やまもり

山森(故障派)と森山(特になし)の文集

意地悪で優しい物語

 

昨夜、布団の中でこんな文章を読んだ。

 

一人の娘が川のほとりにいる。
彼女は通りがかったバラモンに嬉しげに話しかけた。いつも辺りをうろついていた五月蠅く吠える犬がいなくなってとてもいい気分だわ。あの犬はここにやってくるライオンに食べられてしまったそうよ。嫌な犬がいなくなったおかげで居心地がいいわ。

 

このインドの昔話を引用してから、本の著者は「ライオンは一度きり跳びかかれば十分だ」と続けた。わたしはその娘がライオンに食べられてしまうのを、犬と同じようにいなくなってしまうのを想像した。

しかし、著者が「一度きりで十分だ」と続けたのはなんだろう。

彼女は嫌な犬がいなくなってせいせいしているが、ライオンにとって犬と娘は同じ餌。己を知らない娘。わたしは自分のことを彼女のように知らない。彼女が犬と同じ運命を知るのはライオンに食べられるとき。そして、昔話を引用した著者は「一度きりで十分」と続ける。

なるほど、「私は自分を知らない」と不安になるにはライオンは一度きり跳びかかれば十分だ。もしかしたら食べられないかもしれない。娘は運良く生き延びるかもしれない。わたしは物語を俯瞰で読んでいるから「娘は犬と同じく食べられちゃうだろう」「自分を知らない無知な娘は哀れだなあ」なんて思ってしまう。

そして、さらなる俯瞰に立てば「読者の私も彼女と同じように自分を知らないのだろう」と不安になる。そうか、一度だけで十分だ。

 


物語が何かを伝えようとしていたら、それは優しいだろうか。このインドの昔話をつくった人は「人は自分の無知を知らない」と伝えたかったのか、他のことを伝えたかったのか。それとも描いただけなのか。解釈は読者に委ねられている。

まさかとは思うが「ライオンは一度きり跳びかかれば(人の知を揺るがせ不安にさせるには)十分だ」と伝えたかったのか。

 

うーん、それはないと思うけど。

 

伝達の読解レベルは坂道じゃない。段々と少しずつ坂を登るように読めていくのではなくて、エレベータでしか行き来できない階層のように断絶している。「愚かな娘は犬のように食べられてしまうだろう」と読む人たちと「娘がライオンに食べられるなんて書いてないじゃないか」と読む人たちは断絶している。「ライオンが跳びかかるのは一度きりでいい」と読む人たちはさらに別の階層にいる。

 

優しさと意地悪。


わたしは物語の中に入っていって娘に語りかける。「ライオンからすれば犬もあなたも同じだよ。食べられちゃうかもしれないよ」そんな風にして彼女を怖がらせるのは優しさなのか、いらぬ恐怖を植え付ける意地悪なのか。運良く上手くいけば食べられないかもしれないんだから。


私が食べられるかもですって?ああ、さっきの話を聞いていたのね。よかった。ライオンと言ったけれど、それは私のことよ。あの嫌な犬に噛みついてやったの。

あなたも美味しそうね。

知らないのはわたしだった。彼女は牙をむいてわたしの咽喉を噛み切った。すべて仕組まれていた。無知を装っていた彼女にわたしは喰われた。騙された。いや、わたしは驕っていておびき寄せられたんだ。わたしは彼女よりも知において優っていると思ってた。なんて愚かで幸せな時間だったのだろう。


いや、違うね。

 

ライオンは述べた。

今の方が幸せなはずだ。死ぬ間際に真実を知れてよかったろう。もしも後ろから跳びかかったらどうだ?おまえは私の正体を知らぬ間抜けなままで死んだのさ。真実を知ってから逝けるおまえは幸せだ。

 

 

わたしはしおりを挟んで著者のことを思いながら本を閉じた。

ライオンが跳びかかるのは一度きりでいい。そう記した本の著者は意地悪だ。どうして一度きりで済むのかの理由を書かないで、その一文だけで済ませて説明なしで、さっさと次に行ってしまうあくどい著者だ。おかげでわたしは考えるはめになる。わたしに考えさせてくれる。わたしは彼の意地悪に感謝する。全てを手取り足取り教えないでくれてありがとう。

物語は伝達として意地悪だ。結局、娘はライオンに食べられちゃうの?どうなの?物語は答えないので伝達に正解はない。

 

「嫌な犬がいなくなって娘はいい気分になった」。そういう文章通りの読み方もいい。「愚かな娘は犬と同じ運命を辿るのを知らない」と言語外言語を読んで教訓を得るのもいい。物語を引用して「一度きり跳びかかれば」と述べた彼のように解釈を進めるのもいい。

 

うんうん。物語の答えない意地悪さはわたしは好きだよ。世界はわたしに答えないって思う。吠えても拷問しても物語は答えない。いろんな読み方を放っておいてくれる。伝わりたい人にだけ伝わって、読みたい人たちにだけ読まれて、考えたい人たちに考えさせてくれる。

物語は読者の欲望のまま読まれるのがいい。わたしたちの首を掴んで引っ張って「こうやって読むのが正しい」なんてお節介な優しさを物語はやらない。わたしも物語を描きたい。意地悪になりたい。

 

「レモンありますね」

そんな感じ。

 

反省のしすぎは

 

反省は自身に加える暴力だ。

反省は自身に加える暴力だ。そう唱えていないと頭でっかちになって動けなくなってしまう。「反省は自身に加える支配欲だ」でもいいのだけど、これだとピンとこない。うまく身体に通じない。「暴力だ」の方が支配よりもイメージがピンとくる。

あくまでも私の場合はそうだということ。力の弱い場合、反省は力に留まる。「反省しなさい」と誰かに促されてそれをするようなときは大抵は弱い力を自身に向けて済ます。「反省は自身に向ける抑圧だ」。弱い力のときはそう表すのが適切だろうと思う。社会に適切なだけだけど。

 

反省という名の自身に加える鞭。これの困ったところは、ムチと同時に飴でもあること。誰かに「反省しなさい」と鞭を打たれる前に自らすすんで反省するときの甘い味。自身を自ら支配することの甘い味。抑圧を外に向けないで、暴力を外側に向けないで自分の内側に向けるというコントロールの良さ。他人を裁けないのならせめて自身を裁こうという小さな法廷。私には自分でルールを定めてその自分ルールで自分を裁く権利がある。一人の私の反省に立法権司法権が同居している、さらには暴力装置、私の反省は警察みたいなふるまいをする。一つの反省に三権が集中しているのでその腐敗や癒着を防ぐのは不可能なのだ。

この癒着により人は自分の(反省の)都合の良いものしか読まないし分からない。私は私に都合の良い苦しみも好む。私に都合のいい怒りも好むし悲しみも好む。苦いコーヒーを好むみたいに、反省をする。

なので、私は「反省は自身に加える暴力だ」と唱えておく。考えすぎはよくないよと自身に言い聞かせる。コーヒー中毒になっちゃわないように。

 


「反省は暴力なんかじゃない」
「それは痛くも痒くもない」

「痛くなるまで、苦しくなるまで反省したことない?」


考える、悩む、反省する、気をもむ、心配する。この辺りの境界線も曖昧なのに加えて痛みや苦しみをそれらの証拠として、つまり、それらの行為の交換物として、人質として要求するなんてのが常にある。

 

「痛いほど考えたのだ」
「苦しむまで反省しろ」
そんな具合に。

 

頬をつねる代わりに「夢じゃない」って確信を交換するようなもの。ほどほどにつねらないと暴力になってしまうってこと。思考の拠り所が言語である限りお互いにつねりあわなければいけない様相は、コミュニケーションは暴力であると言ってもいい。それが神話である限り「神話じゃないよね」って隣人の頬をつねるという感じで。

 

「コミュニケーションは暴力じゃない」
「優しく促すことができる」

 

そっとつねったり、または自身の力で頬をつねるよう促すのは可能だと思う。既にそうでもある。「なんか鼻がムズムズしてさ、鏡貸してくれない?(鼻毛出てるよ!気づいて!)」。ほのめかしと呼ばれたりもするけど。わたしだったら、一人だけ眠りに落ちてたらひっぱたいて起こしてほしいって思うかな。でも、醒める必要のない日曜の朝にひっぱたいて起こされたりしたらふざけんなってなっちゃうね。

 

黙っているルイス

 

 

ルイスはイヤホンを取り付けた。
目や口と違って耳はひとりでに閉じないので、やるには両手で塞ぐか耳栓などをするかになる。彼は母親の声で自分の耳が侵されるのをイヤホンで防いでいた。誰かが安らいでいる音楽にも、うるさくて耐えられない隣人から苦情がでもする。世界で親しまれている名曲であっても騒音になりうる。ルイスにとって母が親しんでいる母の英語がそれだった。彼はそれに悩まされていた。

母が我が曲で息子の鼓膜をふるわせようと彼の部屋に近づいてくる。ドアが開けられ彼が話すべき彼女の英語がやってくる。ルイスのイヤホンからはヘブライ語が、ドイツ語が、その他の外国語が呪文のように流れていた。
母は初めに優しく語りかける。

「おはよう、どう?」

「また黙っているの?」

「私に話しなさい」

そら、ピットピットが来た。なぜあなたは僕にそれができるとするんだ。ルイスはボリュームを上げてラテン語で耳をいっぱいにした。僕にはそれがでない。あるいは、別のやり方を見つけなければいけない。

かつて、僕は病院に連れて行かれて医者と二人になった。なぜ黙っているのかと聞かれて「あなたはなぜ話すのか?」と僕は組み替えて返した。彼は患者の話を聞くのが自分の仕事だと述べた。僕は観念してその仕事に協力して僕が得るものについて聞くと、彼は「君を理解する。治していく」と応えた。それは医者の取り分と僕は思った。彼に仕事は嫌々やっているのかを聞くと、「そんなことはない」と彼は笑顔で返した。

「それは不公平です」

「どうして?」

「僕は嫌々で、あなたに良いばかりだ」

医者は僕の味方だと繰り返した。「嫌われてしまったかな」と微笑んでいた。僕は彼への協力をやめてしまって、その代わりに金をはらった。

 

公平な学習が必要だ。できるなら多くの人たちにと思う。母や医者は僕を理解したい望みを言う。まるで僕の望みかのように。彼女たちの理解へ僕が奉仕するのが当然であるかのような態度で、僕に自白をせまる。「話しなさい」「理解したい」。それで口を割らせようとする。彼女たちは学ぶ態度の代わりに警察の態度を身に付けていた。ああやって自白させている。

医者は微笑んで口を割らせようとしていた。母は初めにささやいて、そのあとに大きな声をあげて僕の口を割らせようとするのが常だ。黙っていて彼女たちの捜査に僕の手を貸さないのは裏切りのようだ。僕はできるだけ街を歩いた。

街灯の下を通り過ぎて建物の横に行く。建物の横を通り柵に沿って疲れるまで歩いて行った。すれ違う人たちは別のことを考えているのだろうか無言で、善良で、余計な望みを払わず真っ直ぐに歩いていた。僕は自らの理解を喜ばせるために他人に自白を強いるのを神が許すか考えていた。イヤホンを取り出してロシア語を聞くことにする。SVET、スヴィエート。僕を眠らせないように光をあてて、疲れさせてとうとう口を割らせるやり方に僕は参っていた。


二回目の面談で医者は「私を嫌いになりましたか?」と笑って、僕に聞いた。あなたが望んで私がそう答えたならこのあとどうなるかと僕は問いを返した。

「君はなにを望んでいるんだね?」

「これを終えて少しましな気分を」
「家で眠るのに必要な静かさを望みます」

僕はどうにかしてそれらの語をひりだした。

母、問題、解決。そのような単語が医者の口から出て、矢継ぎ早に「君のせいではない」と言った。彼はあらかじめ決まっているかのようにすばやく喋って迷わず家に帰るみたいに話を終えた。僕は失語症の診断と眩暈をかかえて病院を出た。

医者や母にとって話すのは迷いではない。彼らは生まれてどのくらいでああなったのだろうか。僕はあたりを探して建物の脇に階段を見つけ腰をおろした。イヤホンから流れるドイツ語はくぐもってよく分からなかった。僕はまだ迷って見つけられずにいる学生だ。いずれすっきりと探しあてたら僕も滔々としゃべれるようになるのかもしれない。教壇に立ち自らの理解について話す様を想像して僕は咳込んだ。それがどんな語で行われるかの手がかりも掴めずに今はいる。彼らのようにあっという間に語をならべて、その音を鳴らすとき入れ替わったり混ざったり舌を噛んだりせずに、よだれを吐いたりせずに。僕は彼らが理解と呼ぶものが語が聴こえなくなることだと思った。訓練によって可能となるのだろうか。巣へ帰るとき巣を探して迷う鳥がいないようなものか。僕はあの家で一生を送るのか。

僕の前を車が通り過ぎていき、イヤホンを外すとなにかが噴出しているような音やこねるような音が耳に入ってきた。ドイツ語、ハオス、あれのHをDにしてAをとる。ダス、Mを加えてドムス、ラテン語。彼らはおしゃべりの塔を造り終えてしまっている。母のように初めはささやき、そのあと叫ぶか泣くかして脅す手口でピットピットをしゃべらせて不能でない神に比肩するおしゃべり塔を造った。彼らはそこへ迷わずに帰っていくので帰りに迷わない。僕は頭のうるささをおさめようとイヤホンをしてボリュームをあげた。彼らは塔と他人の口を割らせるために最後の語や最後の注射さえどこからか持ってくるだろう。


僕の母は街を歩いている人々だ。僕の医者もそうだ。僕は階段から腰を上げて右へ歩いて行こうと思った。歩き出すと静かにすれ違う人たちや煙を上に吐く煙突が好ましく思えた。僕はそれらから生まれるのを想像する。僕の母は街を歩いている人々だ。しかし実際には彼女の尻から生まれてきたために彼女に最初に見つけられてしまった。僕は生まれ直すように街を歩いた。黙っている僕が捜査すべき裏切りでないまま、歩きながら眠りたいと思った。家で夢を見ながらの質の悪い眠りだけでは治療に不足する。それが明らかだった。

 

 

駅は整然としている。そういえば、わたしは駅について誰かに教えてもらったことはない。電車が到着するところ。電車に乗るところ。切符が売られているところ。授業で教えた方がいいんじゃないか。小学校くらいのときに。「駅ってなんですか?」。駅は複雑だから。

 

どこからが駅なんだろう。あの歩道橋からかしらと訝りながらわたしはホームにいた。柱に各駅停車とそうでない電車の止まる駅が書いてあり、電光掲示板には次の電車の到着時刻が流れている。読むものがたくさんある。どれを読めばよいかわたしは判断してそれを読んで、間違いなく次の列車に乗るのだと決めた。車両の数と乗客が並ぶべき場所は足下に書かれている。駅は本当に読むものが多くて、かなり不親切に思えた。上から読んでいけばいいメールや右から読んでいけばいい本とは違う書き方だ。


これは、たぶんプログラムに似ているだろうと思う。わたしが駅に入力された信号だとすれば合点がいく。「駅ってなんですか?」「プログラムです」。もしもこれが正解なら小学生にはきびしいな。頭で理解しようとするなら、でも、駅は理解するものではないからなんてことはない。情報の過剰さに面食らうけれど、行きたい駅さえ分かっていればそこから逆引きして自分に必要な書きものを読めばいい。それはそれで難しい作業だが。整然とした駅にはしっかりとした足どりが似合う。学生たちが大人びて見える。

 

 

 

「鏡を読んでいる」。分かる文章や読める文章を読むことをわたしはそう呼んでいる。人は自分の理解回路を文章に写して読んでいる。自分を変身させないままに読める文章、自らの理解回路を組み替えないままに分かる文章を読むことに、わたしはあまり価値を見出していないばかりか、鏡を読むのは毒を飲むようなものだと思ってる。

 

よく、嫌なものを見てしまう人に「嫌なら見なければいい」と忠告することがあるけど、これは鏡の悦楽を考慮にいれていないもの言い。嫌なものを見て嫌だと分かり嫌だと言表する鏡の欲望は、悲しい映画を観て悲しくなったり、仲間の怒りを我が怒りにするのと同じように望まれている。

 

「嫌なら見なければいい」は「わざわざ映画を観て悲しくなるなんておかしい」とだいたい同じ。嫌なものを見て嫌だと思うことで鏡が慰められる。悲しい映画を観て情動が慰められるのと同じように、それは鏡の自分に感情移入する悦楽だ。

 

鏡は、隠語としていろんな物語に登場する。
だいたいの人たちは鏡を読んで暮らしている。

 

他人を自分と同じ思考回路を持つ鏡だと信じている平面上で、何ごとも進んでいく。なので、鏡の世界には「厳密な出会い」がないと昔のわたしは思った。同じ思考回路、同じ感情回路の他人と出会う?それは鏡に向かうのと同じ。鏡の世界は孤独なのだ。

 

ドラマ「カルテット」のアリスは鏡の中にいた。まるで世界に自分しかいないみたいに孤独だった。「私が誘ったらあなたは鏡みたいに返事をする。当然でしょ」。だから、サンドウィッチマンの人がつれない応えを返したとき、アリスは自身の思考外にいる異人に出会った。「私の誘いを断るなんて、理解できないわ」。

 

違う人間と出会うということ、理解不能の言語に出会うということは、孤独でなくなること。しかしそれは理解の外にあるので、アリスとサンドウィッチマンの人みたいに断絶する。「私の魅力を読めないなんて、あなた読解力不足ね」。アリスはそういう風に鏡に閉じたままだった。

 

「鏡」メタ言語の一つで、ある概念を指し示している。メタ言語というのはすわりが悪いなあ。言語はそのまま「メタ」だもの。それはともかく、言語には言語の正しさを証明する術がない。それを使用して流通し続けることで、流通が証明され続ける。翻って「鏡」の方はというと、鏡は言語外言語の一つなのだけど、こっちは通じることではなく描かれることでその概念が証明される。流通しない絵の具だ。

 

 

 


アリスの幸せは、彼女の魅力を読解可能な人に、読んでもらって理解してもらうこと、つまり、彼女の価値を認めさせ流通させることだった。マキさんたちの幸せは、鳴らすことだった。カルテット・ドーナツホールの幸せは価値を認めさせて流通させることではなかった。悲しい話だけど、描く人たち、鳴らす人たちへのエールとも読めるよね。

 

 

二人にしか分からない会話

 

大河ドラマおんな城主 直虎」で、直虎と政次の最後の会話は二人にしか分からないものだった。あの会話の場面にいた人物たちは二つに分かれる。「二人の会話が分かる人(直虎と政次)」と「(分からないことすら)分からない人」。ドラマの視聴者は直虎と政次にしか分からない会話が分かるはずだ。物語を俯瞰で見ているのだから。


わたしも視聴者だから分かるわけだが、大抵の場合、わたしは分からないことさえ分からない側にいるので、ドラマを見て困惑してしまった。


わたしは分からないことさえ分からない側にいる。

 

あの場面で、直虎と政次の会話は言語外言語で交わされた。二人は言語外言語でしか話せないところに追い込まれてしまっていた。ああ、嫌だ。わたしはやっぱり、なんでも言語化できると思い込んでいる人たちや、言語化に悪いことがないと思い込んでいる人たちが嫌いだ。「私は読める、分かる側にいる」という大いなる思い込みの中に閉じている人たちが嫌いだーちくしょー。


物語を読んでも、分からないことさえ分からない側にいないと信じられるなんて……。

 

「読む」の中には変身が含まれる

 

 

からだ?

 

そう、身体めあてだよ。
君の身体以外を僕が慰められると思わない。
心やそっちは、芸術家に任せるよ。

 

愚痴くらい聴いてほしいのに。

 

そんなのお安い御用だけど。
君はずいぶん自分を低く見積もっているんだね。

 

 

 

色気?この語が何を指すのか忘れちゃった。そう、昨日、わたしの文章を読みかえして「子供っぽい」「色気がない」と思ったんだ。

 

読むことについて。わたしは自分の読みをちょっとは信頼してる。むかし、ある本を繰り返し読んでいた。その本に書かれていることがわからなかったのもあって繰り返し読んでた。日本語に翻訳された文章(原文は仏語)だったのだけど、あるときに、日本語の向こうに原文が透けて読めた。「この段落の定冠詞と不定冠詞の訳し方、おかしい」。そのときにオッケーかなと思った。自分の身体は捨てたもんじゃない。何度も読んでいればその文章に乗れる運動神経はあるんだと、自分の読みを信頼した。

 

日本語に翻訳されたわたしの文章の向こうに、原文が透けて見えるかな。

 

「読む」は例のごとく故障している語で、いろんな行為を含んでる。たとえば、変身も含んでる。読者が著者に変身することもある。気づいた瞬間には一気に変身していて、気づかない間には少しずつ変身する。わたしの場合は、あの原文が透けて読めたときに「いつのまにかわたしは著者の側へ近づいていたのかも」と思った。

 

「読む」の中には変身が含まれる。

 

だから、「読む」の中には変身する行為と変身させない行為が同居していて、それらは区分けでは相反しているので、めちゃくちゃだ。わたしの「読む」と誰かの「読む」は異なる卵で、異なるものが生まれる。

 

たくさんの人たちが文章を書くのはいいことだと思う。著者になれば、伝わらない通じない境界にぶつかるから。わたしは、通じない伝わらないのはあたりまえだと頭で分かっているので、頭の中では伝わらないのを人のせいにしない。その代わりに身体が人のせいにするのだけど、それはおいといて、わたしの頭の中ではこんな風に整理されている。伝えたいと描きたいのどちらが優勢か。

 


愚痴なんていつでも聞いてあげる。でも、君の心はそんな安い行為で癒されはしない。せいぜい先延ばしされるだけさ。だから、そっちは芸術家に任せるよ。

 


絵を描く人たちは伝えたいと思って描かないんじゃないかと考える。伝えたい人たちと描きたい人たちがいるんだと、わたしの中では整理されている。この区分け線も渚のように曖昧なのだけど、整理は整理。そして、言語を絵の具のように使おうとすると、既に混ざった色なのでね。使えないなあと思うわけ。

 

この絵の具をアップデートするにはファンキーな身体がいる。翻訳された日本語の向こうに読める原文。その原文の向こうに透けて見える原文の原文。そういう風に原始の方へ進んでいく。

 

 

 
しかし、「伝えたい」という語が指し示しているのはなんだろう。この語もいろんなものを内包している。それを使っている人たちの中には「屈服させたい」という原文を翻訳して「伝えたい」にしちゃってるのもいる(極端な例だけど)。でも、伝えたいと言っているのだから伝えたいんだと自分が嘘をつかされているとは露にも思わなかったり。「伝える」という混ざった色がそれを塗りつぶしちゃう。ああー、そういうすれ違いも描きたいなあ。

 

長い文章を書けるというのはすごいと思う。わたしは気を抜くとバラバラの単語や短い文章しか出てこない。うん。自分の文章を読みかえすのは面白かったよ。それは自分の文章を読みかえすというより、ログたちを一つの長い文章として読むということだけど。だから、他の人のブログを読むときも更新された最新のそれと昔のログを合わせて読んだりする。ぶちんと記事単位で切られているのを繋ぎ直すのは読者であるわたしの領分。これが楽しい。

 

ツイッターはブログよりもっとぶつ切りだから、いかんね。繋げる楽しみがない。あそこではもっとはっきりとした分かりやすいキャラクターが求められて、その要求に応じてしまうのがいかん。ブレない一貫性が性格に求められたりして、ふざけた人はずっとふざけをまじめに続けるみたいな、よくわからない閉じ込めがある。まあ、ツイッターに限ったことではないが、人が広告化してる。

 


でも、長い文章は読みたくない。大変だもん。
最初の段落が気持ちよく読めるのが重要なんだろうなあ。そうしたら長くてもいける。ふひー。そういうの自分にも書けるようになるのかな。書けるようになりたい。


眠くておちそう。

 

身体めあてだよ


君が走るときの地面になりたい♪

脚が僕を跨ぐ内腿を見たい

それは美しいにきまってる

地面になって見てみたい

イエー最高の気分さ

君も誰も見たことのない

それは最高の気分さ


たくさん歩いた。今日は刑事みたいに歩きまわった。歩きながら小さな声で歌ってた。タイトルは「身体めあて」。いい曲だよ。少し自分の書いた文章を読みかえした。だいたいよかったのだけど、しかし、読みたくなるような美しい身体かと自分の文章を問うと、うーん。うーん、なんだろう。子供っぽいというか色気がないというか。まあ、これからかな。それは。

 

朝、眠くてさあ

 

般若のような顔を枕にこすり付けて眠りから覚めはじめる。「うあー」とか「あうー」とか咽喉をふるわせて、やっとこさ床から這いあがる。立ち上がり方を忘れていない身体機械に任せてモゾモゾ身を立てて、重い頭が落っこちないようにそろそろと運ぶ。洗面所で口腔の黴菌を洗い流す。レバーをあげると行く場所を得た水と圧力がジャージャー流れて、少しだけ眠気も一緒に流れる。用足しにトイレに入る。トイレ。この一人部屋の専門家はお布団みたいに心地良い。咽喉のように門をふるわせて快感回路を再生する。「我用を足す、故に我あり」。今朝もわたしの我に不調はない。好調に存在している。

 

そんなこんなで、布団へ戻って眠るという選択肢が実行困難さのため、消えてゆく。手を洗ってパンを齧って支度する選択の方が……、くっ、くやしいけど、簡単なの……。わたしはペタペタと裸足を鳴らして簡単な方へ歩いていく。ヨダさんのお天気検定のころには、般若だったわたしの顔が電車やバスの乗客みたいな無表情になった。この電車は生活号、生活号、職場行でございまーす。


イヤホンから流れてくる曲はそれを聴くというより他の音を聞かないために機能してる。たとえば、布団に戻って眠れという子守唄が聞こえないように。「ねむれーねむれーははのてにー」。まずい。ヨダさんが天気を説明する音で耳に蓋をする。このあとのスッキリ?PON?バイキング?知らないよーそんな番組。働きに行ってきます。


最近ねむくてねむくて、ダメだあ~~~

 

 

小麦の奴隷の妄想

 

「サピエンス全史」を読み進めてる。

 

つらくて不安定な狩猟採集生活から幸せで安定した農耕生活へ……という定説を覆して、農耕生活のダメなところがバンバン書かれていて痛快だった。同じものばかり食べる農耕民は病気になる。密集生活で疫病が蔓延しやすい。農業は人体に不自然な動作を強いるので腰が痛くなる。労働時間が長くなる。「サピエンスは農耕という不幸を選んだ」「人類は小麦の奴隷になった」。いいぞーもっと言え言えーって感じ。

 

子供が増える。

 

移動生活から定住生活へ移行して子供が増える。二重の意味で増えると思う。狩りよりも農耕の方が、パターン化できる変わらない情報で攻略可能なゲームだと思う。農耕は単純化された作業と伝達できる知識でいけるはず。上司と部下、教師と生徒のような関係でいける。素直によく命令を聞ける指示待ち人間(子供みたいな大人たち)が大勢いた方がいいと思う。狩りの方は、単純化、マニュアル化するには芸術的すぎる作業だ。

 

本には、農耕でたくさんの子供が養えるようになるが、爆発的に繁殖していくサピエンスを養うために加速的な耕作地の拡充が必要になり、農耕は不幸なブラック重労働を再生産し続ける。みたいなことが書いてあった。

 

なんで養わなきゃいけないんだ?殺せばいいのにと思うけど(人権の発明以前の話)、労働力不足だろうね。常にマンパワーが不足してるからどんどん増やさなきゃいけないし増えるからマンパワーが不足する。元祖自転車操業の農耕。


農耕のいいところを考えてみたのだけど、数が多くて戦争に勝てるくらいかなあ。密集して暮らしてるので情報が伝わりやすくなるとか。移設する必要のない建造物を構築できるとか。その技術が発達するとか。うーん、この辺はよくもあり悪くもあり。


あと、「愛」の発明は農耕と切り離せないと思う。愛と名がつけられて呼ばれているものは、95%くらい農耕由来。農耕は守ったり伝えたりしなくちゃならんから。もっと考えると欲望もそうだろう。欲望も農耕由来だとわたしは妄想する。富や所有、嫉妬や裏切りの形がはっきりするのも農耕以降なはず。


たぶん。

 

有史以前を妄想するのは楽しい。わからないから。小麦奴隷の思考ではわからないから面白い。言語奴隷の思考ではわからないから楽しい。原始を妄想するのは自由で、のびのびと考えられる。現代の不幸もほとんど農耕の発明品だと思うと、パンやケーキ、小麦製のそういうのって罪深いね。

 

文章も農耕民的な伝達のそれと、狩猟民的ファンキーなそれと、分けて読んだら面白そう。

 

 

石炭

 

石ころみたいなわたしでも、熱く、石炭みたいになることはある。石炭たちがたくさん集まるインターネットの炎上は、SLを走らせる代わりにそのエネルギーでもって広告収入を稼いだりするんだってさ。温かさを集めて保っておくのは難しいことだ。魔法瓶や発電所をわたしは思い浮かべた。

 


 

 

逃げよう石ころ。また熱くさせられる。冷えたらまたくべられて温度を保てなくなったら捨てられる。「炎上」に近づいてはいけない。

 

「ああ、全然わかってねえな先生」

「なにかに使われる石ころは悪いもんじゃない」

「そのうちに」

 

彼は述べた。

そのうちに、自分で自分を叩いて熱を出すのを覚える。誰かの熱にあてられて熱くなるのはいい。俺が薄気味悪く思っているのは自分を叩いている連中だ。誰かを叩くのは笑えるが自分を叩くのは笑えない。自分を叩きながら笑ってる連中の方が薄気味悪いね。


野蛮な男、彼は他人を殴る快感を知っている。私は知らない。それで彼との会話はいつもうまくいかない。

ああいう焚き付ける、炎上に加担してはいけないと私は思う。私たちの熱なんて人肌程度のものだけど、それらが数字になって集まって足されて、燃えるような温度に見えてしまう。燃えてるなんて錯覚。集まった人肌温度を足してしまう眼が燃やしているだけ。そんなのに感化されてこっちが焦げてしまうのは愚かよ。

 

「錯覚だろうが使えるなら使う」

加担してはいけないだって?なんだそのルールは。おまえがそれを守るのは勝手だが俺に押し付けるなよ先生。それとも親気取りか。おまえの言うことを聞いたら俺を気持ち良くしてくれるなら別だ。赤の他人だろう、赤の他人とは交渉するんだよ。知らなかったのかい。

石ころは得にならない話をありがたく拝聴するほど愚かじゃない。あんたはどうして恥じずに無知を晒してしまうんだ。滑稽で笑えるぜ。あんたが軽んじている男に滑稽だと笑われるのは我慢ならないだろう。そら、顔が石炭みたいに赤くなってきた。

 

 

 

母は小言を言って

 

一人暮らしのわたしの部屋に母がやってきた。

 

掃除をしなさい自炊をしなさいと、母は母の役割通りに娘の耳をふるわせた。子供のころに「勉強しなさい」と言われても勉強しなかったわたしを覚えていても、あきらめるわけにはいかないのだろうか。母はずっと言う役でわたしは聞かされる役のまま母子のかたちは変わっていない。先輩の教えは絶対!みたいな体育会系の部活かよ。かたちを保つにもパワーが必要で、親子のかたちや先輩後輩のような秩序のそれは、小言パワーで保たれている。


母は小言を言って母の役をこなす程度に元気だ。親子関係の底辺であるわたしのダメなところをいちいち指摘して、役と母子劇の正しく美しい変わらないかたちを刻印して母は帰っていった。代わりにお米や里芋と鶏肉の煮物などを置いていってくれた。

 

役は人にセリフを用意してくれる。劇には脚本があるから振る舞いを自分で考えなくて済むうえに忙しい役割を与えてくれる。母は忙しく娘を育ててきた。普通に大人まで娘(わたし)を育てられたという結果に依存して誇っているようにも見えた。母と呼ばれる正しく美しい図形を保つのは困難な事業で、とてつもない苦労と我慢の持続を要求される。母親という役割に課せられる無限の母性は、わたしみたいな言うことを聞かない子供に対してもずっとずっと無限に指図を続けなくてはいけない。その背負う使命の重さに遠慮して、子供は彼女の小言を聞く耳を持つ。親だから言うことを聞くのではなく、先輩だから聞くのではなく、私みたいな娘の面倒をみるのは大変だろうから、私は母の小言を聞く。

親子という脚本に従属している娘のわたしと、劇場から離れて役の重さを量っている観客のわたしがいる。だから、母の小言は半分ずつ二人のわたしの耳に入ってくる。

 

いつから心が一人部屋になったか

 

昨夜、サピエンス全史を少し読み進めてから眠った。


近ごろはドラクエ11がおもしろくて本を読むどころではなかった。ゲームのストーリーを進めたくて物語の先を読みたくて、つい、長い時間やってしまう。ドラクエの物語の流れは結末に向けてどんどん流れている。そこにずっと身を浸していたくなって、なかなかゲームコントローラーを手放せない。「サピエンス全史」にも物語のことが書かれていた。たとえば、株式会社という物語について。こっちのそれは結末に向かうおもしろさではなく、終わらないと信じられている流れそのものに生活を浸す物語だ。会社物語は終わらない物語だと信じられている。わたしはサピエンス全史の著者と違って、終わらない物語を物語と呼びたくないので「式」の語を使いたい。会社という式は F=ma みたいな、信じる信じないを越えた不滅の制度式。面白かったり面白くなかったりする物語とは違う語でわたしは呼びたいと思った。

物語について書かれた本を閉じて眠るまでの間に、わたしは「いつから心が一人部屋になったか」について思いだそうとした。この問いも過去に解いた問いで、わたしは答えを忘れてしまっていた。自分の心が一人部屋になって、同時に、他の人たちの心も一人部屋になるというのは換言すれば自我の発生ということだけど、自我とそれを呼んでしまうとよく分からないので「一人部屋になる」と呼んでいる。物語や式は一人部屋になることと切り離せない。つまり、自我は集団的なもの。自我自体が多くの人に信じられている終わらない物語であって、F=ma みたいな信じる信じないを越えた式だ。「心が一人部屋なのは、あたりまえ」「会社が不滅の物語のように」「F=ma みたいに」「見えないが共有されている」「集団的なあたりまえ」

 

わたしはそういうあたりまえがどんな風に生まれたかをいつも考えてしまう。誰もの心が一人部屋になる偽りの孤独のせいで、そういうあたりまえを考えるのが面白い流れそのものなんだ。ここからドラクエ11のネタバレを含みます。

 

 

ドラクエの敵ボスの名はウルノーガ。

ウルの町はメソポタミアにあったアブラハムの故郷。ウルのー我。聖書とキリスト教が一人部屋に果たした役割は大きい。ウーノ、ただ一つ。一つ、二つと数を数える手の指。足の指は大地を掴むのに忙しくて数えるどころじゃない。PS4のアナログスティックを親指で動かしながら、わたしはドラクエの脚本を読む。力に魅せられた魔術師とか、友人の眼に映ろうとして復讐に身を落とす従属者とか。物語に登場するキャラクターたちは昔から変わらないパターンを受け継いでいる。なのにすごく面白い。ストーリーもキャラクターも昔どこかで読んだ式の寄せ集めなのに面白い。変わらない夢のおもしろさ。会社みたいな不滅の式が組み合わさって、結末へ向けて流れていく物語のおもしろさがドラクエには詰まってる。いいなあと思う。おもしろさが羨ましいと思う。わたしも物語を書きたいぜー!

 

 

読みの要求

 

読む。消費として読んだり、使用として読んだり、対話として読んだり、慰めとして読んだり、読む行為を分ける線が様々にあって、わたしも自然にそれらを分けながらいろんな文章を読んでいる。あるときは消費者として読んで、あるときは対話者として読んだりしてる。読者はそのように変身する。なので、たとえば「読めていない」と言うとき、それが消費できていないという意味なのか、対話できていないという意味なのかは分からない。

「読む」。曖昧すぎる語だなあ。それなのに、このエクリチュールはなにか一つを指し示している。


教師に叩かれている男の子たちがいる
少女がそれを見ている
少女の眼は男の子の痛みを量る


なぜ、少女の眼は少年の痛みを読めるのか。この問いの最初の解は「それを読むのが簡単だから」。叩いている教師の気持ちを量ったり、教師と男の子たち両方へ感情移入するよりも、少年の痛みを量る方が少女にとって簡単だから。

だいたい、わたしたちは自分の読めるものを簡単だと思う。簡単だから読めるので、ほかの人も読めて当然だと思う。でも、読むというのはその語が示すなにか一つではないので、しっちゃかめっちゃかになる。

 

圏外人間

 

 

「分からない」と言ってはいけない

それは変だ。分からないと、分かってるじゃないか。「分からないという状態を分かっている」、君のそれは、なに? 嘘をつく言葉と言語に閉じ込められたそれ。分からないことは「分かる」とか「分からない(と分かる)」とか表している外側にあるよ。

 

「わかりたくなる」。以前に、奇特な人がわたしの文章にそうコメントしてくれた。「分からない」ではなくて「わかりたくなる」はうれしい。一緒にわかりたくなろうぜ!わたしはそんな気分。別の人は「よくわからない」とブックマークコメントをしてくれて、うんそう、わからないだろうけど分かりやすくは書けないんだ。なぜって、わたしたちは、既存の言語が隠しているものや、その故障に手をかけているから。言語が見せてくれる夢の中から夢を外に破ろうというのは何十年も前から多くの人たちが始めている作業で、わたしたちはそっちに行く。言語の巣から出て壁の外へ、砂漠へ、圏外へゆこうとするのだから通信が途切れてあたりまえ。「わからない」はたぶん「(私には)通じない」ということだろうけど、そりゃあ、悲しい苦しいあたりまえ。

 

圏外言語でしゃべれば異国人。でも、既存の言語はブラック企業みたいなもので「通じるように話せ!」というきつーーい命令が、それはそれで苦しーーい業務命令がくだっているのさ。通じれば伝わればそれで必要十分な人たちはブラック企業でも活き活きとしてる。もしかしたら活き活きと見えるだけで苦労しているのかもしれないが、苦労するだけの価値はある。価値はある? ええとたしか、価値は、通じたり伝わったりすると同時に生まれるものだから、ほとんどその通じようとする苦労と価値は同じものだ。

「こんなに苦労して伝えようとしてるのに!」

または
「こんなに悲しいのが伝わらない!」
「伝わらない悲しさは」
「なぜ、こんなにも「私」なのだろう」

 

なんて経済的なんだろう。

 

なんで、そんな経済のしくみをわたしたちの身体は知っているんだっけ。どこかで人質をとられたんだ。人質は生き続けている。わたしたちは人質を見殺しにする。この選択ができるかどうかが第一の試練で、もしかしたら最後の試練かもしれない。正常な人たちは人質の価値を共有してるからブラックな社会から逃げ出せないし、ブラック言語はその弱みにつけ込んでいる。

「話が通じない奴は」
「狂人だ」
「異常だ」
「さあ、通じる言葉で話せ」

夢の言葉で話せ。俺たちと同じ故障の言葉で話せ。夢じゃないし故障もしていないというのがブラック企業人たちのお決まりのセリフ。既存の言語が流通しているのは揺るぎない現実だし、流通している範囲内でその流通は故障なく稼働してる。だから、夢でも故障でもない。うーん。たとえば、使えて通じればそれでいい人たちと、電話がどんなしくみと原理でできてるか知りたくて分解する人たちの差かな。わたしたちは、「分かる」が何なのかわかってから「分かる」って言いたくて、「知る」って概念が何を指すのか知ってから「知る」って言いたい。言語機械や物語機械がどんな風にできてるのか分解してから……、分解したら通話できなくなっちまうわけよ。圏外人間。

 

圏外人間。仲間から外れた人たちは、壁の外について描いたり、トビウオや境界線について書いたり、鏡や自転車について書いたりする。既存言語の外にある言語はそういうので描かれていて、わたしにはそっちの方が、よく分かる。そっちの圏外言語はアップデートされているから。

誰が作ったのか知らないけど、既存言語は、古くて使いにくいUIのままで全然アップデートされてない。翻って圏外言語の方はというと、それを作ってきた人たちや作っている人たちの手で、使いやすく扱いやすく日々更新されている。圏外言語の方がずっと読みやすくて分かりやすいのはそういうことなのだ。ほんっとありがたい。それがなかったらと思うとゾーッとする。

 

既存言語のUIは自動車に似ている。アクセルとブレーキを踏み間違う事故が多発していてもデザインは変えられない。その決まったデザインに運転する人たちが合わせる。注意していれば、慣れていればアクセルとブレーキを踏み間違えない。事故は決められたルールをきちんと守って、自動車のUIを間違えないで使えれば起きない。自動車は故障していない。ブレーキとアクセルを踏み間違える運転手の方が故障しているんだ。

 

自動車の数百倍くらい既存言語のデザインはブラックだ。

 

けれど、いくら事故が起きてもその形は変えられない。既存言語で上手くやっているたくさんの人たちがその形を変えさせない。わかりあえないことだけをわかりあうのさーなんて歌って、踏み間違い事故を防いでいたりする。アクセルを踏むときもブレーキを踏むときもそーっと踏めばいいさ。「わかりたい」なんて思わないこと。強く「わかりたい!」って踏んでしまうと分からなかったときのショックが大きい。何ごともそーっとそーっと踏む。大げさな幸福も深い不幸もいらなくて植物のような生活がほしい。強く望めば叶わなかったときの失望も深いのだから。それが平穏に過ごす諦めのスタイル。

「踏み間違うのだったら、踏まなければいい」
「わかりたいなんて望むからいけない」

 

わかりたいなんて望むからいけないということが、わかった。

いつもそうよブラック言語の人たちは。「わかった」ときつくブレーキを踏む。通じただけなのにわかったと嘘をつく。わかったということは、その形やしくみを描けるということじゃないの?「わからないということが、わかった」なんてギリギリとブレーキを踏むその脚で、石でも蹴っ飛ばした方が断然かっこいいのにね。