やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

髪を切ってすれちがう

 

行きつけの美容室に行くと「山森ちゃんの髪質は絶対長くしといた方がいい」と言われて、短くしたいと伝えても「じゃあこの辺にしとこう」「もう一声!」「うーん、じゃあここまで!」みたいな値切り交渉の末にあまり短くならなかった。


近所に新しい美容室がオープンしたので行ってみた。結果、ばっさりといった。そこではタブレットを渡してくれて、髪を切る間それで雑誌がたくさん読めるのもよかった。そして、ばっさり切って軽くなったわたしの髪はバッサバサだ。ボブじゃなくてぼふっになった。

同質化、書かれた文字の清潔さ

 

タイプされた文章は同じかたちをしていて同じに見える。手書き文字を眼にする機会や読みづらい文章を読む機会は少ない。「同質化するエクリチュール」。わたしなんかはうわごとみたいにそうつぶやいておかないと同じに見える文字にやられてしまう。感受性が鈍いから。同じフォント同じ語法、既知の単語を同じような装丁で読まされて、「この文章を書いたのは違う人間だ」なんて思えない。思えないのはエクリチュールの機能として当然だと思っている。だって同じ文章じゃん。読めるように書かれた同じ文章でしょ。わたしが「同質化するエクリチュール」とつぶやくのと同じように、他の人も呪文のように繰り返し唱えている。「私とあなたは別人よ」「僕と君は違う」。

 

何もかもが同じ(違いといえばほんのちょびっとの文体くらい)文章を読んで、「著者は私とは違う人間」と感じるには、深く読み込まないといけないしセンシティブでなくちゃダメ。何もかもが同じ文章の中に違いを見つけるには、かなーり豊かな感受性が要求される。わたしなんかはブログを読んでてパパッと「ああ、この感じは同じ人たちの文章だな」と見切っちゃう。そのくらい鈍感で、文章も人も同じだと思ってしまう。

 

きついよね。ブログがきっついなーと思うのは「どう読もうと勝手でかまわんよ」と「おまえに何が分かるんだ!」の綱引きのところ。「おまえに何が分かるんだ!」の方は、わたしには鈍感な人たちにどんどんセンシティブさを要求し続けてるように見える。もっと気を使え!って感じ。この「気」は無限で無償で誰かに要求できるものなのだろうか。そんなの要求してたら自分も相手もヘトヘトになっちゃう。


正確に書くと、エクリチュールの感受性は違いを見つけられない。同じしか見つけられないので「私とあなたは違う人間だ」となるには別種の感受性が必要になる。書かれた文字の同質化作用に抗いながら……だいだいさあ、エクリチュールは人をみんな同じにする合言葉なんだから、誰かとは違う別人として文章を書くというのは矛盾した必敗の二正面作戦じゃん。それをやるなら、割り切りとか諦めとか、どうにもならなさと付き合っていくことになる。

 

 

なんだか大変そうだなあ、しり込みしちゃう。じゃあどうすればいいのさ。難しいってことしか分かんなかったよ。

 

うん。整理された頭の中の部屋みたいなものよ。綺麗好きなのさ。



頭の良さ

 

頭が良いというのは色んなかたちがある。
亀の甲羅に入ったひびで未来を占えるのが最高の知性だった時代もあるので、私たちが頭が良いと呼んでいるありさまも百年後どうなっているかはわからない。わたしは自転車をよく読んで走らせている身体を「頭がいいなあ」なんて思うので、この時点で会話には入れないかもしれない。


学生時代の友人のSちゃんには歳の離れた弟がいて、彼が母の日にお母さんへ手紙を送った。手紙には「これからもありがとう」と書かれていて、Sちゃんは「ずうずうしいよねウチの弟、普通は「いつもありがとう」でしょ」と嬉しそうにわたしに話してくれた。わたしはSちゃんも弟くんも頭がいいなと思った。


普通じゃなかった弟くんと嬉しそうにしていたSちゃんみたいな頭の良さ。

 

専門家に教わらず歩けるようになる赤ちゃんや、縄跳びという高度な情報処理をやってのける子供たちの身体。なぜか生まれたときから泳げる魚も頭が良いんじゃないか。この辺は頭が良いと呼ぶよりも身体が良いと呼んだ方がいいのかもしれないけど、その区分けにあまり意味がないと思う。スポーツ選手はトライアンドエラーを繰り返して自身に最適なフォームを身に付ける。それは確かに知性の作業なので、頭が良いと呼ぶにふさわしい。ボールを速く正確に投げる知性や守備の裏をかくフェイントの知性。

 

歩く脚が知っている歩き方がある。

 

坂も凸凹も階段も歩けてしまう脚は信じられないくらいに頭が良い。制御系に落し込もうとしたら優秀なエンジニアたちが途方に暮れるほど。頭の良さには「これからも」を掴みとってくる弟くんのような、未知や既知を知らない勇敢さ(坂も凸凹もモノともしない鈍感さ)がある。

 

ポリグロット、言葉はみんな天国

 

名付けることで今までなかったものや、ないもの、そういうのが良く現せば創造される、悪く言えばでっちあげられるのが言葉の恐さであり、素晴らしいとされる機能。或る情感が「萌え」と名付けられて創造された以降にわたしはいるので、それが失われていた以前を想像するのは難しい。


死後の天国や地獄はないとわたしは思うが、それが名付けられてでっちあげられているから、わたしは「ない」と言える。それらの概念があって流通している事実についてまで「ない」とは言えないし、その概念があるから「ない」と言える。だから、本当は「ないが、ある」と書くのが正確だろう。ゼロが存在するみたいなもんかな。


虹は五色なのか七色なのか。わたしは自分の文章の中で、ほとんど「現す」と書いていて「表す」は使っていないと思う。それで、ないものをでっちあげる言葉の機能にちょっぴり抗っているつもり。現すけど表してはない。

 

通じれば事は足りる。「天国はない」と言えばいいところで、「天国の名が指し示す概念が存在するのを認めたとして、その概念が現実界に存在しないと言明する」なんて言ったらウザったい。そんなのは余計なまわり道だけど、わたしにとっては最短の道。

 

 

「天国なんてないよ」と応えたあと、僕はひっかかった。彼女はなにか別の応えを期待したような気がして、ばつの悪さ、僕の場違い感がひどかった。

 

 


言語は本当だ。通じて伝え伝わる中で本当なのだけど、虹が七色というのは言葉の嘘。だいたいその意味で言葉は嘘。でも本当なのだ。電話は電話でシチューはシチュー。設計図やレシピが材料を知っていればいい誰かがそれを作ればいい。


言葉はみんな天国。天国みたいに本当で、嘘。どっちにしろ描くことができる。本当と嘘の四則演算式でできあがる文章はおもしろい。フィクションが本当を描いたり、会話が嘘を描いたり、嘘が身体の本当を描いたり、本当が嘘になって伝わったり。そういうのがわたしの興味の対象で、本当/嘘 を分ける線も好きだけど、式はもっと好きだ。答えが変わっても式は変わらないのがいい。たくさんの答えがあって、それを導く式がある。


この式も天国みたいなもので、ある、けど、ない。

可算式も減算式もどこにも見当たらないが、ある。E=mc^2もどこにも見当たらないが、ある。「萌え」みたいなもん。わたしに語りかけてくるのは、言葉もだが、もっぱら式が語りかけてくる。式を構造と呼び換えてもいいのかもしらないが、うーん、やっぱり構造よりも式だなと思う。

 5は(語は)2+3や9-4だったりするけどプラスやマイナスは変わらない。式を読むのは、そっちの方が楽だからという理由もある。


わたしは処世術として式を読む。
式を読まないといけなかったし、それを読むよう追い込まれた。言葉から逃げてきたとも現わせる。言葉の流通はわたしにとって辛いんだ。誤用されてしまう「確信犯」のようなもので、「その言葉が示す意味を誤解してるよ」なんていちいち指摘するのはイヤだ。面倒くさいから。「知る」という言葉が何を指すのか知らないまま使っていたり、「考える」という概念を狭めて使っていたり。「分からない」は、わたしから見ると「分からないと、分かる」で、少し不幸で少し幸せな行為なのだけど、そんなのを全部気にして指摘してたらわたしの身がもたん。だから、言葉は間違っていても式があってればそれでいいって思う身体が必要だった。わたしは、本当と嘘の間に線をひく身体とは別にもう一つの身体を用意した。


誤用の「確信犯」でも、伝わったり伝えたりできればそれでオッケーさ。

 

事は足りている。

二つの身体に裂かれた痛みに対抗する呪文みたいなもの。事は足りている。虹が五色でも足りていたし七色でも足りている。七の数を超える波長の様々が七色では足りないのだけど、虹を伝えるのには虹という言葉一つで事足りる。足りなくなるのはそれを絵にするときで、そのときは絵の具を混ぜて色をつくればいい。

 

 言葉は天国だ(概念だ)。

愛と一口にしても七色以上はあると思う。藍色だけを取り上げてこれが愛ですとやるのは天国を信じるみたいに簡単だ。でもその簡単さが素晴らしい。メールアドレスがなかったらメールは届かないから。名付ければそこへ届かせるのもできる。天国をテーマに絵や文章を描くこともできるようになる。

 

虹は七色と決まっていてそれで通じるが、何かがもの足りない。わたしの欲は足りるに留まらなくて七色の間に色を足したいと思ってしまう。七つの区分けが邪魔だと感じる。これは恨みで、七色しかない恨みや、七色だと教えた誰かへの恨みや、それを信じていたわたしへの恨み。嘘つき言語への恨み。

 

嘘つき!

 

いや、僕は与えられた役をこなしている。君は過大な期待をしたんじゃないか?僕は君の望みを叶えるために生きてるんじゃない。僕は誰のものでもない。

 

くやしかった。もっと早くこいつの化けの皮をはがせていればよかった。誰にでもいい顔をする八方美人で顔色一つ変えずに嘘をつく。はっきり言って嫌な奴で、一旦は別れた。でもやっぱり一緒に過ごすことにしたんだ。よりを戻して分かったのは、私好みのパートナーにしてしまえばいいということ。私の趣味を押し付けても文句を言わず着てくれるのがこいつの少ない長所。その代わりに私のパートナーは他の女と寝なくなった。

 

私の趣味嗜好はあまりおおっぴらにされない。
私は誰よりも頭が良くなりたい。人や社会のこと、言語や欲望や精神を全て知りたい。
しかし、それは学者の役割なんだけど学問も流通に飲み込まれてしまっていて、また、楽しいことや気持ちのいいことしか知りたくなかったり、苦しさや悲しさの居心地に閉じたりするし、ああもう、理由をあげればきりがない。


とにかく、人は気持ち良く眠っているときに誰かに起こされるのが、大嫌いなんだ。お布団みたいな言葉しかいらない。その言葉が布団かそうじゃないかの線をはっきりと引けるのは、それはそれで式として本当だからどうすることもできない。


虹色の物語の中から布団色だけ抜き出して夢の続きを見る技術に卓越した身体があるんだ。

実際には、虹の中に八番目の色を見るようなのはとても卑近で誰にでも起こっている事なのだけど「虹が八色だ」と語れば「違う」と返ってきてしまう。人はこの場面でもネットにはじかれたボール。「八色」と言う側か、「違う」と言う側か。どちらにボールが転がるかは運次第。わたしはまだネットにはじかれたボールが転がるだけで可笑しいと思ってしまうお年ごろ。

 

 

虹色の枝は、ドラクエ11に出てくる重要なアイテム。

虹色の枝はとある国の国宝だったのだけど、その国で開催する競馬大会の資金繰りに困った王さまが売ってしまった! 虹色の枝は結局、別の街で行われる武闘大会の優勝景品になっていた。他の人にとってその枝は売ってお金にするアイテムだけど、主人公たちにとっては冒険を導いてくれる羅針盤なのだ。


物語はどんな色にも読めるようにできている。テレビドラマだって漫画だってゲームだって七色以上に読める。物語はぱっと見、いじわるにできてるようにも思える。分かる人にだけ分かるように描かれていたりもするが、その分からない人へのあっかんべーは「カルテット」のマキさんが曲名に込めたあっかんべーでしょうがないじゃん。人が誰かに全てを打ち明ける義理なんてないし言わなくていい本当がある。罪や嘘を打ち明けろとマキさんに迫る人たちに比べたら、物語に込められたあっかんべーなんてかわいいものさ。

 

物語は人の心や人間関係のしくみを描いた学術書みたいなもの。何千年も前から変わらない式で描かれている。As Time Goes by だったかな。こんな詞が歌われる。「嫉妬と憎しみ、女は男を求める、男は仲間を必要とする」「それはずっと変わらない。アインシュタインのセリーがどうあれ」。

 

変わらない。同じかたちが継承され続ける。
何度も何度も変わらず落ち続けるリンゴを見ていれば、そこに重力の式を発見するのは可能。人がそれを発見できるのは歴史が証明してる。「リンゴがなぜ落ちるかだって?俺たちに食べられるためさ」。消費にとって物語はそういうリンゴだろう。おもしろかったつまらなかった。美味かった不味かった。わたしにとって物語はあっかんべーをするリンゴだ。いつも七色の味がする。ちょっと苦い。

 

カナブンの守備力

 

学校は夏休みなんだね。
通勤途中にランドセルの列や学生服を見なくなって、少しさみしい。アパートの階段を下りていくと、102号室のドアの前に虫かごが置いてある。数日前まではカブトムシが入っていた。今朝は綺麗に洗われた空っぽの虫かごになっていたので、カブトムシは逃げたか死んだかしたのだろう。102に住んでるのは幼稚園に通っている女の子と夫婦で、女の子がカブトムシを飼うなんてやるじゃんと思ってた。


アパートの階段にはたまに虫がいる。近くに林があるのでカナブンとかカミキリムシなんかがはぐれてやってくるのだ。はぐれカナブンはよく踊り場で死んでいたりする。お隣さん、201号室に住んでいるのは先日赤ちゃんが生まれたばかりの若いご夫婦。こちらはカブトムシ一家と比べると結構イケイケだ。あるとき、階段に虫がいた。たぶんカナブンだったと思う。イケイケの奥さんが踊り場で固まっていた。


「無理。マジ無理、マジ通れない」

わたしは階段を上がろうとしていて彼女は降りようとしていた。どうしたんですかと声をかけると、漫画みたいに顔をそむけながら指さして

 

「虫、生きてるよねマジで。マジ無理」

虫が苦手で階段を降りれないのだ。
わたしがティッシュを取り出すと「触るの!?」「それ生きてるでしょ」と奥さんは言った。わたしもゴキブリやハチなんかは苦手だがカナブンはどうってことない。ティッシュ越しに掴んで地面に放した。イケイケの奥さんはお化け屋敷を進むみたいにソロソロと降りてきて「ありがとね」と残してから寒そうに車に乗り込んだ。

たぶん、お互いに楽しいひと時だった。そういえばカタツムリを見ないうちに梅雨が明けていた。

 

 

人喰い壁画の観光地、プチャラオ村

 

 

遺跡の地下で発見された美女の壁画。それを見た者は幸せになると噂が広まって、遺跡の村は観光で栄えて賑やかだ。壁画ポストカード、幸せを運ぶ美女のキーホルダー、ブロマイド、ぬいぐるみ、ハッピー壁画カレー。それらが古代人が残した絵と祭殿を取り巻いている。僕たちは別の目的でこの村に訪れたのだが、住人にとっては観光客にしか見えなかったのだ、すぐに客引きにあった。

「ぜひウチの宿に泊まってください」

宿屋の主人に声をかけられた。
少し行くと、子供に袖をひかれる。

「店で休んでいかない?遺跡コーヒーお勧めよ」

村の子供には大人顔負けの逞しさがあった。壁に描かれた美女や、誰が建てたとも知らない遺跡の美しさとは別種の、人の色があった。

 


たくさんの露店に挟まれた街道を歩いてゆく。途中で迷子の少女に会った。名を聞くとメルと答えた。両親と壁画を見に来たそうだが、はぐれてしまったらしい。僕たちはメルの親を探すことにした。

 

遺跡の地下へ通じる階段を下りてゆき扉を開ける。地下の壁に従者を侍らせた美しい女王が描かれていた。煌びやかな衣を纏った女と、讃えるように手を差し出している無数の家来たち。壁画はスカッシュができそうな地下室の壁をめいっぱいキャンバスにしていて、巨大な力強い絵だった。

 

ここまで来る途中にメルの両親らしき人は見当たらず、壁画を見ている廻りの観光客にも呼びかけたが、反応はない。僕たちは踵を返そうとした。

 


すると、扉がひとりでに閉まって、壁の女王が告げた。

 

「おまえたちを飲み込んでやろう」

「私の一部となれ」

「我が絵の色ごときが」

 

 

僕たちと観光客は絵の中に飲み込まれてしまった。

絵を見た者は幸せになる、その噂に釣られて来た観光客を壁が食べる。そうでない人間たちは、迷子の少女に化けて誘い出し、食べる。

人喰い絵。魔物。
それが壁画の正体だった。

 

僕たちは誰かが描いた絵の一部になり、絵を彩る色になった。なるほど、それはそれで幸せと呼べるのかもしれないが、人を喰った話だと思う。

 

僕らは絵画の中の迷宮を進んで、最深部にいた女王をやっつけた。女と共に壁画が消えていく。

 

遺跡をあとにして、賑わう村の広場に戻り宿屋の主人に伝えた。

 

あれは幸せの壁画なんかじゃなく人を飲み込む魔物だった。


「まさか、知らなかった」

「魔物をやっつけてくれてありがとう旅人さん」


お礼にと宿屋の主人は部屋を用意してくれた。

 


観光地として成り立っていた街のことを僕は少し気にかけた。あの壁画がなくなって、村はどうなっていくのだろう。それから、あの壁画は今までも多くの人々を飲み込んでいただろうに、村の住人たちはどうして気づかなかったのか。

 

宿で一晩を明かしたあと、主人は忙しそうにしていた。

「これから人喰い壁画のあった街として売り出します」

「もしかしたら、より人気がでるかも」


人喰い絵で栄えた人を喰ったような村。

 

僕はこの街の色に染まっていた商魂逞しい子供たちを思い出した。あの絵が人を喰おうと喰うまいと、描かれているのが美女だろうがなんだろうが、ここに住む人には関係がない。あの女王は古くは讃えられていたのだろう。遺跡を建て壁画に残した古代人は美しい彼女を敬っていたに違いない。嫉妬だったのか。

村の観光名物にされていた、高貴であったろう女王に僕は少し同情したが、人喰い壁画の彼女に比べたら、客引きの上手い村の子供たちの方がずっと大人にも思えた。

 

 

虹を七色としたのはニュートンらしい

 

はっきりしない天気。夏休みを終えてしまった社会人だから天気はどうだっていいか。それよりも「叩かれている少年を見る少女の眼が痛みを量れるのはなぜか?」だ。

 

換言すれば、共感できるのはなぜ?


少し前に自分でこの問いを吐いてからずっと気になってる。過去にわたしはこの問いを解いたと思う。でも、顔を洗ってる最中に答えを忘れてしまってるのに気づいた。歴史のテストではなくて数学のテスト。ワールシュタットの戦いは1241年。これは知識で、変わらない答えだから覚えておけばいい。共感できるのはなぜ?の方は「リンゴが2つオレンジが3つ合わせていくつ?」みたいな問いなので、5を覚えててもどうしようもない。1241と5はそういう風に違う。わたしは「共感できるのはなぜ?」の「5」を忘れていた。それは忘れてもかまわない。忘れちゃいけないのは式の方で、式を忘れちゃったら解けない。

 

少女には叩かれた経験があったのだろうが、少女と少年は別人なのにどうして同じ痛みだと見てしまうのか。どうして叩く側に共感しないのか。叩かれる側への共感と叩く側へのそれの二つの道があるのに、なぜ一方だけへ共感してしまうのか。なぜ、二者択一の問題について逡巡なく選択できるのか。

式から問いがたくさん出てくる。

わたしは問いに魅了されていたし、今もそう。
一つの問いから多くの問いを派生させると安心する。因数分解みたいに、問いの原因になってるいくつかの問いにバラバラにする。もっとバラバラにしていく。経験ってなんだろう。同じとは何か。そもそもその区分けを信用していいのか。わたしと同じような、問いに魅了された人たちの助けを借りながら、どんどん分解していく。

 

虹は初めは三色、次は五色になって、七色だと言ったのはニュートンらしい。その後、その語は増えてない。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七つのままでずっときている。赤の外に赤外線、紫の外に紫外線を付け加えて九色。かもしれない。それで事は足りる。赤と橙の間にもう一色を見つけてX色と名付けてみたい。わたしはそんなことばかり考えちゃう。めんどくさい。


共感も、できてさえいれば事は足りる。ニュートンが言う前は虹の七色から橙と藍を引いて五色で事は足りていた。五色で何も困らなかったのだけど、七色に増えた。七色で描かれた虹の絵と五色で描かれたそれがあったとして、どっちも虹だと分かるけど、やっぱり七色の方が実際の虹に近いと思う。

 

少女と少年を分ける線を傲慢にも優しく飛び越えて痛みを量れるのは、虹の色が七色から五色へ、三色へと減っていくみたいなものだろうと思う。

 

 

 

父の名、大人のノー

「いえ、私なんてまだまだ大人とは言えません」

ノーノー。まだまだ大人じゃない。まだまだまだまだ大人に向かって精進ガンバどんどんまだまだ。どんだけ傲慢なんや。謙遜?いやいやよくばりだってば。 本気の謙遜はよくばりで、廻りの人たちを疲弊させる。あなた十分大人だよお。大人なあんたがもっといばってくれんと、こっちなんか、まだまだまだまだまだまだのまだまだだ。

大人のノン。まだノー、そこに僕はたどり着いていない。って自覚し続ける大人のノンのしくみ。謙遜と呼ばれるよくばりのせいで疲弊させられるわたしたち。

ノンのしくみ。大人の名はそういうしくみ。窒息のノー。空気が薄い。目指すその名には誰も辿り着きはしない。「僕は大人だ」なんて言ってしまったが最後、「その自尊が最もその名にふさわしくない」。

謙遜?私なんかまだまだだって?どこまでいくつもりなんだ?どこまでもどこまでも欲深く。まだなのかよどこまでいくんだその名は。

だから、そう、ヒソヒソと、流通だけが名を語る。うわさ話の中だけに「名」は存在する。あの人は大人だねえ、そうだねえ、謙遜していて偉いねえ、あの人は名のるのにふさわしいねえ。

自らがその名を名乗らないことを条件に、流通だけが名を語る。名は噂の中にしかありえない。まあ、そりゃあそうだ。あたりまえの話。そういう風なしくみなんだもん。

「大人とはなにか」、なんて話を横目に、あーあ、って思った。深い深い夜だ。シニフィアンの流通している印象の、くだらない夢。言語が見せる覚めない夢の中で気持ち良さげだ。

お化粧直しをする飼い犬だった

 

 

さんざん「好きだ」「愛してる」と言ってたのに、別れようって伝えた途端に憎しみをいっぱいぶつけられた。私が変わった。以前ほど彼のことが好きじゃなくなった。そうか、変わる私のところまでは彼は好きでいてくれなかったのか。

 

ホームで帰りの電車を待つ間、私はつっ立って、さっきの別れ話に気づきをぶつけていた。「別れよう」「どうしてだよ」「別れたいの」「酷いな」。

 

好きじゃなくなるのは酷い。私が酷い。だから、あれもこれも酷かったって言われたんだ。遠くから車で迎えに来てくれる彼に感謝を伝えなかったのも、とても酷かった。


ありがとうって思ってたよ

迎えに来てもらって悪いなって、いつも

 

「言わなかったろう!」

「いつもいつも、毎週毎週」

「俺は二時間もかけて行ってたんだ」

 

大変だったなら、言ってくれたら

私が電車でそっちに行ったよ

 

「言わなきゃ来ない!」

「やっとそっちから来たら、別れてくれって」

「そんなのあるか!」

 

 

あの剣幕はすごかった。
あんなに押しつぶされるみたいに怒られたの生まれて初めてだ。だから気づいて直さないと。直さなきゃ。これから別の人を傷つけないように。

到着した電車にまばらだった人たちが乗り込んだ。私もあとを追って電車に乗った。シートに座って時計を見ると家までたっぷり時間があった。


ええと、だから、私がひどいの続きだ。
彼はたくさん我慢していた。

一緒にご飯をたべるとき、助手席の私がしゃべらなかったとき。映画を観たあと私がつまらなそうだったとき、旅行の準備をみんなしたとき。どれもこれも私のため。

 

私のために頑張っていた。
頑張らせていたあげくに私から別れようなんて、
飼い犬に手を噛まれる、だ。

 

窓の外でどんどん夜景が通り過ぎてる。私の顔のテカりも一緒に映っていて、それでいくつかのことに気がついた。

今日が長かったこと。

 

それから、私はデートのときお化粧を直していた。暑い日の屋外なんかでは特に何度も。私が頻繁にトイレに行くから、それで付き合い始めてからすぐに、彼は「トイレ大丈夫?」と言ってくれるようになった。全部、生理現象でトイレに行ってるって思っていたかもしれない。

 

彼のためにお化粧直してるなんて思ったことないけど、あんな風に押しつぶすのだったら、私もあなたのために頑張ってお化粧してたんだって、対抗するのもありかもしれなかった。いや、対抗したらもっと今日が長くなっただろう。言い合いが続いて、もっとひどい顔になってた。

 

 

ドラクエ11の進行とドラクエ7の思い出

 

 

スザンナじゃなくて……、そう、ベロニカが仲間になった。

蒸し風呂で休んでたベロニカは魔物にさらわれて魔力を奪われてたんだってさ。わたしたちの活躍で魔力を取り戻した彼女が冒険の仲間に加わった!

魔物に捕まっていたもう一人の人物もわたしたちは助けてあげた。それが情報屋のルパス。彼は生来の巻き込まれ体質で、運悪く様々なトラブルを引き寄せてしまうせいで世界の裏情報に精通しているそうな。

 

「男湯と女湯ののれんが運悪く入れ替わっていた」「俺が蒸し風呂(女湯)に入ると」「女性が魔物に連れ去られそうになってた」「助けようとしたが助けられるわけもなく、俺も魔物に捕まっちまったんだ」

ルパスがそう話したあと、ベロニカがわたしに向けて目配せした。

「イヤなやつよね」

とでも言いたげに。

 

わたしは彼女にウインクを返す。

ルパスの言ってることは、嘘、言い訳で、女湯を覗こうとでもしてたのだろう。運悪く?巻き込まれ体質?たぶんそれも言い訳で、トラブルを引き寄せるのはほとんどが自業自得なんだろう。でも、ルパスにとって言い訳は本当で、嘘は真実。自分から首を突っ込んでるのに「巻き込まれた」って信じてる人いるよねー。そういう人ほどおしゃべり。情報は通じるからしゃべりやすい。あるいは、通じなきゃいけないからしゃべらされる。

ベロニカの目配せの向こうから、物語を描いた人のウインクが届く。

 

 

ドラクエはいつもストーリーがすごい。

そんじょそこらの本には負けてない。

 

 

ドラクエ7で思い出すのが、最初に復活させる村(ウッドパルナ)のお話。

 

村は荒廃していた。

 

住人たちに話を聞くと、自分がつくったもの、家とか畑とかを、自分たちの手で壊すよう魔物に命令されているそうだ。村には大人の男しかいない。妻たち女たちは魔物にさらわれて人質になってる。だから彼らは逆らえない。魔物の命令に従うしかない。どうせ自分の手で壊すのだからと、村に残された男たちはつくる気力が失せていく。

 

……まるでサラリーマンじゃないかとわたしは思った。

 

意見を述べたとして、どうせ上司に壊されるのだから言う気が失せる。女房と子供のため会社の命令に従うしかない。なにも、自分の手でつくろうなんて思えない、どうせ壊すのだから。馬鹿馬鹿しい。

 

わたしは3DS版で7をやったのだけどプレステ版は2000年発売だって。
十七年前か。
ふむ。

 

何かを人質にとって「自分の手で壊せ」と命令する魔物たちは、ネットを見渡すと、そこらじゅうにいる。

 

「おまえなんて大した人物じゃないと認めろ」
「お前自身の手でおまえの自尊心を壊せ」
「そうしなきゃ仲間外れにするぞ」

とか。


ウッドパルナの村人が、優しくなくて

「女房や子供など知ったこちゃない」
「人質が殺されたって知るものか」
「おいらは村から逃げ出すぜ」

なんてやったら酷いストーリーだ。

そんな人は形を失ってる。

 

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ウッドパルナが犯した罪

村人たちは、かつて、別の魔物から村を守ろうとした青年(パルナ)を見殺しにした。女を人質にして村を壊せと命令している魔物の正体は、殺されたパルナの妹、マチルダさんなのだ。マチルダは兄を見殺しにした村に復讐してたのさ。

 

「大切な兄を奪われ」
「誰にも恨みをぶつけられず」
「自分を殺して生きてきた」
「私の苦しみを知れ」

 

マチルダと主人公たちは戦う。
彼女はこちらを攻撃してこないのでやっつけるのは簡単だった。あとから知ったのだけど、彼女との戦闘は逃げてもクリアできるらしい。

 

わたし(ドラクエ7の主人公)はマチルダから木の人形を託される。それはパルナ兄の形見で、売ると1ゴールド。

 

罪と復讐に閉じ込められたウッドパルナのストーリー。人の形って悲しいなあなんて、ここまでキーを打って文章にしていたら、誰かがわたしを呼んだので席を立った。そしたらすごくムカツクことを言われた。腹立たしいったらない。世界なんて滅びてしまえばよい。早く家に帰ってドラクエの続きやりたい。

 

 

素敵なマンガをありがとう

 

ニャンニャンワールドを読んでる。

 

koharu8.hatenablog.com

 

すごいなあ。ニャンニャンワールド。「ふうせんのたび」を読んだときは、なにかコメントをしたいなって思ったのだけど言葉が出てこなかった。自分で世界をつくってそれを動かす。キャラクターを生み出して彼が行動する。わたしも小さいころからその楽しさを嗜んでたらなあ。なんてちょっと後悔したり。

 

ニャンニャンワールドのすごさの一つは、読むのに我慢がいらないこと。文章とかを読むときに「著者の伝えたいことは何か?」なんて探しながら読むのしんどかったりする。「私に伝わったこと、私に分かったことは何かな?」って探すのが面倒なときある。「文章に書いてあること分からなかったな」って分かるのもつらい。いつのまにか、わたしは我慢して誰かの文章を読んでたりする。何かを文章の中に探して疲れてたりする。書くときも、文章に中身を、内容を、詰め込もうとして我慢してたり。少し、ちょっと。

 

著者が伝えようとして頑張るほど、読者も伝わろうとして頑張んなきゃならなくなったりしたら、たいへんだ。

 

ニャンニャンワールドはタイトルもいい。頭の中で「ニャンニャンワールド」とつぶやくと、ニャン太が「呼んだ?」って振り向いてくれたりして。いやあ、気持ちよくってつぶやいちゃっただけです。ニャンニャンワールド大好き。素敵なマンガをありがとう。

 

 

ログ殺しの少女(エピローグ)

 

reonnona.hatenablog.com

 

 

十三名の男女の遺体を収容。女性一名が行方不明。
結果はそれだけ。

 

嵐が去り航路が回復すると、まるで、ジョジョ五部に出てくるスタンドが過程を消し去ったかのように、結果だけが残った。閉ざされた島の殺人事件は好事家たちの妄想を慰めたが、すぐに超越されて「彼ら彼女らは一体なにと闘っていたんだ(笑)」なんて短いコメントたちが現われては、それらもログの地層に沈んでいく。

 

噂によると人繋ぎの財宝をめぐって争っていたらしいぜ。たかがブログだろう? 財宝なんてあるわけない。で、毎日毎日文章を書いてなんか見つかったの(笑)。でも俺たちを楽しませてくれたじゃん、もっと殺しあえー。ログを殺すようなクズがクズに殺されただけです、はい終了。おまえも殺ログを楽しんでるクズじゃねえか。つ鏡。

 

決して真実へ辿りつかず、死という真実にさえ辿りつかず、繰り返されるログの死だけが続いていた。

 

黄金体験(ゴールドエクスペリエンス)。十四人の、結果的に悲惨となった、孤島での体験は黄金に輝いてはいない。連鎖する殺ログを止められなかった探偵の苦悩。人と人との繋がりを信じた少女たちの逡巡。殺ログの罪を背負って海へ身を投げた最愛。それら十四名の物語は嵐が消し去り、結果だけが残った。

 

十三名の遺体を収容。女性一名が行方不明。

それは知識。
それは情報。

 

この世には知識だけが残り、少女たちの体験は、誰かが語らない限り残らない。推理小説の犯人やトリックだけを求めるような結果主義者たちのスタンドが経験を消している。僕の胸は死んだ少女たちが放った矢に貫かれた。僕の眼には人の精神が映るようになった。傍らに現われた自身の精神像に「黄金体験」の名をつける。

 

これからは僕が立ち上がる新しい物語。情報に殺され続けた体験が、輝きを取り戻す物語。誰かが消し去るなら僕はそれを現して紡ごう。更新され続ける死んだ知識に殺された、少女たちの身体へ捧げるレクイエム。黄金体験鎮魂歌、

 

「カルテット」のアリスは鏡の中に閉じ込められていたよね、まるで、世界に自分しかいないみたいだった

 

「声を模したエクリチュールがあるのではなく、エクリチュールが声を屈服させ、声の方がすすんでそれに付き従う」


上記はわたしの好きな作家さんの文章の一部分っぽいものです。これからもちょくちょく出てきてもらおうと思うので、彼をJくんと呼ぶ。Jくんはおっちょこちょいでお人好しなわたしのライバル。以下はJくんの紡いだ流れに身を浸したわたしの勝手な解釈です。

 

文章には声の大きさや高さもなく、息づかいや、時おりのぞく歯や、そういうのがない。わたしは、文章のように話しているのが多い。おもちゃ屋の店員さんに商品のことを聞く時なんか、誰かが書いたできの悪い作文を読んでるみたいだった。Jくんはその辺のことを「咽喉が、もはや歌わなくなる」と書いていた。わたしは、咽喉がMSPゴシックになる、と言い換えてみる。


エクリチュールが声を屈服させる。

もう一度、ジャンプの前に書く。

 

わたしは、文章のように、MSPゴシックのように、四角くに、咽喉を動かしてしまう。かかれた文字はすぐに、敵/味方 の線をひく。おまえは仲間なのか。わたしのことを書いているのか否か。ゼロかイチか。読めているのか読めていないのか。正しいのか間違っているのか。うるさい!とわたしは思う。四角いよあんたたち(わたし)の声。社会みたいに四角い。

 

id:masa1751 さんとかはエクリチュールに歌を復活させてるなあ、なんて、わたしは ただの記録でしかない、に書かれた文章を聴いている。わたしはそれを虫の音と現した。音の大きさや高さ、拍動とか。そういうのをわたしは読んで身体に流してる。やまいしゆり町でわたしの頭に残っているのは、おばあちゃんがそれ以上進んだら危なくなるところとかだけど、わたしの身体に残っているものはわたしは知らーん。山形の初夏は、わかんない。けど、もしかしたら身体はそれを読んでいるのかも知れない。その辺はどこまでいってもわたしの頭ではわかんない。ただ読んでると気持ちいい。「うわー」ってなる。「うわー」は、わたしの頭が、言語化能力が白旗をあげたってこと。

masa1751さんは「独創的」とわたしの読み方を現してくれたけど、あえて咽喉を文章に屈服させると、「それって一人ぼっちってことじゃない?」。チャンチャン。ほら、エクリチュールってコントみたいに可笑しいよね。

 

わたし(たち)はハンコじゃないんだから、たい焼きみたいに型どおりにはいかないよ。わたしみたいなひねくれモノは「なんでブログの文章はたい焼きみたいなんだろう」って思ってしまう。文体がハンコみたいに毎度同じ型なのは、きっと売れやすくするためだろうって思ってる。「まいど!おおきに」。たい焼きの型には説得力があって、一つの形を繰り返し作れる。たとえば、わたしが自分のブログに哲学ブログの看板を掲げて、同じ型でたい焼きをつくり続けるみたいに、毎回難しい哲学や思想を書いたら、説得力が増すでしょう。今よりももっともっと流通しやすく、分かりやすくなって、読者は「ああ、この人は毎回こういうのを書く人なんだ」「俺はこの人を分かったぞ」ってなる。「こいつは哲学屋だ」。安心する。分かりやすく安心させてくれる。

わたしのエクリチュールがわたしを安心させてくれる。今日も昨日と同じ型の、いつもの四角い日。たい焼きみたいないつものスーツ、昨日と同じ職場の仲間たち。作文を読むみたいなハンコみたいなわたしの声。

 

id:lookwho さんが「読めていなかった」ってブックマークでコメントしてくれたのだけど、それにしても、「読めていなかった」は頭でっかちな文章に読めちゃう。読めているのだけど文章にできないのがほとんどなんじゃないかな。または、言語に嘘をつかれちゃうのがほとんどなんじゃないかな。次は「読めた」って書いてください。先回りして感謝で通せんぼしときます。「コメントありがとうございます」。

 


それと

 

「そろそろ電話、切るね」
「はーい、またねー」
「はーい」
「うん、またねー」
「はーい、それじゃあまたー」
「うん、また今度ね」
「うん、今度ね」
「はーい」
「はーい、じゃあねー」

 

電話がなかなか切れないのは「返応性」なんて間違って呼ばれてる言語の故障のせいなので、返事とかは書きたければ書けばいいし、わたしはわたし自身がおもしろいから書いている文章が「返事」と捉えられる可能性を慮っています。書きたければ書けばいいし、別のことが書いてあればそれを読んで喜びます。既に書いてあるログも勝手に読んで喜びます。


たくさん人がいる中で、たまたまちょっとすれ違った重みの、軽口。わたしの言及?(この言及っていう言葉が生理的にイライラする、ゲンキュー、怪鳥みたい)なんてそんなもの。わたしみたいな原初細胞にとって既存の言語は足りなすぎか多すぎで、単語や意味は嘘をつきすぎ。もっと正確に、精密機械みたいに書きたいって思うからわたしは部品集めの最中なんだと思う。その中にはポンコツだってあるわい。

たいやきみたいに完成した金型で書いてないもの。換言すれば、わたしは人間ができてない。

 

比べると、電話を切れない彼女たちの方がずっとずっと人間が型どおりに四角くできている。彼女らはある意味で独創的で、鏡の中の一人ぼっちだと思うよ。一人だから、返事を待っていて、電話が切れないんじゃない?

 

 

「私が誘ったなら、あなたは鏡みたいに返事する。当然でしょ」

「カルテット」のアリスは鏡の中に閉じ込められていたよね、まるで、世界に自分しかいないみたいだった。鏡を見てるアリスちゃん可愛かったな。サンドイッチマンの人が誘いを断ったの、少し痛快で、少し可哀そうだった。

 

 

何も残さなかった自信がある

 

トイザラスでドラクエPS4を買いました。子供でいたーいずっとほんじゃハッピー、大好きなおもちゃにかっこまれてー。わたしはトイザラスキッーズ。

 

わたしはトイザラスキッズ!

ほらレゴもあるよ。すごいね。

いいねレゴ。トイザラス来たの何年ぶりだろ。ねえ、子供でいたーいずっとほにゃヘッポー。

 

そんな歌あったね。

 

ずっとほにゃの部分が曖昧だったから、彼氏に「そこはこういう歌詞だよ」って教えてもらいたかったのだけど知らないみたい。まあいっか。もし思い出したら教えたがりでいて。

店をぐるっと廻って、シルバニアファミリーの棚でちょっと立ち止まって「全部集めたくなっちゃうね」なんて話して値札をみたら、きっついなーと思った。一つが八百円とか二千円とか大きなのは一万円以上もする。もう少し歩くとテレビゲームのコーナーだった。

テレビゲームコーナーでドラクエを探すと見つからなかった。3DS版はあったのだけど。きっと予約しないと買えないだろうなって期待してなかった(期待していた?)から、いいか、買えなくても。

彼が「店員さんに聞こう」と言った。

わたしは聞きたくなかった。PS4のソフト棚なんてそんなに広くないし、見たよと思った。聞くのを恥ずかしがってると思われるのが癪だったので、あたりを見渡したら店員さんがすぐ近くにいて、わたしは「ちぇっ」って面倒くさくなった。

 

「あの、ドラクエイレブンってありますか? PS4版です」

 

「ありますよ、こちらです」

 

棚の一番上にあった。嘘みたいと思った。

「あの、それと、プレステ4の本体って」

 

「こちらです。イチテラと五百ギガがありますが、イチテラは申し込みとなります」

 

「すみません、ありがとうございます」

 

わたしは口の端をキュッとあげて、さようならを込めて店員さんに笑みを送った。うわー買うんだ。半分くらい冗談で来たのに。ドラクエのケースとPS4本体購入の紙をひょいひょいと取って、彼に「ほら」と見せた。

 

「あなたが欲しいって言ったんだからね」

「違うでしょ、XXXちゃんでしょ」

「違うよ。別にそんなにやりたくないもの」

「じゃあ買わない?」

ハンドスピナーみたいなのも売ってたから買う」

 

軽口を教え合いながらレジに進んで、まずあなたが配線とか初期設定をしてよと頼んで、とてもいい気分だった。見てた?店員さんとわたしの滑らかな会話。声をかけるところ。ちゃんとしてたでしょ。雨が降るみたいに自然だったでしょう。店員さんに抜け目なく伝えてから、さよならを告げて去るまでをわたしはとってもよくできた。あの店員さんにわたしの印象を何も残さないのをよくできた。

 

 

パーティー券、テーマブログの疲弊

 

 

眼が痛みを見ることに関して好きな著者がこう書いてた。
「痛みを量る眼によって世界の全てが変わる」

その人がそう書いていたからわたしも「痛みは見えない」なんて書きだしたに違いない。そういえば、ドラゴンクエスト11を始めた。そこにもまた、見えない精霊?みたいなのがそこいらじゅうに歩いてる。ゲームの始まりはエディプス王物語みたいな始まり方で(父も母も主人公は知らない)、彼の最初の冒険は山に登って頂からの景色を見ること。わたしは「山頂からは広い世界が見えた」と村長さんに報告した。それが彼の育った村に伝わる大人の儀式なんだってさ。しつこいわー物語って。何千年も前から何度も同じことを語ってるんだから。

 

叩かれている少年たちを少女が見る。

「痛そう」「かわいそうに」もしくは「ざまあみろ」だって痛みを量るという行為において同じ。なぜ、痛みが量れるのか。痛みがその景色から読めるのか。痛みが読めなかったら「ざまあみろ」とも思えない。これは、死んだ魚を見て「おいしそう」と読んだり「かわいそう」読んだり、読みが分かれるのと似てる。昔のわたしは、刺青を見て「痛そう」と感じたり「綺麗だ」と感じたりする分かれ方から考え始めた。

なぜ、叩かれている少年たちの痛みが少女に量れるのか。気持ちいいって思ってるかもしれないのに。これは、どうして文章が読めるのだろう?とそっくり。読めるから読める。あたりまえに読める。それが読める身体だから。

 

「Azureインテグレーションがradiocashに対応した」。

これ、わたしには読めない。読めないから関係ないとわたしは思うのか、関係ないから読めないのか知らないけど、読めなくてもたいしたことないだろうって思う。だから、読めなくても平気。なんかプログラムの話なんでしょって、なんとなく分かるから。

そんなのでわたしを起こさないでよね。こっちは眠いんだから。

わたしに関係のあることだけを、わたしに分かるように、丁寧に、優しく伝えてね。わたしが分からなかったら、わたしが理解するまで根気よく何度でも伝えてね。よろしく。わたしに関係する大事なことを、わたしに分かるように伝えないなんて許さないからね。

絶対に許さない。

もし、インテグレーションがなんとかキャッシュに対応すると、わたしが損するのだったら。

許さない。

そんな重要なことをわたしに読めない言語で表すなんて許さないから。いいわね。わたしに関係することはわたしに読めるようにすること。

この約束、破ったら酷いから。


わたしを置き去りにしてAzureインテグレーションは勝手に進む。それを読める人たちだけで進んでく。「痛そう」と量れる人たちで盛り上がって、「おいしそう」と読める人たちで酒盛りして、「Azureインテグレーション」を読める人たちだけでパーティーしてる。いいなあ。そのパーティー券。「なんで痛みが読めるの?」を読もうとする人たちは盛り上がってない。わたしゃいつも置き去りよ。

 

ああ、これがid:lookwho さんが言ってたテーマブログの疲弊ってやつかな。いきなり言われたから、わからんかったよ。ンなこと言ったら、わたしなんてどうすりゃいいの。叩かれてる少年を見る少女の眼がなんで痛みを量れるのかさえ問いへ投げ込んでるんだぜ。「かわいそう」で盛り上がってる今の人たちを横目で見ながら、わたしは、もう死んでしまった著者さんたちの生きてる死体とゾンビ舞踏会。寂しさと恨みで化けて出るくらい許してよ。


なんで眼で痛みを量れるのかな。どこから文章を読めるっていう自信がくるのかな。なんで、大切なことは誰かが教えてくれるっていう約束があるみたいになってるのかな。

 

ドラゴンクエストの主人公には幼馴染がいて、彼女が飼っている犬と三人で試練の山を登っていくのだけど、幼馴染が闘わない。スライムとの戦闘中も幼馴染は「闘いの行方を見守っている」。ようするに見てるだけで主人公と犬が闘ってる。たまに薬草をくれるから、いいけど。勇者は辛いよね。闘わない人の分まで闘ってさ。そりゃあ勇者と魔王は表裏一体って言われるよ。

それで、勇者は秩序を守ってる王様から追われる。主人公は社会の敵になっちゃう。
スライムとも闘わなくちゃいけないし社会とも闘わなきゃいけない。物語は現実模倣。どんな小さなそれも大きなそれも現実模倣。ゲームだって四コマ漫画だって変わらない。誰だって秩序を守る会社とかと闘っているでしょうに。そうじゃなかったら主人公や物語に感情移入なんかできっこない。

感情移入と呼ばれる魔法。
自己愛と呼ばれている魔法。

魔法ばかり飛び交っててうるさいから、わたしは解いてる。

解くのに頼れるのはゾンビ(亡くなった著者たちと、その継承者たち)との幻肢ダンスレッスン(どんな風にシャキシャキ身体を動かせばいいか叩き込まれました)だけ。マイケルのスリラーみたい。ちょっと滑稽と恨みが混じってても許して。こっちはさみしくて不気味なゾンビパーティーなんだから。