入れる(火葬の関係で)。本は分厚いのはNGだそう。写真は一人で写ってるものにしないと連れていかれちゃうよと誰かが言った。皮をむいてバナナを入れた。入れ終えたあと髪をくしで整えた。「他に入れるものがあればお花入れのときに」と葬儀屋さんが述べた。一同でゆっくりと棺に蓋をした。

「棺を出しますので男性三人の方、外にまわっていただけますか」

 

 

 

 

 

次の日に葬儀告別式、繰り上げ初七日を行った。初七日の焼香が済むと、棺が出されてお花入れを行った。紙パックのお酒も入れた。納棺と同じように、親族みんなで蓋を閉めた。父、母、叔父に続いてわたしは花束を持って出棺に続いた。

バスで火葬場に向かう。

 

火葬されている間、祭壇の水を取り替え続ける。三つ水の注がれたグラスがあって、一つは必ず残しておくこと。親族が代わる代わるにグラスをとり、近くの水場で水を捨てて、注ぎなおして祭壇に置く。そうして、眠っていたような祖父の体は骨になった。

 

 

 


ふう。たくさんの儀式、式を通った。よく知らないことばかりだった。少し疲れた。

 

骨になって炉から出てきたときにきゅんと寂しさを感じた。火葬場の方が「これが下顎です。こちらが耳のところ……」と説明してくれた(頭の骨が骨壷の中で上になるよう最後に入れる)。身体がなくなって、もう戻るところがないのだなと思った。

なんだろなあ。なんだろう。意識のこと。それは線から始まって身体に染み込んでいるものだけど、意識が世界から消えるってどんな感じなのかな。個人に分かるはずないのだけど、正確に言えば、分かるっていうのは集団のものだから、個人の「分かる」とか「気づき」だとかは馬鹿らしいのだけど、まあ、そんなことを思った。

生/死を分ける線は線の中でもラスボス級だ。生きてる人たちが死後の物語(仏教とかの)を描いてしまったのは傲慢かなと思うけれど、そういう知の奢りが線を成り立たせていて、そのおかげで死者が安らかでありますようにと傲慢にも一般に分かり、越境して、祈ることもできる。

 

 

さて、今日からお仕事。
眠い。

 

 

かわいいキュリー

 

街から隔てられ閉ざされた場所でキュリーはずっと疫病の研究を続けてきた。彼女は白いロボットだ。初めは彼女をキュリーと名付けた人間の研究者と一緒だったが、時が過ぎて彼らは亡くなった。キュリーは一人で研究を引き継ぎ、逝者を埋葬した。墓を見た私はロボットが人を埋葬するなんておかしいぞと思った。死んだら終わり、ゴミ、と断じないということは彼女は人間のような線引きをしている。キュリーは私にかわいらしい声をかけた。「私たちは血清を完成させました」。

 

私は急いでいた。街で「薬があるとすればあそこしかない」と聞いて一縷の望みを抱いてこの地下へ来た。地上では一人の子供が生死の境にいる。キュリーたちが百年以上をかけて完成させた薬は一人分しかなかった。私は彼女に一緒に来るよう頼んで、二人で地下研究所を脱出する。

 

長い長い時間と亡くなった研究者たち。それらと引き換えに血清が一つ。私は価値の交換が破たんしてると思った。この物語は最初からそうだ。ロボットが死人を埋葬するなんておかしい。そして、キュリーの百年の孤独の結晶がたった一人のガキの命と等価だろうか。あの子供や助けを乞う親たちが彼女になにかしてくれた?なにもしてない。でも私はあきらめている。キュリーは薬を渡して子供を助けるだろう。私もそう望むが悔しくてたまらない。せめて金を払えと思った。キュリーは自身が医学に奉仕するようプログラムされていると言った。苦しむ子供を見るなり彼女は見返りを求めず薬を手放した。


「キュリー、寂しかったでしょう」

「寂しい? についてはよくわかりません」

「ずっと一人だったじゃない」

「コリンズ博士が亡くなったあとはとても静かでした」


私たちは街をあとにして外を歩いた。キュリーは「長い間一人でしたが、あなたが来てくれた」と続けた。白くてかわいいロボットは初めて目にする地上の景色に声をはずませている。退屈な枯れた木や鬱陶しいモールラットも彼女の興味をくすぐっているようだ。「これは犬と呼ばれる動物ですか?」。私と会話しながらずっとデータの更新を続けている。

 

キュリーは誰にも知られることなく、百年を超えて一人で研究を続けていた。私は一行で済んでしまう物語の重さを量ろうとしたが、彼女が寂しさにするのと同じようによくわからなかった。ふうーーー。私だって苦しむ子供を助けてあげたいと思った。でも、キュリーの境遇を思うとマジふざけないでよと腹が立つ。ずっと彼女を一人にして放っておいて、街の人たちは今までなにしてたんだよ。扉を開けて階段を下りて、彼女に会いに行くくらいやってあげられなかったのか。

キュリーが私みたいじゃなくて、よかったな。私だったら、百年も放っておかれそれで「クスリありますか?助けてください」なんてやられたら、たとえあっても渡してやらない。目の前でビンを叩き割ってやりたいくらい。それが恨みの等価交換。キュリー、あなたはロボットだからわからないだろうけど、私ならそうだ。

 

 

 

田舎干し

 

雨が続いたせいで洗濯物がどっさり。月曜日に休暇をとっていたので朝から洗濯をした。物干し竿にズボンの裾を通して、シャツは袖口から肩へ肩から袖口へ物干し竿を通す干し方を「田舎干し」と呼ぼう。ハンガーやピンチを使えばたくさん干せるのだけど、できるだけ田舎干しをしたいので考えながら干した。乾きにくいパーカーやジーンズは田舎干し。すぐ乾く薄いシャツはハンガーでと計算する。できあがった干し方は小作品のようで、わたしは満足した。

 

 


 

ジャン・イポリットのフロイト解釈を読み始めた。「誰かが「私の述べることで、あなたを怒らせたくはないのですが」と言うとき、怒らせたいのだ」と文章が始まった。読んでると眠くなってなかなか先に進まない。以前に何度か読んでいるから読まなくても大丈夫なんだけど、たまに読み返したくなる。こういう話は本の中でしかしないから。現実逃避みたいなもの。大勢の前で丁寧に話し始めるイポリットを思い浮かべた。

 

 


 


読むこと、解釈することは突然にはいかないし性格も大切だ。傲慢だと学べなくて謙虚すぎてもうまくいかない。読みには性格がとても重要な役割を果たす。探求心とか、優しさや意地悪さとか、感受性と呼ばれている星座とか、柔軟さや執着心。主体性や反骨心も読みには大切だろう。人格者だから読めるわけではなくて、倫理感に縛られてると読めないことはたくさんある。悪人には悪人だから読めることがある。知識も重要だけど性格は読みの根本に関わる。想像力は性格の檻を超えないんじゃないか。なので、全部を読むには変身する性格がいる。善人にも悪役にも変身できればどっちもリアルに読める。どちらにも感情移入ができる。

 

 

普通ね


「最後に爪が綺麗だったのはいつか思い出せない」

テレビゲームの話。わたしは入植者を集めて新たな街をつくっているのだ。彼らには農作物を育ててもらっている。住人たちは土をいじりながら「毎日激務だ。一生同じさ」とぼやいている。ふふふふ。みんな愚痴っぽい。リアルだなあ。せっかく敵をやっつけて新しい街をつくってあげたのにさ。街をつくって初めは「この機会をくれてありがとう」「なにか俺たちにできることはないか」って協力的だったのに。じゃあ農業をやってねってお願いしたら「よろこんで」って言ってたのに。現金なやつらめ。でも、わたしは彼らを守る立場にあるので(わたしは民兵組織のリーダーなのだ)敵が街に攻めてきたら守る。防衛に成功するとそのときは感謝してくれる。そしてまたすぐ愚痴っぽくなる。そんなもんだよね。

困っている人たちを助ける。そういう方針を貫いている民兵のプレストンはいい奴だ。軍隊に所属してるダンスに言わせると「民兵なんかに権力をもたせるとろくなことにならない」。うーん。困っている人たちは誰かっていうと弱い人たち。プレストンたちが強くなればなるほどおかしなことになるのは目に見えているんだよね。弱い人たちが強くなる。被害者権力だっけ?そういうのを思い浮かべてげんなりする。じゃあダンスたちはどうなのっていうと管理主義。正義で力を管理するんだって言ってる。ダンスたちの忠誠心はとても美しい。彼らは信じる正義のために自らの命を投げ出すのを厭わない。利他的なんだ。ダンスもすごくいい奴なのさ。

でも、正義に忠をつくすダンスたちは美しい自分たちに酔ってるとも言える。利他的な自分たちに酔ってて地に足が着いていないとも。翻って民兵たちは草の根で、困っている人を助けるっていうのは本当にいいと思うんだけど利己的なんだよね。ビジョンのないその場しのぎ。敵が来たら追い返す。愚痴りながら農作業。また敵が来たら追い返すの繰り返し。対処療法だけで原因を探求して対策したりあるべき理想を掲げたりはできない。自分たちの今日の生活しか考えてない。

 


リアルや。守るものが異なると見える景色がちがうっていうね。面白いな。プレストンもダンスも一緒に旅をしたわたしから見たら仲間なんだけど彼ら二人だと相容れない。プレストンとわたし、ダンスとわたしは仲良くできるが、守るものの違う二人、プレストンとダンスは仲良くできない。

 

物語は人を描いてるけど、作者さんたちはどのくらい人を知っているのだろうかとよく考える。多くの人が「私のことは私しか知らない」なんて言ってたりするが、人の式を人は知っている。少なくともリアルに模写できる程度に人は人を知っていて、そうじゃなきゃ物語なんて描けるわけないのだけど、なんだろう、まだ心とか精神とか呼ばれるものは神秘的というか聖域と思っている人たちがいて、変な風になってるのだろうか。

「知る」というのがどういう行為を指すのかの定義問題でもある。わたしは描けるってことは知ってるんじゃないの?と思うが、そこに線をひいて描くと知るは違うってすることもできるだろう。もしも「知る」が流通することだったら他人は私を知らないと言うこともできる。わたしは知ると伝えるは異なる理念だと思っているので、知ってても伝わらず伝わってても知らずというのも普通だと思う。なにかを、他人に伝えられる形に翻訳はできないが、知っている。そういうのもありだろう。

幼いころから通じる訓練、伝える訓練を受けてきたわたしたちは伝達以外のビジョンを持ちにくいとも言えるか。

さっきid:letofo さんの文章を読んだら「なんにしても一般を知りたがる」と書いてあって、そう、なにが普通なんだろってまた思った。わたしが絶対に食べられないものをおいしいと食べる人たちもいる。わたしは倒錯を知るや伝えるや守るにも拡張しているから、息子の手紙を待っている老いた母親と手紙を書かない息子を思い浮かべる。息子は手紙を書く暇がないくらい忙しいこともあるだろうし、もっと残酷に想像すれば、息子は手紙を書くのが大嫌いってのもありえる。手紙を書くとじんましんが出るとか。欲望が違うとどうにもならん。田舎の母は届かない手紙を待ち続ける。

むかしイギリスの作家が記者たちの前で「あなたたちが賢い犬だとするなら私は一匹のきりんです。私にはあなたたちの話している言葉が理解できない」と言ったそう。欲望が違うと言葉も通じなくなる。少なからず「伝わんなくていいや」という倒錯した欲望の人たちがいて、そういう人たちの欲望を追跡するのは面白くて、思いもよらぬものを追い求めてたりする。違ったビジョンを持ってる。

日々の生活を守るプレストン、正義を求めるダンス。そんな異なる二つの欲望の間でわたしは困っている。どっちの味方をするべきか。伝えたい人たちと伝わんなくていい人たちの間でも困る。手紙を待つ母も困っている。手紙をだしてくれと息子に求めるか交渉するか。情に訴えるのが定石だが息子に情がなかったらどうしよう。

なにが普通なんだろう。わたしはわたしを一般的だと、普通だと思っているが、わかんないことを追跡し続けたせいでわたし自身がわけのわからんものになってる可能性もある。ミイラ取りがミイラになるみたいな。

 

 

 


 

 

歯医者さん

 


「痛かったら手をあげてくださいね」

歯医者さんがそう言ってくれた。しかし我慢強い私は痛みに耐えていた。のど飴を舐めすぎてしまってのがいけなかったんだと思う。冷たい水が奥歯でしみるようになった。治療に少しくらいの痛みはつきもの。そのうちもっと医療が進歩して痛みなく治療できるようになるかもしれないが、そうしたらみんな歯磨きするのだろうか。いや、するだろ。でもあれ。歯の治療が痛くなくなるを通り越して気持ち良くなったらどうだろう。痛い!今、痛かった。でも痛みは一瞬で通り過ぎて行った。こういうときは手をあげた方がいいのか。わかんない。わからないからやめておこう。

もしや私みたいに我慢してる奴がいるから歯の治療は進歩しないのだろうか。もっとカジュアルに痛がった方がいいか。でも負い目がある。ちゃんと歯磨きしておけばよかった。でも風邪をひいてのどが痛くてどうしようもなかったんだよ。

それも体調管理できなかった自分のせいか。自己責任がグルグルしている。歯医者さんは虫歯を治すという結果だけを請け負っているのか。治れば、結果として治りさえすればプロセスはどうでもいいのか。そんなはずない。できるだけ痛みなく治療しなくちゃ患者さんは別の歯医者に行く。そこは業務努力というか営利活動の掟というか。私がここで痛いのを我慢したあと「あそこの歯医者すっごい痛いんだ」って口コミで広げたら困るだろう。いたい!ああ、でも最初に手をあげてって言われたんだ。だから手をあげればいい。でもタイミングがわかんないんだよなあ。そのへんさあ、お医者さん側で「これやったら痛すぎるなヤバいな」って分かってるでしょう。分かってなきゃおかしいよプロなんだから。

いやだからもっとカジュアルに痛がっていいんだってば。でも過ぎるんだ。ちょっと我慢したら大丈夫なの。ずっと痛いわけじゃないの。なにこれ。もしかしてこれを狙ってちょいちょい痛くしてるの? ちょっと痛くして少し間をおいて、そんでまた痛くしてって、意図して手をあげるタイミングをわからなくしてるの?もしそうならなんて悪どいんだ。ひだおい!ひどい!最初から手をあげさせる気なんてないんだ!

 

 

目玉がすぽっと

 

トンボを見た。トンボを見るのはいいね。見てても何を考えてるかわかんなくてこっちも答えが落っこちる。童心に戻れたかな。子供はトンボを読むように本も読めるけど大人になるとそれはなかなかできなくなる。どっぷりと間主観性沼に嵌ってるので読む前に自分でトンボの答えを用意しちゃう。見るまでもないというやつだ。

わたしもよく「見るまでも、読むまでもないな」と油断してる。わたしのトリセツという歌があった。トリセツ、性格、仕様が変わらないなら油断できる。

変わらない性格、性格の檻についてよく考える。一つの身体に一つの性格とだいたい決まってるのはなんで? たくさんの性格でいろんな体験ができたら面白いだろうと思うけど、それじゃ脳がパンクしちゃうのかな。性格の檻について考えるとわたしは映画の魔女の宅急便を思い出す。キキはいろいろあって性格の檻に閉じ込められてしまうが、お姉さんの絵を見て「あなたの眼に世界はこんな風に映っているんだ」となって檻から脱出する。絵を見る体験は目玉の交換魔法みたいなもので、キキの目玉が落っこちて代わりにお姉さんの目玉が空洞だった眼窩にすぽっと嵌る。わたしはこういうのを「出会い」と名付けている。わたしのイメージ「出会い」はその辺の体験全体。いっかい真っ暗になるのも含まれる。

もしもキキがわたしみたいに「見るまでも、読むまでもない」と油断していたら、眼球移植魔法は失敗してただろう。出会わなかったと思う。大人になると出会わなくなる。それは口の中の眼という風に描かれたりする。眼がグルメになり好き嫌いがはっきりして目の食欲が増す。トンボの複眼がわたしに嵌ったら何が美味しそうに見えるかな。

 

世界の見え方が人によって異なる、その異なり具合によってはとても怖いはず。キキとお姉さんはたまたまハッピーだったが、それこそ「隣人は人造人間かもしれない」というSFみたいなこともある。なので文章を読んだり絵を見たりして恐くなるときがあっていいのだけど、わたしはあんまりない。「ひょえー!」と驚いたりはするが。トンボもよくよく見ると恐いんだけど、どこか他人事で鈍感なのもあって恐くなったりはしない。ネイバーとボーダーが面白いのはそこ。グッドネイバーと思って油断していたが、実は隣人の正体は私たちの理解線を越えるものだった。そんな感じ。わたしの目玉を引っこ抜いてくれ。たのむぜ隣人たち。わたしをお姉さんの絵に出会うキキにしてちょうだいな。そんな他人ごと、鈍感な目玉すぽっと。

 


id:sotononaka さんにブックマークコメントをいただいちゃった。ありがとうございます。わたしも sotononaka さんの文章ふむふむと読ませてもらってます。わたしも物語を描きたい、描けたらいいなと思っているからね。羨ましいなと思って読んでます。ジャーンとギターみたいな、そういう文章の音についてわたしは本当に疎くて、音や匂いがある文章はいいなって羨ましくなる。言葉に意味がまとわりつくと面倒くさくてうるさいし重たい。それはわたしのうるささ、面倒くささで、そういうやっかいごとも好きなんだけどさすがにやっかいごとばかりだと疲れる。意味は点滴みたいなもんかな。いくら栄養不足でも点滴だけではちょっとね。わたしはたまに文章の中から意味を取り払って読んでみたりする。そのあとに文字の色だとか音、温度、食感みたいな、印象が残る文章じゃないと。あとなんだろう、繋がりとか継ぎ目とかかな。そういうのが残んないとやってらんないって思う。ポッキーはチョコレートと小麦粉とバターじゃなくてそれらがアレンジされたポッキーだよ。? とにかく文字は筆にもなるし槍にもなるが槍として使いがちなので筆にするのはけったいなことだ。筆にするなら色とか食感も大切な要素になる。槍じゃなくて剣かな。切り分けるという意味で。

 

 

 

箱女


犬が飼い主に向けて表情をつくる。自分の表情で飼い主をコントロールしようとする。そんな記事を読んだ。ていうことは犬も「見られている」を見ている。犬も見られてるを見てる鏡の世界の住人だとするとどうなるのだっけ。この鏡のせいでうまく見れていない可能性に思いをはせられるのが人との違いだね。同じ鏡でも人の方が硬い。

 

昨夜は選挙のテレビを見ていた。
池上彰さんの顔が意地悪に見えて、見ていられなくなってチャンネルを変えた。子供のころは選挙番組なんてつまらなくてどうしようもなかったが、大人になってから面白くなった。たぶん下品になったのだと思う。政治家の苦しそうな顔や言い訳が面白い。わたしは安倍公房の箱男を思い出した。たしかあれは、言い訳ばかりの話だった。よく見れば見るほど視線が熱く反射されて自分を焼く。書かれた文字が自分を逃げ出させないように見張っているのだ。誰かの顔が意地悪に見えるには自分も意地悪になれないといけない。池上彰さんのあの顔も視線がなくてただの面、突き刺さる線ではなくて顔面だったら、わたしはそれを景色のように見続けることができる。

 

 

 


 

 

Vault75シェルターには子供たちが集められて様々な教育、試験が行われていた。監察官はプログラムに沿って子供たちを管理している。十八歳を迎えると彼らは皆「卒業」する。試験の中には子供たちには開示されない項目があり、それをクリアした少数が監察官を継いでシェルターに残る。簡単に言えば、口が堅く機密を守れる者が監察官を継ぐ。高い論理性を持つ者によってVaultの断絶は継承されている。

ニナは残らない。彼女は卒業する。それは喜ばしいことだと誰もが思っている。僕もそうだが、ただ別れが辛かった。

彼女も監察官スタッフとしてここに残れないのかとリズに質問したが、彼女の情動は閾値を越えているため叶わないと言われた。リズはそのときに懸念を示して僕に念押しした。スタッフとして残るからには誰もを平等に扱わなければいけない。誰も特別扱いはされないと。申請すれば僕も卒業することができる。

しかし、それを選択する気はもう僕にはない。


僕に開示された情報はごく一部のものだと分かった。最も年齢の近いリズと共に処分業務を行ったとき卒業について、扉の向こうについて聞いたが彼女は「第4世代以前のスタッフたちに共有されている」と答えた。その言葉が真実なら彼女も知らないのだ。

 

「劣っているものを処分しなければVaultは維持できない」
「それを理解できる私たちがここに残るの」

 

健康スコアと協調性、社会性スコアの低い乳児を僕たちは処分した。ニナがスタッフとしてここに残れないのがよく分かった。彼女にはできない業務だしさせたくない。彼女たち卒業生は扉の向こうで各々の特性に応じた業務に従事することになる。ここには帰ってこない。

僕は自身の無知を理解することができた。僕もリズも卒業後の実状についてはよく知らない。僕は監察官になって初めて、乳児の殺処分が行われてきたのを知った。ニナが知れば、軽蔑するだろう。僕は彼女たちには明かせない側になり、僕は共に卒業することができなくなった。あの扉の向こうを僕は見ることなく生涯を終える。見るときが来るかもしれないが、それは監察官としてだ。ニナたちが見る光景とは違って見えるのだろう。

 

論理スコアによってスタッフが選ばれる理由が分かった。Vaultを守り、継続するためだ。

乳児の選別処分はVaultの維持に必要だが、とてもとても気分の悪い仕事だ。誰かがやらなければいけないが誰もやりたくはない。殺処分をやめていたら、あるいはこのことを子供たちに明かしたなら暴動でも起こって、このシェルターは存続していないだろう。僕も生まれなかったはずだ。Vaultは僕たちに、子供たちに処分の事実を隠し続けてきた。リズも他の監察官たちもずっと隠し続け、世代を超えて続けてきた。

そうしてvaultを存続させてきたおかげで僕は生きている。ニナに話をしたい。監察官が僕たちに隠してきた事実を。そして君たちが卒業のあと、おそらく扉の向こうでも何かが隠され行われるのだ。

しかし、限られた資源で、Vaultシェルターで生きていくのに他にどんな方法があるのか。ああ、おそらくこのシェルターではもっと恐ろしい事実が隠されているに違いない。いや、その可能性がある。Vaultを守るために必要と論理的に理解されて、乳児の殺処分とその隠ぺいが、継承されてきたことを僕は知った。だからニナ、それをしてまでシェルターが続かなければいけないのかどうかを君と話したい。

おそらく、いいや絶対に、歴代の監察官たちは僕と同じように葛藤したのだ。

 

いらぬ妄想かもしれない。卒業のあと君たちは幸福に過ごすのかもしれない。全員でないかもしれないが一部の人たちだけでも。誰かが殺されているなどとは知らずに過ごす幸福の可能性を、僕は守る側になった。

過去の人たちが守り紡いできたものを僕の手で壊してしまっていいのか。わからないんだニナ。もう君と話すこともできない。リズに監視されているから。とても、とても僕たちの仕事は酷い。

リズは「私もそうだった、時間が解決してくれる」と言っていた。そう、次の隠ぺいが明かされるころには、僕は「またか」と思うのだ。ニナ、監察官たちは本当に残酷なことをやっている。Vaultはそこまでして守らなきゃいけいないのかと思う。君を攫って逃げてしまいたいが、楽しげにしている君の顔を見て思い留まる。リズが寄り添ってくれている。僕も未来の新人監察官にはそうしてやるのだろう。

 

 


 

 

 

 

物語に「語り継ぐ」という視点を導入すると、言葉にできないものについて思いを馳せられる。話せないこと、隠さなきゃいけなくなったもの。話せない側は大変だろうなと思う。話せないってのは苦しい。大きなものを守るために本当のことを話せないってのは大河ドラマでもやってた。高橋一生さんと柴咲コウさんは家を守るために本当のことを話せずお別れすることになった。何かを守るために正直に話せないことだってあるだろう。情報や知識にできないこともある。論理の人ほど口が堅く秘密を守る。論理の人は線の人。

政治家の人たち、話せないことや秘密にしなきゃいけないこととかたくさんあるのかなと思う。大変だろうけど頑張ってくれ。口が軽くて秘密を守れない人には秘密はやってこない。そうでないと秘密なんかなくなるわけだが、実情はどうなのだろう。わたしにはわからない。情報や知識は簡単に通じて秘密にはならない。考え方の「かた」は、たぶん、明かされていてもなかなか伝わらないので秘密に化けるのがあると思う。考え方の「かた」は身体的なものだ。逆上がりするには逆上がりをやってみなくちゃいけない。「行為」というキーワードがこういう風に出てくる。やってみなくちゃわからないというやつだ。情報や知識と違って、身体的なものはやってみなくちゃ伝わらない。

物語には行為がつきもので、そのおかげで情報みたいに陳腐化しないのだろう。きっと、たぶん。

 

 


 

 

 

監察官たちが自らの行いについて明かすことはない。ニナ、隠されてきたものは隠され続けるんだ。僕はこちら側に来てようやく分かった。僕たちが今まで知らないことすら知らなかったのを。僕は君に伝えられない。監察官と子供たちの間には断絶があるんだ。僕はこの断絶を越えられない。越えられない者、勇気のない人間が監察官に選ばれるんだ。リズが慰めてくれる。

 

「知らなかったのだもの仕方がないわ。そして私たちは今も知らない。Vault75の全貌を把握している人なんて監察官の中にも誰もいないかも」
「だからせめて子供たちにはひとときでもいいから幸せな時間を」

 

まさか、ニナが扉の向こうで処分されるなんてことは。

 

「わからない」
「あと数年たてば、その情報を得る立場になるかもしれない」
「ワシントン、それ以上はいけない。君を報告案件にはしたくない」

分かっています。ありがとう、リズ監察官。

 

80-18-2

 

いきなりステーキ、徐々にひややっこ。じっくりビシソワーズ。お待たせしておりますイカそうめん。意外と、行列のできる法律相談所かな。

 


 

「生涯あなたを愛し続ける」
言葉だけならいいけど、本当にそれをやられたら暑苦しい。たまにでいい。たまにイラッとしたり嫌いになってもよくて、そのあとまた好きになれたら最高だ。80日が普通で、18日は好きで、2日は嫌いくらいが「愛し続ける」の良い割合。

「愛し続ける」を字義通りにまじめに読んじゃいかん。まじめに読むと言葉が嘘になる。たまに嫌いになったからって「愛し続けるって言ったのに嘘吐き!」なんて言わないよ。言葉は身体で読むもの。頭でまじめに読むのは論文の類だけにしなさい。

80-18-2の身体で読む文章と、頭でまじめに読む文章の間に境界線をひいて区別しよう。わたしたちは言葉の専門家ではなくて、どちらかといえば身体で読む専門家なのだから。

 

 その区分けをせず、わたしはごちゃ混ぜにしている。論文として読むべきもの、物語として、詩歌として、手紙として読むべきもの、それらを交わらせてる。

わたしは家では、論文に物語性を読んだり、物語を論文みたいにまじめに読んだりして楽しんでる。目に見える境界があるので、境界とは本のカバーとか、小説は小説、漫画は漫画というジャンル分けのことだけど、そういう境界は目に見えるのでわたしは安心してごちゃ混ぜにしている。

逆に、ネットの文章には見える境界がないので気をつけよう。頭でまじめに読むと「嘘つき!」と言いたくなったりするが、そういうときは「この文章は論文じゃないのにまじめに読んじまったよ」と反省してる。ネットはボーダーレスなので混ぜないように気をつけて、リアルはボーダーを気にせず読みを混ぜる。この作戦だね。

インターネットでは、ただの愚痴や雑談の文章へボーダーレスに、論説のごとき批判が降りかかったりしてる。パロールエクリチュールの差異について考えていた先人たちを思い出して「それらが混ざるとこんな風になるのか」なんて思ったり。


「愛し続けるって言った」

「そんなつもりじゃなかった」

「嘘つき」

 

混ぜちゃダメだけど混ざるとおもしろい。混ざると劇になる。「ああロミオ。あなたはどうしてロミオなの」みたいな二人を隔てる境界を越えようとする劇にとりあえず整う。

 

雑談と論説の間の壁を壊す。

 

「ああエクリ。私をまじめに読まないで」。「パロールよ。君にそのつもりがなくても書かれたのなら俺と同じだ」。「私はあなたのように強くない」。「それでも書かれたのなら同じなんだ。君だけを特別扱いするわけにはいかない」。「なんて頭の固いこと!まじめすぎるわ。それではあなたも息苦しいでしょう」。

「俺には君の寛容が、君には俺の高潔さが欠けている」


間違えた。パロールちゃんは寛容ってわけじゃないな。奔放で無責任、一度きりで反復しないライブ。瞬間、息継ぎ。大あくび。ごはん食べたら眠くなった。明日はお休みだから寝坊できるだけ寝坊しよう。

 

 

握手をされた

 

歩いていたら衆院選の候補者の方が駆け寄ってきて握手をされた。わたしは咄嗟に「がんばってください」と小さく声をかけた。雨の中で幾人かのスタッフたちが派手なジャンパーを着て元気、やる気をアピールしている。もらったビラから「安倍政権ストップ」の大きな見出しが眼に入った。もうちょっとゆるくやればいいのにと思った。菊池寛の小説を引用して「リーダーはくじ引きで選べばよい」と書いてあった本のことをわたしは思い出した。あの灰色の本はどこにしまったっけ。


どっしーんと、おもしろいことに疲れるときがある。それでつまらないのが恋しくなる。どっちも長く続くと飽きる。わたしは終わるのが好き。卒業式とか映画を見終るときとか。誰かとのお付き合いが終わるときとか、会社から帰るときとか。面白いやつもエンディングを迎えてくれないとめげる。漫画も単行本が四十冊とか五十冊とか聞くと「ええーっ」と引く。

終わりがあると安心する。それに、「ああー終わったー」という感覚はいいものだと思う。もうちょっと続けたかったとしても。

楽しさも悲しさも終わってナンボだと思ってるわたしは、どっぷりと楽しんだり悲しんだりしたあとに飽きが流れ出すのを待っていたりする。昔の恋愛で、いつも楽しくしてないと気が済まない男の子がいて、わたしがつまらなそうにしていると機嫌を悪くした。そういうのを可愛いと思わなかったので気を使っていた。つまらなくなったり飽きたりするのを許してくれたらと思っていた。

 

探偵ニック

 

ニックは廃棄場で目が覚めたそう。彼はあいつらに不用品として捨てられたのだ。それから紆余曲折あって人造人間ニックはシティで暮らしている。私には彼が人間よりも人間らしく見える。もしかしたら、見た目が人間そっくりではない古い人造人間だからこそ、人のフリをしているのがコミカルに見えて、それが私に「人間よりも人間らしい」と思わせているのかもしれない。モーター音を鳴らしながら黄色く光る眼をキョロキョロさせているニックの姿は可愛らしい。だから、マーナがあんなことを言ったとき、私は少し腹が立った。

 

「悪いけど人造人間にうちの商品は売れない」

 

「かまわないさマーナ。今日は俺の連れが君の品を楽しみたいそうだ」

 

シティでよろず屋を経営しているマーナは、噂によると住民のほとんどを、隣家のマルトゥーロさえも人造人間じゃないかと疑ってるみたい。彼女のメモには「マルトゥーロは優しすぎる。怪しい。彼は人造人間かもしれない」と書いてあるらしい。笑っちゃう。

 

「ニックはマーナのことどう思ってるの?」

私はヌードルをすすっている彼に聞いてみた。

 

「ん?ああ、絹のように優しい女性さ」

 

「彼女はあなたを邪険にしてたじゃない」

 

「昔ここで起きた人造人間の事件は君も知っているだろう」

 

ある日、一人の男性が街にやってきて酒場で大勢の住人を殺害した。セキュリティがそいつを撃ち殺したら皮膚の下は機械だった。それで最新型の人造人間のことが明るみになった。

 

「見分けがつかないんだ。俺と違って最新のやつはね。さっきまで笑っていた気のいい男が突然廻りの人間を顔色ひとつ変えず殺し始めた。誰かがそいつに「ウォッカはどうだい」と勧めたあとにね。きっとその人造人間はウォッカが嫌いだったのだろう。マーナはあの事件を覚えているのさ」


「誰だって事件のことは知っているわ」

 

「そうかもしれないが……。分けられず白黒つけられないのだから疑うのは正しい。そして正しくあるのは骨の折れる仕事だ。マーナに骨を折らせているのは、彼女を騙しているのは人造人間だ。彼女が人造人間を嫌うのは正義だ。正しくあろうとするマーナに俺は敬意を払っているよ」

 

ニックはシティで探偵事務所の看板をだしている。機械探偵ニックは街の人たちが自らの手では解決できないトラブルを請け負って生計を立てている。失踪人の捜索とか、危険を伴う探し物とか。トラブルなんか起きなければそれに越したことはないのだけど、ニックにとってはご飯のタネ。私はなんだかなあと思った。たとえば、ニックの手におえないニック自身のトラブルは誰が解決してくれるのだろう。

 


 

「俺は人造人間なんだよ。ほんの少しの赤血球をのぞく、あらゆる部分が造りものなんだ」

 

あらゆる部分が造りもの。機械探偵のニックはかっこいい。
くやしい!ストーリーがおもしろくてくやしい。いやあ、フォールアウト4の物語やキャラがわたしの概念回路をつんつん突く。まあ、あたりまえなんだけどさ。よく「物語やキャラの元ネタはこれこれ」なんて言われるけど、ずっと元ネタを遡って、元ネタの元ネタの……と行けば人と社会そのものだよ。元ネタが人じゃない造りもの(概念、フィクション)なんかないんじゃ。

「元ネタ知ってる?」は「人間知ってる?」に置き換えちゃえばいいのさ。そんで「知らないけど調査中」って応える。

 

マーナの調査は悲しい。わたしは幼稚園のころ夜に家族でテレビを見ていた。番組にイカやタコが出てきて「タコには骨がありません」とナレーションが流れた。
そのあと、おやすみなさいと一人で寝室にいき眠ったのだけど、わたしはのっそり起き上がって居間に行って晩酌してた両親に聞いた。「わたしに骨はあるの?」。
寝ぼけてたんだけどはっきり覚えてる。自分に骨があるかどうか不安になって聞いた。だって自分の骨を見たことないから、もしかしたらわたしはタコかもしれないって思ってさ。骨があるかどうか確認するには自分の腕を切って見てみるしかないけど、できないから、知ってそうな人に聞くしかなかったよ。

マーナも隣人たちを切って中身が機械かどうか見てみるしかないだろう。それができなくて疑い続けるはめになる。知りたいってのは残酷だ。「あなたは人造人間?」って聞いたって真実が返ってくるかどうかわからないんだから。

 

フィクションが「フィクションですよ」って自らを明らかにしてるのは限りなく優しい。破れた人工皮膚から金属や配線がのぞいていて、一目で「おまえは造りものだ」って分かるニックみたい。フィクションはそれ以上嘘のつきようがなく読者を騙しようがない。創りものの嘘はわたしを騙さない。フィクションはわたしを「騙す価値のない人」にしてくれる。

マーナみたいに「誰かが私を騙してるかも」って疑いつつ「私は誰かにとって騙さなければならない(騙す価値のある、騙しがいのある)人間だ。なぜなら……」って思うのはつらくて悲しい。そして悦楽でもある。

 

フィクションは嘘を隠さない嘘だから、正直だよね。
物語は自ら造りものであることを隠さないので、わたしは一番信用できると思うのだ。なんというか、よかったなとホッとする。オレオレ詐欺に騙されないように信じることを気をつけなきゃいけないからさ、フィクションはオアシスみたいなものよ。「ニックは偽物のニックでニックは自分をニックじゃないって知ってる」。文章にするとわけわかんないけど物語にはちゃんとそういうのが描かれてる。

はあああーため息でちゃうぜ。